マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『滝平二郎展』を観る(その2)

2013年08月31日 | 映画・美術・芝居・落語

 木版画家として画業をスタートさせた滝平二郎は、1960年代には本の装丁や挿絵といった出版美術の仕事に本格的に取り組み、きりえによる表現を加えた独自の画風を生み出した。1963年には斎藤隆介作品の挿絵(木版画)を始め、、以降斎藤隆介作、滝平二郎挿絵の、絵本の児童名作の数々が生まれる事となる。「八郎」や「花さき山」・「モチモチの木」などである。(写真:「モチモチの木」より)









 特に「八郎」の主人公で、山を持ちあげるほどの大男八郎の物語は、滝平の版画ときりえを併用した絵によって、圧倒的な迫力で私に迫って来る。更に、「花さき山」と「モチモチの木」は岩崎書店出版の作品で、家人の親友ハルコさんが編集をした作品なので、念入りに見入った。「花さき山」は、”自分の事より人の事を思って辛抱すると、その優しさと健気さが、花となって山に咲き出す”ことを山姥に教えて貰った少女あやの物語で、毎日自宅で見ているカレンダーの絵と同じ様な雰囲気の絵が一連の物語を構成し、そこに登場する少女や山里風景に懐かしさと親しさを感じるのだった。(写真:「花さき山」より)
 彼がその「花さき山」により、初めて賞らしい賞を受賞するのは49歳のとき。1970年での講談社第1回出版文化賞受賞は、世間が彼を認めるには、遅きに失したと言うべきだろう。


 
 展示の最終コーナーには朝日新聞日曜版に連載されたカラーのきりえが登場。着物姿の子どもたちを主人公に、さまざまな行事や遊び、人々の暮らしのひとこまなどが、四季折々の美しい風景と共に描かれている。”輪まわし”、”はと笛”、”竹馬”、”坊主がり”、”灯ろう流し”、”衣がえ”、”花火”、”十五夜”、”もちつき”、”こたつ猫”などは、私が幼い頃に経験したり、見たりした風景で、そうだ、そうだったのだと、ひとりごちた。

 ”物語と人間が好き”との彼の言葉が紹介されている。”愛しさ、美しさ、純真さ、そしてちょっぴりの不安と悲しみ。滝平の抒情の奥から、人間へのあたたかな思いが伝わってくる”とのまとめに、私は頷いた。(写真:きりえ「竹の子」)



          (きりえ「若葉の候」:背景は故郷の山の筑波山か)


『滝平二郎展』を観る(その1)

2013年08月29日 | 映画・美術・芝居・落語

 8月22日(木)~23日(金)、かねて誘われていた「滝平二郎展」鑑賞を主目的に、郡山・那須方面を旅してきた。誘ってくれたのは尾瀬組(ヒロさん・トモさん・家人)の3人。家人の親友のハルコさんが滝平二郎の絵本の編集者で、またその夫さんの会社が、昨年「滝平二郎カレンダー」を制作した関係もあって、「郡山市立美術館」で開催されている展覧会を見学に行こうとの話がまとまっていて、誘われればNOとは言わない私も同行する事となった。
 ヒロさんは急用で行かれなくなり、結局3名で、東北新幹線を上野から乗車。郡山でレンタカーを借り、トモさんの運転で、まずは市美術館へと向かった。
 滝平二郎カレンダーは毎日見ているので、彼の、郷愁を感じさせる絵には親しみを感じてはいたが、この展覧会を通じて初めて、彼の経歴や作品制作への真摯な思いに接し、一気に彼のファンになってしまった。それほど迫力ある展覧会だった。



  


 鑑賞前にその建物を前にして「郡山市立美術館」の建物の立派さに驚いた。1992年(平成4年)11月開館の、地下一階、地上二階の低層な作りの建築だが、1994年に第35回BCS建築賞を、1998年には 公共建築百選に選ばれた建物との事。(写真:市立美術館側面)








   (上の写真とは違う違う角度から見た美術館


     (美術館へのアプローチ)

 さて彼の経歴の主要ポイントを外観してみる。
 1921年(大正10年)茨城県新治郡玉川村に、農家の次男として生まれる。
 1942年(昭和17年)臨時召集令で入隊。
 1945年(昭和20年)沖縄本島での激戦のさなか、米軍に捕えられ九死に一生を得る。
 1946年(昭和21年)日本美術会に参加。再び版画を始める。
       漁民や農民の生活を題材にして、社会へのメッセージを強く意図した作品を多数発表。
 1963年(昭和38年)「日本教育新聞」連載の、斎藤隆介作品の挿絵(木版画)を始める。
       このことが切っ掛けとなって、以降斎藤隆介作、滝平二郎挿絵の、絵本の名作の数々が生まれる事となる。
 1967年(昭和42年)木版画ときりえを併用した「八郎」刊行。
 1969年(昭和44年)木版画による「ミコ」・きりえによる「花さき山」刊行。
 1969年~1970年朝日新聞家庭欄に毎週月曜日「週のはじめに」と題してきりえ連載。
 1970年(昭和45年)「花さき山」により、講談社第1回出版文化賞受賞。
 1970年~1978年朝日新聞日曜版にカラーのきりえ連載。
 2009年88歳で没する間、多くの絵本を刊行。

 彼の初期の作品は版画が中心だった。戦争体験や働く農民の姿などをテーマとした写実的な作品が展示されていたが、特に私が注目したのは、沖縄で米軍に捕えられる直前の逃亡生活を描いた図。地を這いまわり、密林に逃げ込み、空腹に耐えかねて、意識朦朧とし、もう死を目前にしての自分を振り返る図。反戦の、声高々にした主張では無いが、反戦への強い思いを如実に物語る版画群だった。絵本やきりえについては次回のブログで。


『変化朝顔』展示会へ

2013年08月27日 | 東京散歩

 8月25日(日)、小雨降るなか、日比谷公園で開催された「変化朝顔」展示会へと出掛けた。数ヶ月前に読んだ、朝井まかて著「花競べ」には、江戸では、武士のみならず、町民・庶民の間でもガーデニングが盛んであったと書かれ、主人公は「花師」である。又、梶よう子著「一朝の夢」は、やはり江戸時代、朝顔栽培に情熱を傾ける同心が活躍する物語である。それらの本を通じ、江戸時代の植木栽培にやや興味を抱いていたところ、あるパンフレットを読んで、変化朝顔というものの展示会があることを知り、物見高い私達は早速出掛けたというわけである。
 変化朝顔研究会のパンフレットには、変化朝顔について、次の様に書かれている。
 『「変化朝顔」は、江戸時代から200年をへて現代まで愛好家の間に綿々と伝えられてきた「古典園芸植物」のひとつです。とても朝顔とは思えない、特異な花を咲かせる日本の誇る特種な植物です。各展示会場に数多くの種類、美麗極まる大変貴重な逸品を、一堂に集めての「変化朝顔」展示会です。』と。





 早速覗いてみると、日頃見慣れた朝顔とは全く違う姿をした、華麗な趣の花々がそこにはあった。小ぶりな鉢に植えられ、名を付けられたひと株に、数個の
花が咲き、これが朝顔と教えられなければ、とてもそれとは知れない姿・形である。研究会の副会長さんの話には、何とかと何とかを掛け合わせて、との話が登場するが、私の全く知らない世界。ただ「朝顔は、その種(たね)をいろいろと組み合わせることによって変化がもたらされるらしいこと」を再認識する。
 「黄色い花は咲かないのですか」と、バカな質問を敢えてしてしまった。「あれは小説の世界の話ですよ」と笑われてしまった。「一朝の夢」では主人公が、黄色い朝顔を咲かせた方がいたと聞いて、自分もその黄色い朝顔を咲かすことを”一朝の夢”とする物語で、その可能性はありと、私は思い込んでいたのだ。「そんな可能性は全くなく、せいぜいクリーム色どまりです」とも付け加えられた。黄色い朝顔は存在しないのだ。その話を聞いたあとに観た、茶色の変化朝顔が新鮮に感じられ、その名を読むと”姫茶”とあった。花の名を覚えるのが苦手な私だが、この朝顔の名は忘れないだろう。(写真:姫茶)


            (姫茶)






     
 毎年7月28日~8月3日は日程固定で、7月下旬の善光寺(春日)と、8月下旬の日比谷公園は土・日で展示会が開催される事も知った。日程固定の展示会では、大輪の朝顔と共催展示されるそうで、来年の手帳カレンダーには記入を済ませた。
 雨に打たれて水滴を付けた朝顔が清々しく感じられた。


「同期会」で懐かしい生徒達と再会

2013年08月25日 | 身辺雑記

 昨夜、向丘高校1988年3月(昭和63年)卒業の同期会が開かれ参加してきた。私にとって4回目の卒業生達(向丘高校では2回目の卒業学年)。向丘1回目の卒業学年の同期会はこの5月19日(5月21日のブログ)にあったばかりで、しかもこの日は大泉高校定時制の同期会と重なっていたから、私が担任した生徒達の同期会は正に”花盛り”である。
 昨夜の同期会以前の、今年の5月にプレ同期会を開いたらしく、私はこちらには不参加だったので、昨夜は25年振りに再会した元生徒さん達が多数に上った。
 開催場所は、池袋にある東京芸術劇場2階のイタリアンレストラン「アル テアトロ」。出席者は元教員3名(菅原さん Kさん 私)に生徒は40名近く。私が1年の時担任をしたE君が中心になって、学年全体に呼び掛けるのではなく、友達のツテでの連絡のみので参加者を募っての事。
 立食形式での食事・飲み物が用意されてはいるが、全員が座れるだけのテーブルと椅子も配置されていて、完全な立食形式ではない。3人の教員を中心に会話の輪が出来て、そこで思い出話に話が弾んだ。私が結婚式でスピーチをやった旧姓Nさんが卒業アルバムを持参して来ていたので、勢い、そのアルバム写真が多くの思い出を導きだしてくれる。2年生の時に行った修学旅行が印象深かったらしく、ひとしきりそこに話題が集中。
 
 その修学旅行は、私にとっても格別の思い出があり、忘れ去っていたその時の事を、まざまざと思い出させてくれた。
 行った先は島根県六日市町。1985年に、西武百貨店で開催された”百一ヶ村展”の様なイベントに六日市町が出店していて、偶々それを見学に行った私が、ここへ修学旅行に出掛けての農作業体験はどうだろうと考えたのが発端。学年会で承認され、K先生とT先生を中心として構成された修学旅行委員会が、何度もなんども町の担当者と連絡を取って実現に至ったもの。そのころでの、農作業体験による修学旅行のハシリで、生徒達は農家に分宿しての農作業体験。NHKテレビで取材された生徒もいた。
 2日目の湯田中温泉では、芸能大会をやった。合唱が主だったと思うが、各クラスから出し物があり、、旧姓Nさんが副委員長を務める修学旅行委員会からは”先生方もなにかやれ”との注文があり、「高校3年生」を熱唱して大いにウケタ。服装は生徒に持ってきて貰った”学ラン”が効果を一層高めたらしい。
 3泊目は宮島でクラス分宿。私の2組は、菅原さん担任の1組と同宿で、二人して生徒の部屋に入って生徒と共に、他の先生の”ものまね”に興じた。この宿に、他に先生はいなかったので、定刻を過ぎても良い事にしようと二人で申し合わせ、1時間ほど就寝時間を遅らせてしまった様に思う。今こんなことをやったら懲戒免職になるかも知れない。その菅原さんと、今年槍ヶ岳に登るまで付き合いが続くことになるとは、その時は全く想像もしなかった。
 教員からしてこんなに思い出す事が多いのだから、彼らが強烈な思い出を抱いても不思議は無い。都立高校に多くの自由があったころの話である。
 再度の同期会にも出席するよと約束して帰ってきたが、K先生と元生徒多数は2次会へと繰り出したようだった。


『大妖怪展』を観る

2013年08月23日 | 東京散歩

 8月21日(水)、Fさんと家人と私の3人で、三井記念美術館を訪れ、大妖怪展ーーー鬼と妖怪そしてゲゲゲーーーを観て来た。いつものようにFさんにチケットを用意して頂いての鑑賞。ただただ有難いの一言。
 普段の三井記念美術館と違い、親に連れられて会場から出てくる子供達の多い事に驚きながら、エレベーターに乗車して気がついた。妖怪を好きな子供たちが、夏休みを利用して、多数やってきているのだ。かく言う私も、浮世絵に登場する妖怪に会いたくて、この日の来るのを心待ちしていた。
 展示室1・2に、妖怪の登場する浮世絵が展示され、展示室4では「鬼と妖怪」と題して、鬼神・天狗・山姥・怨霊・百鬼夜行・動物の妖怪などの”おどろおどろした”世界に導かれる。展示室5では江戸時代から明治時代に登場してきた妖怪が紹介され、展示室7で、現代の妖怪画として水木しげるの絵が大量に展示されていた。







 要するに、中世から近世までの日本人の妖怪変化の歴史を、能面・絵巻・浮世絵・版本などの優れた作品でたどり、最後に現代を代表する水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」へとつながる妖怪の系譜が見渡せるように工夫されているのだ。
 どの作品からも、恐ろしさやおどろおどろしさでは無く、ユウモアや可笑しさが
感じられる。特に、故事を知っている、月岡芳年の浮世絵が、私には楽しかった。
   
 老婆鬼腕を持去る図         源頼光土蜘蛛ヲ切ル図     和漢百物語 貪欲ノ婆々