マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

何故「江戸橋」と名付けられたのか(一つの推測を知って)

2023年05月19日 | 東京散歩

 毎週日曜日に宮下公園でのラジオ体操にお邪魔している。その宮下公園が、この4月1日からリニューアル工事の為閉鎖され、ラジオ体操の会場が1年間ほど「江戸橋公園」(俗称「ロケット公園」)に変更となった。公園は山手線沿いで、宮下橋と江戸橋の中間の、山手線の内側にある。
 公園の名前を聞いて、長い間疑問に思い、それなりに調べ、最後には何故かは分からないままになっていた疑問が頭を擡げ始めた。何故「江戸橋」と名付けられたのか、という疑問が。その橋に続く通りは「江戸橋通り」と呼ばれているが、その通りにも「江戸」の痕跡は見当たらないのだ。
 豊島区の図書館に「江戸橋」で検索をかけると『江戸橋町会全史』“創立110周年を迎えて”がヒットし、早速借りて来て読み始めた。令和2年10月に発行された、A3の実に立派な町会史だ。その町会史に、江戸橋町会の歴史と名前の由来が書かれていた。









 明治43(1910)年に「江戸橋睦会」として発足した現江戸橋町会の名称は、町会を南北に分ける現山手線に架かる江戸橋から来ている。その江戸橋の名前の由来を『全史』は次のように予測している。「「江戸橋」という名称は近くに居を構えた徳川慶喜公の威光を残し、尊敬を込めて命名されたと思われます」と。(写真:徳川慶喜屋敷跡の説明版に見える慶喜邸の位置図)





 この推測をより深く読み取る為に、明治30年~明治36年の歴史を列記してみる。
 明治30年 徳川慶喜、11月静岡から巣鴨一丁目(現巣鴨駅近く)に移り住む。
 明治34年 徳川慶喜、巣鴨より小石川区小日向に転居。(巣鴨邸付近で始められるであろう豊島線(現在の山手線)の巣鴨駅工事による喧噪から逃れるためと伝えられている)
 明治36年4月1日 田端⇔池袋(豊島線)開通。大塚駅・巣鴨駅開業

 ここからは私の推測も加わるが、本郷台地を開削して進められた豊島線の工事で、巣鴨⇔大塚間の3つの跨線橋もほぼ同時に完成したはずだ。巣鴨駅から大塚駅にかけて順に、「巣鴨橋」、「宮下橋」、「江戸橋」である。巣鴨橋と宮下橋はその橋がある町の名前から直ぐに決まったが、江戸橋の名前は直ぐには決まらなかったのではなかろうか。『全史』は次のように記述している。「本来ならば、巣鴨駅前の橋に江戸橋と命名されてもおかしくはないのですが、畏れ多い名称なのであきらめたのではないでしょうか」と。(写真:宮下橋から見る江戸橋)

 それならまだ名称の決まっていないこちらの橋に、慶喜公に因んで「江戸橋」と名付けてしまおうという「暴挙」に出たのでは、と推測している。

 要するに橋完成2年前まで付近に住んいた慶喜公に縁のある江戸という名前を拝借して「江戸橋」と名付けた、との推測である。私はこの推測を支持したい。(写真:金網越しに見える江戸橋)


江戸城外堀跡を歩く(その4)

2022年07月29日 | 東京散歩

 7月21日(木)、江戸城外堀跡を牛込御門から虎ノ門まで歩いてきた。前回までは高石垣で守られた堀跡を雉子橋から虎ノ門まで“時計回り”に歩いてきたが、今回は谷を利用した土手による深くて広い堀を見ながら“反時計回り”に散策してきた。
 牛込濠から新見附濠、市ヶ谷濠へと続く濠は緑色した水面が美しい。更に真田濠へと進むにつれて標高は上がっていくが真田濠は完全に埋められていた。喰違土手からは下りとなり、弁慶濠を経て赤坂門へ。溜池だった赤坂門から虎ノ門までには濠の面影は見いだせなかった。(写真下はガイドブックより)

 

 21日は大江戸線を飯田橋駅で下車し、地下道を10分ほど歩いてB3出口から地上に出るとそこは神楽坂下だった。現在は早稲田通りだがかつての上州道。そのまま真っすぐ江戸城に向かって進めば内堀に面した田安門。左手にJR飯田橋駅を、右手に牛込濠を見ながら牛込橋を渡ると牛込見付けで、道の両側に石垣が見られる。




 寛永13年(1636)に徳島藩主蜂須賀忠英により桝形石垣が造られ、明治35年(1902)に門の一部が撤去されたが、外堀のなかでは良く石垣が残されている箇所だ。石垣の脇には蜂須賀家を示す「🔲阿波守内」と記された石垣石も残されている。(写真右は阿波守内と書かれた石垣石。下はかつての牛込見附門)



 ここから土塁に上がると、牛込濠が良く見える。何度も歩いたコースで見晴しの良い散歩道。土塁の下には中央線や総武線が往来している。千代田区側の土塁から対岸の牛込台を望むと、広い谷地形が形成されていることが実に良く分かる。堀は神田川の支流たる紅葉谷を利用して築かれたそうだ。(写真下は牛込濠脇を走る総武線)




 

 牛込門と市ヶ谷門の間に1929年建造された新見附橋がある、ここから市ヶ谷までの堀は新見附堀と呼ばれていて、両濠に水面差はない。(新見附橋下を走る総武線。下は新見附濠)








 

 市ヶ谷門は津山藩森長継により桝形石垣が造られたが、門は明治5年に撤廃され、大正2年に石垣は全て撤去されたが、橋台石垣(写真右)は良好に残されていた。






 市ヶ谷門から四谷門へは外堀通り側に降りて、外堀の外周を歩いた。この間はかなりの急な上りである。かつての東京女子マラソンのなどをテレビ観戦していると、「ここは急こう配でランナーを苦しめています」と語られていたあの箇所である。こちらから見ると市ヶ谷堀はすぐ目の前に見える。土手側との高低差は10mはあるだろうか。(写真右は市ヶ谷濠。下は『江戸見附写真帖』による明治初年の市ヶ谷門)

 

 四谷門は萩藩々主毛利秀就により桝形石垣が造られたが、明治5年に撤廃されてしまった。四谷門から喰違土手の間を初めて歩いた。
 高く盛られた土手からは遥か眼下に真田濠跡が眺められた。多くの労力を要しただろうことが容易に想像出来た。猛暑の日ではあったが、森林浴に楽しみながらの散策は気分爽快だった。(以下次回へ) 
 
  
 
 
 


隅田川七福神を巡る

2022年01月28日 | 東京散歩

 新春の1月5日(水)、ラジオ体操仲間の中村さんに誘われて、隅田川七福神を巡ってきた。参加する前には何も調べていなかったので、どこが出発点でどこをどう回るかも知らなかった。
 駒込駅→(山手線)→日暮里駅→(常磐線)→北千住駅→(東武スカイツリーライン)→堀切駅 と電車を乗り継いで下車した駅は堀切駅。初めて下車する駅で、実にローカルな雰囲気が良い。



 下車して直ぐにそこが荒川土手付近だと分かった。ただ跨線橋から見えた細い川は私の知らない川だった。帰宅後調べると旧綾瀬川。かつては隅田川に注いでいた綾瀬川は荒川放水路の切削に伴い、分断され、残されたのが旧綾瀬川。七福神へ向かう前に面白い風景が見られたのだった。



 さて七福神は、多聞寺→白髭神社→向島百花園→長命寺→弘福寺→三囲神社と回った。七福神の多くは隅田川と並行して走る墨堤通り沿いにあり、隅田川上流から下流へ向かっての散策だった。以下に一口メモを添える。

 ①多聞寺(毘沙門天)・・・多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。またの名を多聞天とも云うとのこと。なるほどそれで多聞寺かと納得。




 榎本武揚像・・・白髭神社に向かう途中に武揚の立像が建てられていた。佐々木譲著『武揚伝』を読んで間もなかったのでその前に立ちたかったが、道路反対側を進んでいたので写真撮影に留めた。
 彼は、晩年、向島の風光に魅かれ、向島須崎村(現・向島五丁目)で暮らしたが、その中でも向島百花園は特に気に入っていた。墨堤の桜の歴史を残すための「墨堤植桜碑」に揮毫するなど、向島の地に大きく貢献し、馬で木母寺(現・梅若公園)あたりまで散歩したことにちなんで、公園に銅像が建っているそうな。

 ②白髭神社(寿老神)・・・七福神は多聞寺とここ白髭神社の間の距離が一番長い。およそ1100年前、近江国の白髭大明神の分霊をここに祀ったのが起源とされる。隅田川七福神誕生の際、最後までこの地に寿老人が見つからず、白髭大明神の名前から白い髭を生やした神様を連想させるとし白羽の矢が立った。ここでは「寿老神」と呼ばれているそうな。境内には下の写真の、立派な神輿が置かれていた。



 ③向島百花園(福禄寿)・・・何故百花園の中に七福神の一つがあるか不思議だったが、説明文を読んでその謎が解けた。
 文化元年(1804)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが、園主佐原鞠塢(きくう)が福禄寿を祭っていることを知り、隅田川東岸にも七福神が揃わないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故を持つ神社仏閣を探し出したという故事があるそうな。この福禄寿が隅田川七福神発祥の出発点だった。


 ④長命寺(弁財天)・・・三代将軍家光が鷹狩の途中で腹痛をおこしたときこの寺で休息。境内の井戸水で薬を飲むと快癒し、喜んだ家光が井戸に「長命水」の名を与えたことが長命寺の由来とか。家光は多くの所に鷹狩に行ったなと思う。ここの弁財天は琵琶湖の弁財天の分身で通称「老女弁天」と呼ばれているそうな。そのお姿は拝見しなかった。それよりも「長命寺の桜もち」が気にかかり「山本や」へと急いでしまった。
 

 ⑤弘福寺(布袋様)・・・実に立派な山門と風格のある本堂だった。唐風建築様式とか。このお寺さんが今回の七福神の巡りのなかで一番印象に残った。







 ⑥三囲神社(恵比寿神・大国神)・・・この神社を訪れたのは4・5年前のことだったろうか。石像のライオンの印象が強い。ここに七福神が祀られていることは知らなかった。しかし何故2つも祀られているのか?日本橋の三越との縁が深く、そこより恵比寿神と大国神の二つを贈られたかららしい。 




 



Bーぐる本郷・湯島ルートと傘寿と

2021年10月08日 | 東京散歩

 文京区コミュニティバスに第3の「本郷・湯島ルート」が加わり、9月30日(木)から運行が開始されている。このルート、文京シビックセンターを起点として、25のバス停で構成され、主に本郷や湯島を巡る循環コースだ。バスに限らず地下鉄などの交通網が増えていくことは嬉しい。運行開始前からわくわくし始め、9月24日(金)にその一部を歩いて来た。バスに乗車してルートや停留所の位置を知ってしまう以前に、コース概略の地図を頼りに停留所を探すのが面白いことを昨年冬に知った。







 さて、実踏の24日は①のシビックセンターから⑨の御茶ノ水駅前を経由して⑰の上野松坂屋前まで歩いた。春日通り、本郷通り、千川通りなど全て歩いたことのある道路上にバス亭は造られているので停留所発見は容易だった。ただ、バス停は右写真の様に未完成で、停留所名などは埋め込まれてはいない。紙の時刻表が貼られているのみだ。この循環ルートの1周の所要時間は50分と知った。
 このルートを見て、妻は都バスで御茶ノ水まで行き、そこからこのルートを利用して上野松坂屋まで行きたいとのことだった。画材店「トゥ―ルズ御茶ノ水」で孫たちの遊び道具を購入し、その後、上野松坂屋下車後「吉池」で刺身などを仕入れたいとのこと。私の傘寿の、祝いの刺身とご酒の調達が目的だった。

 10月1日が私の80歳の誕生日で、傘寿だった。ただこの日は教え子の「ひろこのうたうおはなし会」に出席することにしていたので、傘卒での一献は2日に日延べしていた。そこで2日に新ルートに初めて乗車し、吉池で刺身とご酒「〆張鶴 純米吟醸」などを買い終えて帰って来た。一献始める直前に義妹夫妻から焼酎3本セット「田苑」が届き、妹夫妻から貰った「〆張鶴」と併せてまずはこちらから味わった。共に旨い酒だ。二人だけの静かな宴だった。






 10月5日にラジオ体操を終了後、都バスで本駒込5丁目から上野松坂屋前へ。⑰から歩き始め㉓の菊坂通りを経て①のシビックセンターに。これで本郷・湯島の全コースを歩き終えた。



本郷台地の東端を歩く(東大浅野キャンパス その1)

2020年01月27日 | 東京散歩

 「弥生二丁目遺跡」を捜しに出掛けた東大浅野キャンパスは不思議な空間だった。正門の壁には弥生式の土器の像などが貼られ、妙な形をした建物もあった(右写真)。そこで「遺跡」に辿り着いた後にも2度3度と浅野キャンパスに出掛けている。“浅野”の由来なども調べてみた。(キャンパスの地図は最下段に2枚掲示)


 キャンパスへのアプローチは本郷通りからだと、農学部を過ぎてから言問い通りへと左折し、暗闇坂への道は通り越し、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑のある地点を右折すると、漸くキャンパス正門(右写真)に辿り着く。途中の塀には地名の由来などが書かれていて、それらを整理すると、

 この辺り一帯は江戸時代は水戸藩の中屋敷で、屋敷内には9代藩主斉昭が建てた歌碑があり、向ヶ岡弥生の地名はそこから来ていた。即ち「文政十余り一とせという年のやよいの十日
 名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐいなき花の影かな」と刻まれていた。明治になり町屋が作られた折、この歌碑から町名は「向ヶ岡弥生」と名付けられた。「東京江戸重ね地図」で調べると、水戸藩中屋敷は現在ではそっくりそのまま弥生1丁目と2丁目となっている。
 又、安芸広島藩最後の藩主浅野長勲は明治22年に「本郷区向ヶ丘弥生町」に土地を取得し、浅野侯爵邸と呼ばれる屋敷を建てた。その屋敷の大部分が大学の敷地になったことに由来して浅野キャンパスの名が付けられた。2丁目は1番地から11番地までしか存在しないが、広大な浅野キャンパスは11番地のみに存在していて、ここには工学部と理学部があり、武田先端知ビルやアイソトープ総合センターなどもある。(写真:正門に貼られていた弥生式土器の写真)
 平成13(2001)年にはキャンパス内から弥生時代の墓2基などが発見・発掘されていた。それは次回に。