マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『案山子』(さだまさし)から出発して

2010年01月31日 | 身辺雑記

 一昨日(1月30日)の朝日新聞朝刊の別刷り『be』に「孤独を耐える姿をかさね」と題して、さだまさしの「案山子」が紹介されていました。最近こういった文章に直ぐ反応します。そういった内容のものを欲していると言っても過言ではないでしょう。さだまさしのファンではありませんし、音楽に疎いので「案山子」なる曲を聞いた記憶もありません。
 隣に乗った「津和野城址」からの写真を見て、「あっ」と思いました。37年前新婚旅行で訪れた時に見た風景が広がっていたからです。
 故郷を離れて行った子を思う親心が、歌詞からダイレクトに伝わり、胸が熱くなります。「e3」面まで一気に読みました。
 『2005年、島根県出身者約2万人のもとに、手紙が届いた、差出人は、当時の澄田信義・同県知事。受け取ったのは、07年以降に定年退職を控える団塊の世代の人々だった』。ふるさとへUターンを呼び掛ける趣旨の文章に、さだまさしさんの「案山子」の歌詞の一部が添えられていた、と続いていました。
 故郷の活性化を狙うこの企画、様々な波紋を広げた様子の数々が書かれていました。また「案山子」の曲に、自分の気持ちや思い出を重ねてしまう聞き手が多い様子も紹介されていました。
 
 その記事の中に気に掛る一文がありました。『インターネットの動画サイト「YouTube」。そこで見られる、さださんが歌う「案山子」には、視聴者からの熱い談話が寄せられている』と。「YouTube」サイトへ到達すれば「案山子」が無料で聞けるのかと思った私は早速、検索を始めたのですが、有料かも知れないとの心配もあり、上手く到達できません。「パソコン教室」の開始時間も迫り、慌てて自宅を飛び出しました。
 自転車に乗り、教室に向かう時に気がつきました。今日のパソコン教室は”なんでも”相談会。今日はこの事を聞いてみようと決めました。
 なんという事もなく簡単な事でした。多くの人が知っていて私だけが知らない事であったかもしれません。
 次の3つの操作で目的地に到達できる事を教えて頂ました。
(1)「Google」で検索し、次の画面1を表示する。

           
(画面1)

(2)その画面1でやや左上の「YouTube」をクリックする。

(3)その結果現れた、次の画面2の検索欄に聞きたい曲や落語名等を入力する。


          
 (画面2)

以上で終了で、後は登場して来た動画から何を選ぶかです。歌われた場面が「NHK紅白歌合戦」であったり、最新曲はなかったりしますが、曲のみ3番まで流れる曲もあります。好みの曲を聴きながらメール出来る様になりました。


ダイヤモンド富士((その1)

2010年01月30日 | 身辺雑記

 昨日の1月29日あたりに、我が家から「ダイヤモンド富士」が見られるかも知れないと推測し、友人のSさんに、わざわざお越しを頂きましたが、残念ながら日の入り20分前に、太陽は雲の中に沈んで行き「ダイヤモンド富士」は見られませんでした。

 富士山の東側では、自分の位置と富士山を結ぶ直線上に太陽が沈んで行く時にダイヤモンド富士が見られます。富士山の西側では、自分の位置と富士山を結ぶ直線上から太陽が昇りくるときに「ダイヤモンド富士」が見られます。私が住む富士山の東側では、もう少し分かりやすく言えば、富士山頂に沈みゆく太陽を「ダイヤモンド富士」と言います。山頂に沈み行くとき、太陽がダイヤモンドの様に美し輝く事から「ダイヤモンド富士」と呼ばれ、山の向こう側に沈んでも目の錯覚から、こちら側で光っている様に見えるとも言われています。
 各地に、その絶好の観察点と撮影スポットがあります。この”おっかけ撮影”をしている人もいるほど「ダイヤモンド」に魅せられている人がいるようです。東京都では高尾山頂が有名ですが、我が家から半径3kmの範囲以内では「文京区シビックセンター」と「サンシャインビル」が”名所”です。北側に位置するほど「ダイヤモンド」到来が早く、その一覧表を見ると「シビックセンター」は2月1日~2日と予想されていました。私も一度「シビックセンター」の展望台を訪れた事がありますが、もの凄い人の波で、早くから陣取らなければ、絶好の撮影場所は確保できなほどでした。
 「シビックセンター」にしろ「サンシャインビル」にしろ絶好な写真撮影に適しているとは言え、”地上”から見える地点ではありません。地上から「ダイヤモンド富士」を見てこそ、その価値は高いと考える人達がいます。その目的を持った人々は場所探しに苦戦を強いられます。都会では高層ビルが多く建ち、最早23区の地上から富士山を眺めるのはなかなか難しくなっていますが、荒川区にある「富士見坂」からは辛うじ「ダイヤモンド富士」が眺められるので有名で、今年は、今日「ダイヤモンド富士」が眺められたようです。
 私は”地上”にこだわらない様になってきていました。昨日我が家から「ダイヤモンド富士」が見られるかと期待して友を招いての”ダイヤモンドの夕べ”を企画していたのですが、残念ながら見られず、生ガキとすき焼きのパーティに切り替えました。
 お出で頂いたSさんが帰宅した後、いとせめて「シビックセンター」から富士山を撮影した写真を見てもらおうと思い付き、その写真を撮影したKさんにブログ上に公開しても良いですかとのメールを打ちましたら、OKの二つ返事。そこで今日のブログに使わせて貰おうと考えていた矢先、「今日、富士見坂からのダイヤモンド富士撮影して来ました」とのメールが入り、写真が添付されていましたので、こちらの写真も使わせて頂く事にしました。今日は我が家から1日遅れの「ダイヤモンド富士」が見れましたのでこちらも写真を載せる事にしました。

 写真その1は、2001年にKさんが「シビックセンター」から撮影したもの。右の建物が都庁です。太陽が右斜面を転がるように沈んでいったそうです。
 写真その2は、同じくKさんが翌日に撮影した、新宿ビル群の間から顔を覗かせる
富士で素晴らしい風景
 写真その3は、パノラマ写真
 写真その4は、「富士見坂」からの今日の「ダイヤモンド富士」
 写真3から4もKさん撮影のものです
 最後の写真が今日私が
マンション9階から撮影したものです。

 
         (写真その1)

 
          (写真その2)


         (写真その3)


                     (写真その4)


ブログ作成を一部修正

2010年01月29日 | 身辺雑記

 今日は”舞台裏”の話です。
 ブログに関して、困っている事や、少し改善したい部分があり、東京都行政書士会文京支部のホームページを作り変え、研修会で「I T活用法」の講師を勤められた有馬さんにお出で頂ました。
 困っていたことは「コメント管理」です。書いた内容に相応しくなく、卑猥な言葉のコメントにはお引取り願いたいのが偽らざる心境。他の方のブログから、”検閲制度”がある事を知っていましたが、コメント設定を変えるのに些か不安があり、昨日まで待っていました。
 改善したかった点は、画像の直ぐ右横にコメントを書くこと。「goo」では簡易な方法は無いらしく、ほんの少し難しい操作を教えていただきました。練習を重ねてやって見たいと思います。

 有馬さん、「gooブログ」作成のあれこれについて、多分初めて見たにも関わらず、スイスイと私の疑問点や注文事項に答えて下さいます。多分ブログ作成に共通に流れる、”地下水脈”を知っているからかなと推測。
 あと数点ブログに関してお聞きした後、「Google」を利用してのホームページ(以後HPと記します)作成を教えてもらいました。「I T活用」の講習会で話された部分です。忙しさを理由に”復習”をしていませんでしたので、一から教えていただき、記事を書き込める場面まで到達。後は私自身の努力と習熟に待つところなりました。
 このブログを書き始めた動機は「一応の”完全解”を見出した数独(又はナンプレ)を、解り易く説明したい」にありましたが、それにはブログよりHPの方が相応しいと感じていますので、その解説をHP上に公開したいと思っています。非力故どうなるかは分かりませんが、強い思いだけはあります。

 パソコンから離れ、暫しお喋りをしました。印象批評ですが「有馬さん 文京を愛しているな」と感じました。私は「駒込」や「やねせん」が好きです。その地域を頻繁に散歩し、そこに住む方々と会話を交わすにつれて、その街がより好きになって行きます。有馬さんはより広い地域「文京」に思いが向いている様です。 
 地域をより活性化しようと活動を続けたり、より良い街作りに励む何人かの人を知っています。「宮元睦会」の中心メンバー「ミート青木」の青木さんや、常盤台で「まちつくりニュース」を自力で発行し続けるSさん。これらの方々に接し、お話を聞くと、こちらが元気付けられます。折りしも2月14日(日)は「宮元睦会」主催の落語の会が「駒込地域センター」で開催され、「橘家文左衛門」「春風亭一之輔」が出演するそうで、この事務局の中心メンバーが青木さんです。
 私は、元気に活躍する高齢の方々の来し方と健康の秘訣に関心があります。その方々にインタビューさせて頂いた記事を柱の一つとした「駒込通信」の様なものが作れればなと考えています。
 
 有馬さんから頂いた、お土産の鯛焼きなどを妻と二人味わいながら、思いを巡らせました。
 


 


『涵徳亭』で賀詞交換会

2010年01月28日 | 行政書士奮戦記

 一昨日(1月26日)、『小石川後楽園』内の『涵徳邸』で、東京都行政書士会文京支部の賀詞交換会があり、出席してきました。

 思えば、昨年1月14日、湯島にある『東京ガーデンパレス』での交換会に出席、この世界への第一歩を踏み出したのでした。その時は右も左もわからぬ”新参者”、今もその事にあまり変わりはありませんが、定期総会を経て一応の役員となり、今年は”裏方”として、ホテルでのクローク係に相当する仕事を担当しました。

 伺った話では、賀詞交換会はこの数年間『東京ガーデンパレス』で行われていたようですが、新執行部は文京区の施設に詳しいKさんのお勧めで、ここ『涵徳邸』に”衣替え”して賀詞交換会を実施したのです。

 「交換会」は6時30分を少し遅れて開会。主催者を代表して、行政書士会文京支部長と政治連盟支部長の挨拶の後、東京会からも挨拶があり、その後元支部長の発声で乾杯。来賓挨拶へと続きます。
 パーティの形式は立食パーティーのうち、立食の部分を椅子着席に変えた形式。しばしの歓談・飲食では、私は文京支部新入会員の多いテーブルに座り、名刺交換をしました。新入会員といっても、大学を卒業間もないという方は皆無で、皆さん色々な経歴の後に行政書士に辿りついた方々ばかり。なんと年齢68歳の新人Kさんもおられました。このKさん某大企業在職中の平成3年に資格を取得し、退職して数年後の昨年、初めて行政書士会に入会されたとの事。会話の中で「私は都市対抗野球では応援団長を務めていました」と。良く通る大きな声の秘密が分かりました。
 
 今年の新趣向として、歓談の途中にアトラクションの”クイズ大会”が用意されていて、司会は和服姿が良く似合う、私と”同期生”のM女史。文京区に因んだクイズを○×で答えさせる出題を次々と正解を続けた人が優勝という形式のクイズ大会。初めての試みは大いに盛り上がり成功裡に終了。
 皆さん大いに飲みかつ歓談を交わして1時間ほどで、とりあえずの中締めになりました。そこへ飛び込んできたのが、内閣総理大臣補佐官の中山義活衆議院議員。東京2区選出の民主党議員で、昨年の衆議院議員総選挙で返り咲いた方。遅れて来たことを詫びた後「皆さん方には、生活にお困りの方々のお話をしっかり聞いて頂きたいと思います。更に、皆さまでは解決できない事柄を私たちにぶつけて下さい」と立石に水の挨拶。多くの共感を呼んでいました。

 会が始まる前から感じていたことは、この『涵徳亭』の素晴らしさです。『小石川後楽園』は勿論、かつての水戸藩の上屋敷跡。その中の一角にあるこの『涵徳亭』については、インタネット上次のように記されています。
 <
本園創建時代に造られた萱葺の茶室で硝子紙をもって障子としたため「ガラスノ茶屋」と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤が涵徳亭と名づけた。現在の建物は4代目で昭和六十一年に再建した。>


            (建物入口)


        (和室の一つ)


       (裏側から見た涵徳亭)

 現在、内部は洋室が4つ、和室が2つほど使用可能で、しかもリーズナブルなお値段で洋食も和食も提供されるのです。『小石川後楽園』を鑑賞したのち、この優雅な建物内で会食とくれば、クラス会にはもってこいの場所だなとの印象を持ちました。

 賀詞交換会は記念撮影を最後に終了。新執行部最初の交換会も無事に終え、役員の皆さんは喫茶店で反省会。私は翌日に入試業務があり、早朝出勤の為帰宅を急ぎました。


『五能線』の旅(その2)

2010年01月26日 | 

 漸くの想いで 『五能線』に乗車したのは旅の最終日(3日目)でした。  1日目と2日目は、東北の城下町「鶴岡」と「酒田」へ。ただ、短時間の滞在でしたから、多くの名所旧跡は巡り歩けませんでした。簡単な印象記述にとどめますが、「鶴岡」は端正な佇まいの地方都市。『致道館』で1日に16時間も学んだ生徒達の真摯な姿勢に襟を正される思いでした。藤沢周平記念館はまだ完成せず、今年の4月29日が開館予定日だそうで、”海坂藩”へは何れ日を改めて、訪れたいと思います。


                
(致道館入口)

 「酒田」はかって商都市かつ港町として賑わいを見せた都市。今は「山居倉庫」にその名を残します。あちこちに「店舗売ります」の看板を見かけ、地方都市衰退を目の当たりにし、厳しい現実を再認識するのでした。

  
         (山居倉庫) 
 

  
         (本間家旧本邸) 
                 
 「本間家旧本邸」では、本間家3代目の光丘の志高い樹林事業を知り、感動しました。 この日も猛烈な吹雪。猛烈な寒さの中の散策と見学でしたが、何処を訪れても若い方々が親切で、初々しく丁寧な応対。心地よい印象で酒田を後に秋田へと向かいました。                    
 1月23日(土)、漸く秋田発8時25分の「リゾートしらかみ1号」に乗車。この「しらかみ1号」はここ秋田から青森までを5時間7分掛けて結びます。しかし正確に記すとまだ「五能線」乗車ではありません。秋田→東能代間は奥羽本線の上を走り、東能代→川部間が五能線、弘前→青森間で再び奥羽本線上を走ります。


        (レゾート しらかみ)


      (しらかみ1号は ブナと命名)


      (東能代が五能線の起点です)

秋田で乗車し、座った席は進行方向右側。「え!」と思いました。この席は”海がわ”では無いのです。おかしいと思い、早速車掌さんに聞いてみました。「東能代でスイッチバックがあり、そちら様の座っている席が海がわになります」を聞いて一安心。  
  8時25分漸く出発です。目的の「リゾートしらかみ」に乗車出来、いよいよ冬の日本海の荒涼とした風景を堪能できるかと思うと気持ちが昂ります。私たちが乗車したのは3号車で、東能代までは先頭車となりますから、早速運転席の直ぐ後ろに陣取りました。座り易い腰かけ椅子が備付けられていて、そこに座って暫し風景を楽しみます。辺りは一面雪に覆われ、白一色の平野が続きます。前を見ると、線路がただただ一直線に、長く長く延びているのでした。 「東能代」で進行方向が逆になり、私たち3号車は最後尾となります。この「しらかみ号」幾つかのイベントが用意されていて5時間以上の乗車に飽きが来ないような様々な工夫がされていました。「五能線」に入って最初の停車駅「能代」ではホームに降りて、バスケットのフリースローが出来ました。見事籠に入れば商品がGET出来ます。私も投げましたが、無情にもボールは籠の外へ。僅か5分の停車、慌ただしく出発進行!です。         (
 次の停車駅「あきた白神」では「あきた白神駅観光駅長」の今井昌子さんがお出迎え、とパンフレットに書かれていましたから、デジカメを持って慌てて駅舎改札口まで移動。秋田美人をバッチリ撮影出来ました。


       (あきた白神にて) 
      
  ここから先の「千畳敷駅」までが絶景ポイントです。撮影を狙う人々の動きが激しくなり、車内も騒然としてきました。列車は速度を落としての運転に変わりました。時速20kmほどの超ノロノロ運転で、景色をゆったりと眺められるようにとの配慮です。海の色が黒のみでは無い事に気がつきました。蒼みを帯びた黒です。雪と波しぶきの白と、海の蒼みを帯びた黒、景色の色はその2色のみのコントラストがどこまでも続くのでした。


      (車窓からの日本海)


      (荒涼たる風景が続きます)


 鰍ケ沢を過ぎると「間もなく1号車で津軽三味線の生演奏が始まります」との車内放送が流れ、1号車へと急ぎました。年配の方とお若い方の2名による生演奏が始まりました。直ぐ前で聞き入りました。凄い迫力です。特にお若い方はある大会2連覇を成し遂げたとか。年配の方が謡った民謡も哀調を帯び、万雷の拍手受けました。


       (車中での津軽三味線演奏)

 生演奏が終わると間もなく「五所川原」到着。列車から「津軽鉄道のりば」の看板と駅舎が見え、列車も微かにその姿が望めます。太宰の故郷「金木」はこの沿線にあります。  

   
        (津軽鉄道のりば)

 太宰だけでなく、高校時代の教え子Fさんの故郷「小泊」(今は町村合併で中泊と)もこの鉄道沿線にあります。中学を卒業直後、故郷を後にしたFさんのみならず、下北半島の脇野沢から、定時制高校を卒業した昭和43年に上京したSさんも青森県の出身。なんと遠くからの、希望と不安の入り混じった上京であったことかと、はるけくも来た旅の空から、感情移入してしまいます。旅は感傷旅行でもありました・・・。 列車は「川部」で五能線から奥羽本線となり、進行方向を変えて弘前まで。弘前からは再度進行方向を変え、一路青森駅を目指し、13時32分青森に到着し、5時間7分の長旅を終えました。 青森から「特急スーパー白鳥」で八戸へ。八戸から魚市場「八食センター」へ向かうバスの中から、なんと夕陽が見え始めました。日本海へでは無く、山の端へと沈みゆくオレンジ色の夕陽でしたが・・・。どんよりとした雲と吹雪に閉じ込められた日本海側から太平洋側へとポジションを変えた旅の終わりに、夕陽に巡り合え、Tさんも満足そうでした。