マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

伊勢ノ海部屋稽古総見・忘年会

2016年12月30日 | 街道を行く

 1229日(木)の昨日は、私が後援会々員となっている伊勢ノ海部屋の稽古総見と忘年会だった。稽古総見を見るのは5月に続いて2度目。その時は贔屓の勢は両国に稽古に出掛けていなかったが、今回は錦木ともに稽古に参加し、両者の激しい申し合わせを見学することも出来、満足度が高かった。

 朝815分、既に稽古は始まっていた。見物側板の間には座布団が敷かれ、椅子も用意されていた。まだ空いている椅子席に座り、2時間以上の見学が楽に出来たのは有り難かった。布団に座るのは年々辛くなってきている。
 私が最初に見たのは多分、序二段対序の口。番付の最下位同士の稽古だと思うが、頭と頭でぶつかり合っていた。両者の稽古は10番ほどで終了。その後最古参で序二段の藤嵐(39歳)が登場し若手に胸を貸していた。



 伊勢ノ海
部屋は元北勝鬨が第十二代親方を引き継ぎ、力士は現在12名。幕内に2名の関取を擁するが、十両・幕下はいない。三段目や序二段などが10名。彼らの稽古の間中、勢と錦木は入念は四股を踏み、鉄砲を繰り返していた。
 10時を回った頃からいよいよ勢と錦木のブツカリ稽古が始まった(二人の廻しは白)。それまでの稽古とは比べ物にならない迫力。こんなに間近で関取同士の稽古を観るのは初めてだ。6番連続して勢が一方的に錦木を土俵の外へ押し出した。土俵の脇に立つ立川親方(元土佐ノ海)から錦木に檄が飛んだ「二人とも幕内なんだぞ」。
 気合を入れ直したか錦木、やっと勢を押し出した。それでも立川親方の声は錦木に向かう「早く手を付こうとしている、そうではなくて立ち上がってからぶつかるまでを速くするんだ」と、相撲で一番大事な立ち合いに注文を付けた。申し合わせは13番で勢の112敗。
(写真:左が勢、右が錦木)
 
 

 ぶつかり稽古が終わると、関取以外は四股を40回。足の屈伸トレーニングが30回。最後に股を土俵につける動作を繰り返し漸く稽古終了。最後の最後に神棚に手を合わせて総見終了とあいなった。
 稽古終了後は忘年会設営の準備のため後援会会員は外へ。外へは錦木がやって来た。会員の子どもさんのご指名で写真を撮るためだ。私も早速撮影。眼鏡を掛けると錦木はユーモラスな顔になる。この錦木は勢とともに鶴竜の土俵入りを勤めた日もあった。豊真将の役割を錦木が引き継いだ形だ。(鶴竜の土俵入り。露払いが勢で、太刀持ちが錦木)



   
      (股割で顔を顰める錦木)                   (ニコヤカな錦木)

 寒空ではあったが、外での会員同士の会話は弾む。佐々木改め漣(さざなみ)も現れた。四股名を何と呼ぶかで会員は盛り上がる。漣は岩手県出身の16歳で体重は95Kg。応援したくなる雰囲気の力士だ。(写真:漣)
 そういえば、部屋では初場所から四股名を改める力士が3名もいる。漣以外では、築本→荒虎、花井→京の里。錦木もそうだが、伊勢ノ海部屋は伝統ある力士名を意識的に採用している。勢・頂・漣と一文字の四股名が3名にもなった。




 その後の忘年会への参加者は50人以上。その内半数が女性にはびっくり。司会は話術巧みなマネージャーの浅坂さん(元雪光山)。私は用事があり会半ばで中座しが、初めて食したチャンコ、3ばいもお代わりしてしまった。
 
18日から始まる初場所。伊勢ノ海部屋の力士応援するだけでなく、熱戦に声援を送りたい。(男子席は土俵側。女子席は板の間。女子会の雰囲気だ)







   
          (勢も参加)                   (若手がお代わりを持ってきてくれた)

 今日の一葉(快晴の下の富士山。この麓で大学女子駅伝)
    


オンディマンドで”御柱”を観る(最終)

2016年12月28日 | 考古学

 (4)「弥生の神と縄文の神は融和し御柱祭が残った」
 
しかし、紀元前3世紀、縄文王国諏訪も遂に弥生の波に飲み込まれ、米作りが始まった。押し寄せた農耕文化はある外来の神に重ねて語り伝えられてきた。神の名は建御名方命(タケミナカタのみこと)。鹿や鷹などを殺して農地を拡げ、田畑を耕して国を拓いたという。そのタケミナカタが諏訪にくるまでの来歴が『古事記』に記されている。建御名方(タケミナカタ)の故郷は古代の日本の先進地出雲。父は大国主命。
 
出雲で豊かな国を築いていた大国主のもとへあるとき高天原からアマテラスの使いが下りてきて国を譲るよう迫った。その要求を拒んだのが大国主の息子タケミナカタ。高天原の使いに力比べを挑む。しかし相手の手は鋭い氷となり、更に鋭い刃となった。恐れをなしたタケミナカタは出雲から逃げ去った。長い逃避行の末辿り着いたのが諏訪。この地で農耕を広めたタケミナカタは諏訪大社の神・諏訪明神として君臨することになった。
 考古学者岡村氏曰く「縄文から弥生の権力者交代を語るのが神話だと思います。諏訪では、1万年間、豊かで安定した暮らしぶりと精神文化が発達していたわけですよ。その上に米作りが入ってきて、その米作りを持ってきた人たちが新しい権力者となり、弥生の流れを汲む神を頂点に頂くことになった」と。

 その中で何故巨木を祭る縄文の神が生き延びたのだろうか。諏訪に伝わる文書によればタケミナカタに抵抗する為立ち上がった神がいた。それはもともと諏訪を治めていたモレヤという神。狩猟に長け、大地の精霊の声を聴く。モレヤはタケミナカタの侵入を阻もうとした。長い戦いの末モレヤは敗れた。しかし意外なことにタケミナカタは戦いに敗れたモレヤを滅ぼそうとはしなかった。(写真:対立のイメージ)

  

 御柱を曳く氏子の一人に守矢早苗さんがいた。諏訪で最も古い家と言われる守矢家の78代目当主。守矢家は諏訪大社の神事を司る神長官という役職を千年以上前から明治の初めまで務めてきた。(写真:守矢早苗さん)


 (神長官:江戸時代後期の『御柱絵巻』より)

 
守矢家の屋敷に立つ小さな社。縄文人の信仰の流れを汲む祭神を祭っている。祭壇には地元の人たちが供えた鹿の骨や栗。縄文人が暮らしの糧としていた山の幸だ。この神の名は御左口神(ミシャグジ)という、巨木や石に下りて来る土地の精霊と信じられている。ミシャグジを祭る社は諏訪を中心に長野県に700個も残されている。暮らしの中に小さな神々がしっかと根を下ろしている。その総本社がこの社で、御頭(おんとう)御左口神総社。守矢家はミシャグジを人間の世界に下すことが出来る唯一の家と信じられてきた。

 

 縄文以来の諏訪の祈りを守り続ける守矢家。早苗さん曰く「タケミナカタ命が入って来られたときにモレヤの神を家来として、仕えるものとして選ばれたと考えられます。この時から守矢家は諏訪明神となったタケミナカタの下で諏訪大社の神事を司って来ました」。
 出雲から来た農耕の神の下で、縄文と弥生が争い合うのではなく融和していく。岡村氏は語る「征服する、征服されるそういう関係ではなくて、縄文的な祭、縄文的な生活文化をしっかり残しながらそこに米作りが部分的に入って来て、山の縄文と低い土地の水田の神、それが共存しながら上手くやって来た」。

 神話から日本の古代史を読み解いて来た、立正大学教授三浦佑之氏は「縄文から弥生への移り変わりはものすごい長い時間の中で行われた。新しい土地に入って来た人たちは、その土地に馴染み、融和していく必要があるわけですよね。諏訪大社がタケミミナカを奉り、土地の神モレヤがその神のタケミナカタを祀るという構造は“融和”の象徴と言うことが出来ると思います」と。






 5月3日、御柱祭は最後の熱狂を迎えた。上社本宮から船の形をした神輿が現れた。載っているのは諏訪明神となった出雲の神タケミナカタ。社を出て山の神が宿る御柱を迎える。この儀式は縄文と弥生が融和した諏訪の歴史を伝えているのかも知れない。人々は二つの神の出会いを祝福し暮らしの無事を願う。
御柱祭と言う儀式は、日本と言う国が生まれる以前の祈りの世界を今に伝えている、と”御柱”は締めくくった。(写真:到着した御柱を迎える、船の形の神輿)

 
   (諏訪地方には小規模の御柱祭が多数ある)

 数年前、私は守屋山に登ったことを思い出した。実はそこは諏訪大社のご神体だった。とはつゆ知らず八ヶ岳の展望を楽しもうと山頂を目指したのだった。

 今日の一葉(吉祥寺の寒桜)
 


オンディマンドで”御柱”を観る(その3)

2016年12月26日 | 考古学

 (3)NHKスペシャル”御柱”は、御柱祭が何故諏訪地方にだけ残ったをテーマにしていた。私は、その番組には4本の柱があると思った。今日のブログは3番目の柱「弥生文化は諏訪地方を迂回した」について。

 考古学の最新の研究成果は、諏訪が最後の縄文王国というべき場所にあったことを明らかにした。手がかりは全国の遺跡から出土した土器。土器に付着した米や煤の成分を分析することで土器が使われていた年代を推定することが出来る。そこから弥生の文化つまり水田稲作がどの様に日本列島に広がって行ったのかが明らかになった。
 国立歴史民俗博物館が作成した、水田稲作の広がりを可視化した図が図1~図4。
 研究によると縄文時代の日本列島に稲作が伝わったのは紀元前10世紀後半。水田稲作は朝鮮半島から九州へ。(図1)








 九州北部から400年ほどかけて東へ(図2)。









 ところが諏訪を含む中部高地を前に勢いは急速に衰える。そして中部高地を迂回するようにして青森へ(図3)。








 そこから東北各地に南下する。最後まで残ったのが現在の関東甲信地域(図4)。








 日本列島の大半が弥生の文化に覆われるなかで諏訪の縄文人は最後まで水田稲作を拒んだ。それは縄文人に対する旧来の見方を覆すことになった。
国立歴史民俗博物館教授藤尾慎一郎氏曰く「水田稲作が入ってきたら縄文人は直ぐに稲作に飛びつくとイメージされて来た。必ずしもそうではなく、自分たちが稲作はやらない、受け入れないと自主的に判断していたと考えられます」と。
 諏訪の縄文人はある時期までは、米でなく森の恵みとともに生きる道を選び続けてきた。

 NHKスペシャル”御柱”では、私は上の事実に一番興味を覚えた。放射性炭素年代測定
によって土器が使用された年代を推定できる。その資料を基に国立歴史民俗博物館は図を作成したと思われる。この様に科学的方法に拠る成果のほうが、神話を基にした推測よりも私は納得しやすい。この博物館は佐倉にある。秋の佐倉祭とともに是非この地を訪れたいものだ。(次回に続く)

 今日の一葉(昨日撮影の、夕映えの富士)
  


オンディマンドで”御柱”を観る(その2)

2016年12月24日 | 考古学

 NHKスペシャル“御柱”は、考古学上の、最新の成果を取り入れる一方、神話や推測をも交えながら話が展開していった。私は一つの仮説としてこの物語を観たのだが、その話は大変に面白く、説得力のある仮説に思えた。
 謎解きは4つの柱から構成されていた。
(1)縄文時代、人々は森や巨木には神がいると信じ、日本各地に巨木が建てられた。
(2)特に諏訪地方は森と水に恵まれ、黒曜石を大量に産出した。
(3)米作りを伴う弥生文化は日本列島を南より東へと拡がっていったが、諏訪地方を迂回し、本州北端の青森方面から南下し、最後に諏訪地方に到達した。
(4)縄文文化が最後まで残ったのが、北海道は別にして、諏訪地方。神話によれば弥生の神は縄文の神とのたたかいに勝利したが、縄文の神を滅ぼさず融和した。その過程で御柱を建てることは残され、御柱祭へと繋がった。出雲から来た弥生の神は諏訪大社となり、縄文の神は大社の神事を司ることとなった。

 以下は”御柱”を私なりに整理したものである。
(1)「日本各地に巨木が建てられた」
 
御柱祭はいつ何の為に始まったのか。鎌倉時代に柱を立てていた記録はある。それ以前の歴史は謎である。しかし日本列島各地の縄文遺跡には巨木の祭の痕跡が見つかっている。縄文人の主食はドングリやコチ・栗。落葉広葉樹の森から木の実を集め、冬も狩猟の為に森に入り獣の毛皮を刎ね、肉は干して保存食とした。森は生きる為の全てを与えてくれた。
 縄文研究の最前線に立つ考古学者岡村道雄氏は「巨木への祈りが生まれたのはごく自然のこと。当時の人たちは、森や自然など、ありとあらゆるものに神が宿ると考えたわけです。神々に囲まれて生かされ生きている。森といったら巨木。巨木に物凄い大きな神聖性を求めて、その神の力を祭のシンボルにした」と語った。

 巨木の祭の意味に光を当てたのが、富山湾を望む石川県能登町真脇遺跡。柱の一部が見つかり復元されている。環状木柱列と呼ばれ、直径7メートルの円を描く様に立てられた柱は祭祀の跡ではないかと考えられている。(写真:真脇遺跡を真上から見る
 真脇遺跡縄文館館長高田秀樹さんは語る。「この環状木柱列には門扉と呼ばれ、入口と思われる施設が作られています。中心線が後ろの山に向かっていることが分かりました。後ろの山と関係のある祭祀の場所と考えられるわけです」



 更に高田さんは巨木立てるという行為そのものの意味に目を向けた。そのキッカケはこの地で発掘された280頭あまりのイルカの骨。イルカは真脇の縄文人が食料として長年にわたり捕獲したもので、富山湾には春から秋にかけてイルカの群れがやって来る。江戸時代『能登国採魚図絵』には真脇のイルカ漁の様子が描かれている。イルカを入り江に追い込むには沢山の舟で取り囲まねばならない。一つの集落では人手を賄い切れなかった。多くの集落が共同して漁に当たった。(写真:『能登国採魚図絵』より)
 高田さんは巨木の祭には縄文人が他の集落との絆を深める意味があったとも語る。「周辺の村から沢山の人がやってきて協同でイルカ漁をやる。環状木柱列をこれから建てるという時にもその人たちが一緒に参加した。柱を建てる行為自体がお祭りだと思うので、そういうところは今の御柱祭と共通するものがあると思います」

(2)「諏訪では黒曜石を大量に産出した」
 八ヶ岳山麓には、現代でも深い森が拡がっている。縄文時代の日本列島の中で諏訪はとりわけ恵み豊かな地域だった。見つかった縄文遺跡は茅野市与助尾根遺を始め900ほど。これほど遺跡が密集する地域は殆ど例ない。森と共に暮らしを支えたのが諏訪湖の水。湖を中心に拡がった縄文人の集落。諏訪は森と水に恵まれた楽園だった。(写真:黄色の点が諏訪湖周辺の遺跡)




 更に諏訪が日本列島に広がる縄文文化圏の一大拠点であったことが湖の北東で発掘された大量の黒曜石から明らかになった。黒曜石は矢じりやナイフに使われた。下諏訪町の「星ケ塔黒曜石原産地遺跡」から193の採掘跡が確認された。掘り出されていた黒曜石はある穴だけで推定1トン近く。諏訪だけでなく日本各地に流通していた。その範囲は日本海沿岸・北海道にまで及んでいる。諏訪の縄文人は質のよい黒曜石と引き換えに他の地域の産物を手に入れていたと考えられる。(次回に続く)

 

 今日の一葉(琵琶湖付近の、最終の紅葉)
 


オンデマンドで”御柱”を観る(その1)

2016年12月22日 | 考古学

 今年は7年に1度の御柱の年だった。蓼科に別荘があった20年間には3度、その壮大なお祭りを見物した。今年は御柱の時期に別荘解体を予定していた関係で、夏前まで蓼科には全く出掛けなかった。
 春に放映されたNHKスペシャル“御柱”を観て、御柱や縄文文化について新たに幾つかの事を知った。中ッ原遺跡の存在を知り、夏にはそこへ出掛けた。番組は何度も観たいと思える出来栄えだったが、録画していなかった。後の祭りだった。そこで窮余の一策、NHKオンデマンドの継続会員となってしまった。月の払いが972円は痛いが・・・。疑問点もあり“御柱”を何度か観た。

   番組は縦糸の過去形と横糸の現在進行形で構成されていた。二つの糸を交互に登場させる巧みな進行だった。
 過去の糸では、これほどの巨木祭が何故、諏訪地方にだけ受け継がれて来たのか。御柱とは何なのか。その謎解き。
 遥か1万年前、森の中で育まれた縄文人の祈り。やがて日本列島にコメ作りの技術が伝わると時代は激しく動き出す。狩猟に長けた縄文の神と農耕を司る弥生の神。御柱には二つの神の争いと和解の物語が秘められていたとして、聖なる年の熱狂の中に潜む古代史のミステリーに迫る。


 現在進行形の糸では、今年の祭りで氏子たちの先頭に立ち御柱を守り抜く御幣持ちの大役に選ばれた北澤聖顕(まさあき)さんの奮闘記。
 曳く綱の長さは200メートル。3000人を超える人が力を合わせ一本の巨木を曳いていく。かつて諏訪の人達は御柱の年には結婚も葬式も家を作ることもしなかったそうな。長さ18メートル、重さ10トンもある、御柱のなかで最も太い上社本宮の一の柱。その柱の上での、一生に一度限りの重い務めを無事果たした北澤さんの物語が語られた。







 今日のブログは北澤さんの奮闘記から。
 
祭を8日後に控えた325日、御柱が祭の出発地点に運ばれて来た。御柱のなかで最も太い上社本宮の一の柱。御幣持ちに選ばれた北澤さんは、神の宿る巨木と始めて対面した。彼はそう簡単に巨木に触らない。「何故触らないのですか」と問われ、「まだ触らないほうがいいかなと思っただ。怖いとかはないですね。湧き上がる熱いものしかないですね」と。
 数日後、本番に備えての練習会で練習用の御幣を手にした。御幣には神が宿り御柱を守ると言われ、祭りの間中彼は御柱の上に立ち続けなければならない。御柱祭を通して一人前として認められていく諏訪の男たち。思い共有する仲間に励まされていた。
 4月3日、祭りが始まった。彼は、諏訪大社から授かった御幣を握りしめ初めて御柱の上に立った。この日は8キロ先の木落場を目指す。巨木が動き出し、縄文時代に起源を持つと考えられる巨木の祭りの幕が切って落とされた。






 直角に曲がる難所大曲では、御幣持ち北澤さんの力の籠った声が氏子たちを元気づけた。“ここは難所だぜ~~”木遣の合図とともに力を合わせる氏子たちが一斉に綱を引く。一気に大曲を抜けた。この場面が大きな見どころだった。
 出発して5時間、目的地について漸く一息。しかし御幣持ちの北澤さんは柱の上に立ち続けなければならない。トイレに行くことも出来ないため、食べ物も水分も最低限に抑える。日も暮れかかる午後5時、御柱を引き始めてから10時間が過ぎ、たどり着いのは木落場。だが北澤さんは御柱から降りようとしない。山の神と一つになったかのように立ち続けた。
 それから更に2時間が過ぎ、仲間から促されて漸く御柱から降りた。彼曰く「体力と精神力があれば明日までたち続けていたい。一瞬一瞬を記憶に残したいです」

 翌日の木落場。御柱祭最大の難所。重さ10トンの巨木が高さ19メートルの急な坂を一気に下る。柱の上には御幣を掲げた北澤さん。柱に立ったままでこの坂に挑んだ。御幣が大きく揺らいだが、彼は振り落とされなかった。北澤さんは無事大役を果たし終えた。神宿る木と過ごした一月。安堵の姿がそこにはあった。(写真:落ち始めても御幣を立てる北澤さん)
 

 
        (御幣を返還する)

 
     (漸く見せた笑顔)

 今日の一葉(昨日は冬至で、月は下弦)