マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『伊勢物語』始まる

2014年03月30日 | 学び舎

 3月29日(土)より、妻が講師を務める『伊勢物語』が始まった。2ヶ月に一度の割合で、原則として偶数月に開催(第1回は2月を3月に)で、使用本は角川ソフィア文庫『伊勢物語』(石田穣二訳注)。併せて写本も使用する。私も最初から受講するが、『平家物語』のときとは違って、3つのことを新たに始めた。
 ICレコーダを使用しての録音と、ハンディカメラでの録画撮り。更に、必要に応じてはパソコンソフト「Power Point」で作成したスライドを液晶プロジェクターで拡大表示すること。
 今までも、記録に残しておけば良いと気が付きながら、実行してこなかったことばかりだが、今回はこの数か月間、準備を進めて来た。ICレコーダーはオリンパス製のものを購入。以前は1万円以上したと思うが、現品限りのものが5000円以下で購入出来た。ハンディカメラも安いものを1万5千円程度で仕入た。問題は「Power Point」でのスライド集の作成だった。1月に文京アカデミーの講習会に参加し、そこで使用したテキストを何度か繰り返し学んで、何とか作品を完成した。今回の作品題名は「花見の宴」。この会の参加メンバーとは過去に2度、花見の宴を張ったので、その時の写真を取り入れ、更には、小石川植物園までに点在する坂・寺・台地を組み込んで、道案内を作成しておいた。
 問題は、地域センターの液晶プロジェクターとパソコンの接続だった。24日には”XP”がインストールされているパソコンを地域センターに持ち込んで、試して見たが失敗。この時点で、諦めかけた。
 26日に私が通うパソコンスクール「ばんゆう」に出かけたときに、昨年購入したパソコン「Surface」と液晶プロジェクターは接続端子があれば接続可能なことを知り、27日にその端子を購入し、28日(金)の輪投げ練習の後にも接続を試みたが完全成功には至らなかった、
 会の当日、録音・録画以外に、液晶プロジェクターとも正常に接続出来、スライド作品を大型スクリーンの画面で見ることができた。過去の写真を眺められて会員の皆さんは満足の様子。
 
 私を含めて写本を読むのが初めてという人が5人ほどいた。妻曰く「物語が終了するまでには皆すらすら読めるようになります」とのこと。それなりの努力をしてそうなりたいものだ。

 会終了後、小石川植物園へ。桜は7分咲き程度だったが、暖かい土曜日、入場券を購入する列が出来るほどの賑わいで、あちこちでシートを敷いての宴。私たちも総勢11名が桜の下で宴を楽しんだ。用意したものは、おつな寿司のお弁当・とり多津のから揚げ・うさぎやのどら焼き・吟醸酒「染井櫻」・ワインなど。終了後私を除く10名は播磨坂の桜をも愛でたそううな。


以下「Power Point」のスライドの一部


  (この様なスライドが簡単に作成できる)


    (3年前に撮影の写真を取り込む)


  (道沿いにある掲示板を撮影した後に加工)


サクラ サイタ

2014年03月29日 | 身辺雑記

 手(パソコン入力)が足(あちこち出かけ歩くことやその準備)に追いついていけない日々が始まっている。・・・というイイワケ。
  25日は横浜市での、妻のカルチャーデビューの付添で市が尾へ。午後は日退教の編集会議。夜は富士前福寿会の会計書類作成。
 一昨日は法事。
 昨日は、買い出し+輪投げ練習+液晶プロジュクターとの格闘+主治医に診察される。
 今日は、午前中「源氏物語を楽しむ会」の『伊勢物語』勉強会。午後はその流れで小石川植物園での花見。夕方から夜にかけて管理組合の臨時総会。夜は六義園での枝垂れ夜桜見物。
 詳細は後日にまわして、今日のブログは六義園の夜桜を中心に写真展示。・・・というテヌキ。


  (小石川植物園の枝垂れ)


     (小石川植物園の枝垂れ その2)


    (小石川植物園のソメイヨシノ)


      (六義園の枝垂れは満開)


     (六義園の人出も過去最高?)


     (六義園の枝垂れ その2)

  
     (画面上:ソメイヨシノ+下:枝垂れ)

  
   (対岸もライトアップ)                (赤松もライトアップ)

  
     (六義園裏手の枝垂れ)             (裏手の枝垂れ その2)


   (暗い夜道にもライトが)


  (夜8時を過ぎても列最後尾を目指す人々)






童謡『こいのぼり』から、情報の質を考える

2014年03月26日 | 身辺雑記

 今、私達は情報過多な世界に生きている。あり余る情報に囲まれている。インターネットに象徴される様に、情報の中には、正しく、有効なものがある反面、不正確で、無益なものも紛れ込んでいる。それは、新聞の記事やテレビから流れくるデーターにも言える。週刊誌の記事だと、その真贋を疑いつつ読むことがある。東電発の情報だと、嘘だろうと思いつつ聞いている。社会的なレベルから、日常会話に至るまで、情報の質が、実は試されている。
 例えば誰かが「鶴竜て、実は我儘なんだってね」と語ったとすると、彼を嫌いな人はそのまま聞き流すかも知れないが、彼を贔屓にするわけではないが、私は、「それって、どこからの情報」と聞くだろう。「Aさんから聞いたの」との応えを聞けば、いわゆる又聞き情報かと、聞き流してしまうだろう。人伝て情報は、間に入る人が多いほど質が落ちてくる。それをゲーム化した遊びさえあった。情報の正しさを自身に問わねばならない時代だと思う。

 前置きが長くなったが、こんなことがあった。3月22日(土)のラジオ体操終了後、“三匹のおっさん”が
散歩途中で、吉祥寺を通過した際、小出浩平氏の歌碑を発見。「こいのぼり」の作詞・作曲者と書かれ、詞と音符が刻まれていた。その歌詞を見て、誰かが「何故、お母さんが登場しないのだろう」と言った。私は「二番に登場するのでは」と思った。帰宅してネットで調べると、童謡「こいのぼり」には2つの唄があった。
 “やねより高い鯉のぼり~”と“甍のなみの~”の2つで、”やねより・・・”は1番だけで(かっこ付けて2番あるものあり。おとうさんがおかあさんに替わる)、”甍のなみ・・・”は3番まであった。なおネット上をうろうろしているうちに、”近藤宮子”なるワードに出会い、この言葉で検索する(付記②)とビックリする記述を発見した。
 ”やねより・・・”の作詞の著作権を巡って、近藤宮子氏から1983年に裁判が提起され、高裁まで争われた結果、作詞者は近藤氏と確定していた。吉祥寺にある碑には間違いがあった。・・・という判断は正しいのだろうか?。出版本(下記①)」があり、裁判記録を確かめてはいないが、裁判確定とのサイトが2個以上あることと、裁判確定とまで書く以上は検証に耐えられる情報だろうと、私は信じることにした。ネットサーフィンしなければ、吉祥寺の碑をそのまま信じて、人にも語ったことだろう。

 相撲の話に戻れば、春場所幕内最高優勝の鶴竜は井筒部屋所属で師匠は元逆鉾。
 私が贔屓にする豊真将は、十両優勝。千秋楽に勝てば把瑠都以来8年ぶりの全勝優勝だった。彼は綴山部屋所属で、師匠は元寺尾。その逆鉾と寺尾は兄弟。私がそのことを語るとBさん曰く「確か二人は異母兄弟」とのこと。私の知識になかったことなのでこれもネットで調べると、二人とも母の旧姓北尾。ガサネタと分かった。
 今鶴竜の土俵入りで推測情報が飛び交っている。私も参加させてもらえれば、明治神宮奉納土俵入りではなく、”来場所からの”鶴竜土俵入りの太刀持ちは”勢”で露払い豊真将。さて?

(付記。①『国文学者 藤村作と長女近藤宮子とその時代:大家重夫著 全音楽譜出版社』。予約完了。後日眺める予定。
     ②”近藤宮子”で検索可能)

 

 

 


『あとにさきだつ うたかたの』を観る

2014年03月24日 | 映画・美術・芝居・落語

 3月19日(水)、下北沢・本多劇場で、加藤健一事務所の公演『あとにさきだつうたかたの』を妻と観て来た。本多劇場に出掛けるのは、2年半前の、同じくカトケン事務所の作品『滝沢家の内乱』以来である。
 私には、よく理解できない構成の劇だった。だから感想文にもなりえていないことを承知で駄文を綴ると、
 演じられる時制は4つ。時制その1は現在。時制その2は昭和63年(1988年)。時制その3は昭和21年。時制その4は昭和20年5月。例えば、時制1から時制4に移るのに、場面転換もなければ、同じ登場人物の衣装やメイクの変化もない。加藤健一演じる藤崎静雄は75歳から7歳へと”突然変異”する。要するに時空が捩れた“実験劇”なのだ。観終わって妻は「面白かった。良く理解出来た」とヌカシた。
 私は、購入したパンフレットを見ながら、後追いで粗筋を整理してみる。

 時制1。歴史博物館に毎日現れる一人の老人・藤崎静雄。受付嬢は、この老人は何者で、何の為に毎日ここに現れるのだろうと訝しがる。その謎がこの劇のメインテーマだ。
 時制2。大学で原子力を学び物理学者になった静雄は、原子力発電の安全性に関する展示を任され、市議会議員から、安全性を強調するよう求められ続けている。
 時制3は、新宿の闇市。静雄の伯母は、戦地から帰国した長男と飲み屋をやりながら、次男の帰りを待っている。ある日、静雄は闇市で、お洒落な姿の女性と出会う。
 時制4は、静岡の砂丘。7歳の静雄は両親とウミガメの卵を見つける。卵からコガメが生まれるころ、また3人で見に来ようと固い約束をするのだが・・・。

 やはり、この4つの時制を統一的にはまとめられない。大筋としての理解は、現時点から振り返る”中過去”で、原子力開発に協力してしまったことへの悔いと、結局は両親と共にウミガメ産卵を眺められなかった”大過去”への郷愁

 底流として流れていたのは親子の情。親が子を案じ、子が親を思う。彼が子供のころの場面では、母の魂が人物として登場している、この劇はそれもありなのだ。
 
 静雄が毎日やって来て視る映像は、彼の父が制作したニュース映画だった。
 
最後の場面で、生れ出たばかりのコガメが大海へ向かって進んでいく姿を見て、静雄が「頑張れ~。頑張れ~」と大きな声で叫ぶ。その声はいつしか、ウミガメへではなく、日本人への、あるいは弱きものへの声援と聞こえてきた。静雄は次第に加藤健一として立ち現れる。


我が母校小山台、甲子園の土を踏む

2014年03月22日 | 学校

 我が母校、都立小山台高校が、21世紀枠で選抜高校野球大会に初出場したが、11-0で大敗し、都立高校の初戦突破は又も夢と消えた。9回一死までノーヒットという状況で、ノーヒット・ノーランという不名誉な記録を刻んでしまいそうな状況が続き、ハラハラの思いで見続けたが、代打竹下君の内野安打で、漸く危機を脱したのだった。
 あまり芳しい結果ではなかったが、母校の出場は嬉しかった。(写真:テレビ画像より、開会式で入場行進する小山台ナイン。以下いずれも同じ)





 私は定時制出身だから母校という言い方は正確ではないかも知れないが、在学当時、全定合同で文化祭を行い、現在は「小山台教育会館」を一緒に運営する仲、心理的に近いものがある。勝手に我が母校と呼ばせて貰おう。何しろ中学卒業後は、小山台高校定時制⇒埼玉大学⇒都立大(研究生)と進み、母校の活躍がテレビに映し出されるなどとは無縁の学校に学んで来たのだから。
 画面には校歌が流れ、久し振りに聴くこの曲、一緒に口すさんでいた。学校紹介では、懐かしい事柄がいくつも紹介された。クラブ活動の部の名称は、野球部ではなく野球班、定時制も同じで、私が属したのは社会班だった。
 母校は昨年90周年を迎えたが、前身は府立八中。一瞬、シンボルの八角塔の映像も流れた。揃いの、黄色のブレーカーを羽織った4000人以上の大応援団。この様な日がやってこようとは思わなかったOBや現役も多くいたことだろう。2006年にシンドラー社製のエレベーターの事故で亡くなった、元野球班員市川大輔さんの遺影を抱いたお母さんの姿もあつたそうな。
 狭いグランドも映されていた。期末試験が終わると、このグランドで、ソフトボール大会が行われた。我がクラスは決勝まで進んだが、捕手をやった私のエラーが原因で、相手に決勝点を与えて惜敗。情けなかった思い出もふと胸を横切った。高校生のくせに、残念会に一杯と、キャプテンは担任の安永先生を誘ったが断られた。(写真:野球班とある)

 都立高校は夏の大会には4度出場している。1980年に国立が、その後城東が2回、雪谷が1回。城東は義弟が野球部初代監督だったので、しっかり記憶されている。いずれも 初戦突破には届かなかった。
 狭いグランドで、他の班とも活動を分かち合いながら、午後5時には完全下校という乏しい時間内での活動で、秋の大会では早稲田実業や堀越学園にも勝利したという。小山台の球児たちよ、胸を張って帰れ。思い出のキッカケを有難う。


  (武蔵小山商店街のアーケイドも見える)


   (キャプテンを中心にして班員たち)


     (応援席と校歌)


    (応援団と校歌)