マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

本郷台地の東端を歩く(浅野キャンパス その2)

2020年01月31日 | 考古学

 浅野キャンパス正門の左側に「武田先端知ビル」が建っている。2001年の、ビル建設に伴う発調査で、弥生時代の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる墓が2基検出された。検出された墓や発掘された弥生土器の説明文が正門の壁に掲げられていた。(再掲写真:弥生式土器)
 方形周溝墓は、弥生時代から古墳時代前期の墓の一種で、方形に溝をめぐらし、内側に低丘を盛上げ、その中央部に遺骸を埋葬する土壙を掘った墓だそうで、その周溝と周辺から弥生時代後期後半の弥生式土器5点発掘された。土壙からの副葬品のガラス小玉や石製管玉が出土した旨が書かれ、「方形周溝墓は埋蔵文化財調査室で保管している」と結ばれていた。土器は40.2cmの美しい形をしている。調査室が公開されるものならば是非実物を見たいと思った。(写真下:ガラス小玉と管玉)
 
 

 弥生時代の知識が乏しい私は、早速29日(水)に「文京ふるさと歴史館」に足を運んだ。ここは願い出れば撮影OKで、届け出て撮影しながら幾つかを学んだ。
 方形周溝墓については千駄木貝塚で発見された墓の写真が掲示されていた。この写真からは漢字5文字の如く、方形の周囲に溝が掘られた墓であることが一目瞭然。真ん中に人骨などが埋葬されたらしい。(写真:千駄木貝塚での方形周溝墓)

 重要文化財指定の弥生土器(複製)も展示されていて“弥生二丁目遺跡発掘土器”と書かれていた。縄文土器も4点展示されていて、弥生土器と縄文土器とは明らかに違うことは一目でわかる。
 千駄木貝塚から発見された人骨も展示されていて、文京区には縄文時代と弥生時代両時代の多数の遺跡が存在していることを改めて知ったのでした。(写真下は縄文土器)




本郷台地の東端を歩く(東大浅野キャンパス その1)

2020年01月27日 | 東京散歩

 「弥生二丁目遺跡」を捜しに出掛けた東大浅野キャンパスは不思議な空間だった。正門の壁には弥生式の土器の像などが貼られ、妙な形をした建物もあった(右写真)。そこで「遺跡」に辿り着いた後にも2度3度と浅野キャンパスに出掛けている。“浅野”の由来なども調べてみた。(キャンパスの地図は最下段に2枚掲示)


 キャンパスへのアプローチは本郷通りからだと、農学部を過ぎてから言問い通りへと左折し、暗闇坂への道は通り越し、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑のある地点を右折すると、漸くキャンパス正門(右写真)に辿り着く。途中の塀には地名の由来などが書かれていて、それらを整理すると、

 この辺り一帯は江戸時代は水戸藩の中屋敷で、屋敷内には9代藩主斉昭が建てた歌碑があり、向ヶ岡弥生の地名はそこから来ていた。即ち「文政十余り一とせという年のやよいの十日
 名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐいなき花の影かな」と刻まれていた。明治になり町屋が作られた折、この歌碑から町名は「向ヶ岡弥生」と名付けられた。「東京江戸重ね地図」で調べると、水戸藩中屋敷は現在ではそっくりそのまま弥生1丁目と2丁目となっている。
 又、安芸広島藩最後の藩主浅野長勲は明治22年に「本郷区向ヶ丘弥生町」に土地を取得し、浅野侯爵邸と呼ばれる屋敷を建てた。その屋敷の大部分が大学の敷地になったことに由来して浅野キャンパスの名が付けられた。2丁目は1番地から11番地までしか存在しないが、広大な浅野キャンパスは11番地のみに存在していて、ここには工学部と理学部があり、武田先端知ビルやアイソトープ総合センターなどもある。(写真:正門に貼られていた弥生式土器の写真)
 平成13(2001)年にはキャンパス内から弥生時代の墓2基などが発見・発掘されていた。それは次回に。

 

 

 
 
 

 


本郷台地の東端を歩く(弥生二丁目遺跡)

2020年01月25日 | 考古学

 武蔵野台地の東端には、二つの台地が半島の様に突き出している。上野台地と本郷台地だ。それぞれの崖線に、かつては豊富な湧き水が流れていた。又、この一帯からは旧石器時代の遺跡や、その後の縄文海進のころの貝塚が多数発掘された。ラジオ体操終了後の散策でこの2つの台地の崖線を歩こうと考えている。まずは「弥生二丁目遺跡(向ヶ岡貝塚)」を目指した。(写真:縄文海進の頃の図)





 この遺跡は本郷台地の東端崖線(南端)にある。根津谷の右岸でもある。13日(月)、根津方面から言問通りに沿って弥生坂を昇っていくと、右写真の石碑「弥生貝塚発掘ゆかりの地」に出くわした。ここ弥生二丁目は弥生土器発見(明治17年)の記念の土地で、弥生町に因んで弥生土器と名付けられたことはあまりにも有名。しかし、その後の住宅等の開発の為、土器が最初に発見された場所は分からなくなっていて、特定されていない。ここの碑には〝ゆかりの地〟と書かれている如く、この碑が建てられている場所が第1発見場所ではない。
 昭和50年に東大浅野キャンパス内でも弥生土器が発見され、そこには記念碑が置かれているとネットで知った。そこで18
日(土)に、その記念碑がどこにあるか浅野キャンパスに出掛けてみたが発見出来なかった。東大構内はよく散歩するが浅野キャンパスはがどこにあるのか知らなかった。(写真:弥生二丁目遺跡の碑のある場所で)
 21日(月)に漸く目的地に辿り着いた。浅野キャンパスを正門から入り、工学部9号校舎に突き当り右折し、その校舎の端を左折すると、原っぱのような一角に記念碑があった。そこは高台らしく、根津の街や対岸のビル群が見渡せた。概略次の様に書かれていた。

  国指定史跡 昭和51年6月7日指定
 「昭和50年、校舎の増築に先立ち発掘を行ったところ、台地の縁に沿って弥生時代の集落を含む環濠の一部が発見され、濠の中からカキなどの貝殻の層と弥生土器が出土した。この台地上に広く弥生時代の遺跡が存在したことになります。

 ところで、明治17年、考古学に興味を持つ東大の大学生たちがこの付近で大昔の土器を採集しましたが、後にその種の土器は「縄文土器」とは区別されることが分り、最初の発見地の町名をとって「弥生土器」と呼ばれるようになりました。土器が発見された正確な地点については意見が分かれていますが、この場所を含む集落遺跡に関連するに違いありません。その学史的、学術的重要性のため、増築計画は変更され、国の史跡として保存されることになりました」と。




目黒で旧友と一献

2020年01月22日 | 身辺雑記

 一昨日の20日(月)、高校時代からの友人瀧川さんと目黒で一献傾けた。目黒は彼が青春時代を過ごした場所で、私にとっては”生まれ故郷”。という訳で二人にとって懐かしいところだが、ここで落ち合うのは確か初めてのこと。
 久し振りの目黒。行く先の計画を一応立てていた。まずは二人がよく行った、とんかつ「とんき」の様子を眺め、その後行人坂途中の大円寺に案内し、一献はクラス会で2回ほど利用した「やまきた」に回るという計画。しかしインターネットで調べると目黒蕎麦処「やまきた」は既に閉店していた。止む無く、駅付近のセントラルスクエアー1階の「目黒魚金」に場所を変更し、当日は次のように巡った。
 東急目黒駅→とんき→行人坂→大円寺→権之助坂→花房山公園→魚金。
 あいにく、とんきは定休日だった。10代から20代の頃の一番の御馳走は目黒とんきのとんかつで、店内に長い列が出来たものだが、安くて美味しいとんかつ食べたさ一心に長い時間待つことは苦ではなかった。閉ざされた扉を前に二人は、客の注文がヒレかロースや、客の順番までもしっかり記憶した名物女性を思い出しては語りあった。

 大円寺は1772年に発生した、明和の大火(行人坂火事)の火元で、亡くなった多くの死者を弔うため五百羅漢の「石仏群」が造られている。ご住職は小学校時代の同級生だった。中学2年生のときこの寺の比較的近くに引越してきたのでよく遊びにきたものだった。直ぐそばに住む田中君や松井君ともども、本堂の縁側に腰掛け、どういう訳かは思い出せないが高齢の方に英語を教えてもらったこともあった。瀧川さんには初めて語ることで、彼は吃驚しながらこの話を聞いていた。(写真:石仏群)
 そこから目黒通りに出て権之助坂を上った。魚金には開店前に着いてしまい辺りを散策した。見下ろすと小さな公園があり、下るとそこは「花房山公園」と書かれていた。そこから見上げる2つのタワービルが壮大で、目黒にもこのような建築物が登場していたことを初めて知った。

 魚金は秋葉原でのランチが気に入っていて、目黒にも魚金登場を知って安心して暖簾を潜った。「魚金」のホームページをスマホに登録すると「玉手箱」という刺身盛り合わせが半額とのことで早速登録。これは格別に旨かった。
 81歳になる瀧川さんは今年の3月で10年務めた勤務を辞めるとのこと。話題は豊富な自由時間をどう使おうかとの話になった。彼は英文法を学び直すと語っていた。今なお向学心旺盛な彼は、高校は定時制、大学は夜間部、定年退職後は夜勤務の、苦学力行の人でもあった。再会を誓って別れた。(写真:「玉手箱」の刺身盛り合わせ)


ハーヴェストクラブ「熱海伊豆山」へ

2020年01月19日 | 

 1月15日(水)から17日(金)までの3日間、ハーヴェストクラブに宿泊してきた。東海道線を利用し、小田原で昼食をとるなどいつもと同じパターンの旅だったが、中日の16日に今までにはない幾つかの珍しい風景に出会い体験もしてきた。
 早朝、ベランダに出てみると水平線がはっきり見えた。そこで日の出の瞬間を撮影しようとホテル内の最適ポイントに移動して待つこと20分、6時50分に漸く陽が昇って来た。何度もここから日の出を撮影したのだが今回は珍しく良い写真が撮れて満足。



 その日の午前中MOA美術館の「琳派をたのしむ」展を観ようと熱海駅まで行くと「本日休館」の表示。急遽予定を変更し、開花にはまだ早いかもしれないが梅祭りが始まっていた「熱海梅園」に向かった。入場料300円だが熱海宿泊者で領収書を持っている人に限り100円と書かれていた。宿泊中だから領収書は貰っていないと言うと「旅館名を教えて頂ければ100円」とのことで100円で入園。細やかことではあったが、気分は良かった。園内は人影は疎らで、長閑な気分でのんびりと散策した。梅は咲いていないかと思ったが1割程度の開花で、特に“八重寒紅(やえかんこう)”の紅が鮮やか。この梅園にはなんと梅科ではない蝋梅が多数植えられていて彩となり、微かに匂ってもいた。(写真:右が八重寒紅で下が冬至梅と蝋梅)


 梅園の帰り「市役所前」で下車し、熱海本町や熱海銀座を散歩した。この辺りは熱海の中心街で、昔はもっと賑やかだったろう。飲食店も老舗も多い。「中島水産市民市場」を覗くと新鮮な魚が実に低廉な値段で販売されるていることに驚いた。沼津港からの入荷品が多く、翌日の17日にもここにきて持ち帰り可能な魚を何点か購入した。
 昼食は暖簾の綺麗な「とっくり」で取った。これはという情報を持たないときは暖簾で判断することがある。結果は当たりだった。妻は“カレイの煮付け”を私は“アジフライ”を注文すると、調理は魚を捌くところから始まった。やや待ったが出された料理は格別に美味しかった。(写真:下がカレイの煮付け。最下段は左はせんりょうで右が糸桜)