マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

六合村へ

2011年05月30日 | 

 六合村と書いて”くにむら”と読みます。群馬県北西部に位置し、草津町に隣り合う、人口僅か1700人ほどの小村でした。1900年に草津村から、小雨、赤岩、生須、太子、日影、入山の6つが分離・独立して六合村を作り、本体の草津村は草津町となりました。私見ですが、この分離・独立は昨今流行りの町村合併の逆を行き、この6つのは草津から切り離され、見捨てられたのです。勝手に生きよと言われたに等しい”分離・独立”だったと思います。2010年3月には中之条町に編入合併されました。


 宿での相談で、雨模様ながら、この日のコースを沢渡から暮坂峠を越えて六合に到り、尻焼温泉と野反湖を巡ることにしました。暮坂峠に到着する頃には雨足が激しくなり、辺り一面は薄暗さに包まれ、暮坂峠というネイミングの見事さを実感します。車から降りて牧水の詩碑を観ると「枯野の旅」と題した詩が刻まれていて、詩の最後には『上野(かみつけ)の草津の湯より沢渡の湯に越ゆる路 名も寂し暮坂峠』 とあります


 六合に辿りつき、道の駅「六合」の場所が分らず、町役場支所へ入っていくと、私を観光客と分ったからでしょうか、さっと席を立って相談に応じてくれる役場の係りの方の機敏な対応に、私は村興しや観光への心意気を感じ取りました。その道の駅、小ぶりな駅で品数も多くは置かれていません。ここの特産物たる舞茸は買わずに野反湖を目指しました。



 ここからは白砂渓谷の深い深い谷沿いの道を北上します。到着した野反湖にはまだ雪が残り、濃い霧で湖はその片鱗をも見せてくれません。10度以下の気温に驚き、暖を求めて尻焼温泉関晴館を目指すも、私達が到着した時間帯にはまだ湯が満ちていないため入湯叶わず、残念な思いで、秘湯の宿を後にしました。



 断崖絶壁の渓谷沿いの道の新緑の眺めは素晴らしく、森林浴でのドライブとなりましたが、は谷の遥か下の方に垣間見え、厳しい自然環境の中で生活が営まれていることが推測出来るのでした。


 結局、暖は道の駅裏手にある応徳温泉「くつろぎの湯」で取りました。応徳年間に発見されたこの湯も”草津の上がりの湯”の一つで、41度くらいの温度。長時間浸かっていられる湯ですが、ほどほどにして湯から上がり、帰り支度を開始したのでした。(くつろぎの湯々殿)

 沢渡の湯に越ゆる路
 名も寂し暮坂峠


再びの『まるほん旅館』(秘湯へ その4)

2011年05月28日 | 秘湯へ


 5月26日(木)から27日(金)まで、沢渡温泉まるほん旅館に出掛けてきました。このまるほん旅館へは、今から4年前の4月、中学時代のクラスメイト9名で訪れたことがあり、2009年10月8日のブログにその様子を書きました。(まるほん旅館は湯元です)




 今回のメンバーは、平均年齢72歳になる元鷺宮高校の4人で、温泉と囲碁を楽しむことが大きな狙いです。交通手段は運転暦50年になる74歳のOさんの車。朝9時半に西武線東久留米駅出発。渋滞のない関越道を快調に飛ばし、予定より早く11時半には「道の駅こもち」に到着。数年前に開設されたこの道の駅、新鮮でお安い野菜が品数多く置かれていて人気があり、大勢の観光客で賑わっています。私達は、夜の宴会に備えて、トマトと梅干を購入。
 昼食は中之条駅付近の蕎麦処「吾妻路」で摂りました。前回のミニクラスでも寄ったこのお店、以前は道路に面していましたが、場所が少し奥に引っ込み、風情あるたたずまいのお店に変貌していました。非常に濃いソバユを堪能し、薬王館へ寄った後、午後2時チェックイン前に宿到着。


 草津の湯が強力でその湯あたりを鎮める為にも、草津の帰り道にこの沢渡温泉が仕上げ湯として利用されたそうで、若山牧水も草津からの帰りに暮坂峠を越えてこの地を訪れ、歌に詠みました。泉質は肌に対する効能が高く、その美肌効果は「一浴玉の肌」と言われています。僅か十数件の宿が肩を寄せ合うように存在している山間の湯宿。まるほんは秘湯を守る会の会員です。


 ここは女性の入浴タイムを定めてありますが、それ以外の時間帯は混浴です。私達4人が早速湯に浸かろうと温泉場に足を運ぶと、何と、男性2人に混じって若きご婦人(と言うよりギャルさん)も入浴しています。流れ来る3人の会話から、その女性は”温泉フリークギャル”らしく、人前で裸になることに慣れているのか、私達男性4人の出現にも動ずる様子が全くありません。私達の方がこの様な場面に慣れていなくて、ゆったりとすることなく湯を後にしました。(写真:こちら熱めの湯)


 こんなハプニングを交えながら湯と囲碁とご酒を楽しんで、夜は更けていきました。深夜1時一人温めのに湯に長時間浸かります。まるほん旅館の湯の良さをしみじみと感じるひとときです。(こちら温めの湯)








      (湯殿全体を見渡す)



 翌朝7時、隣にある共同浴場へ。ここの営業は9時からで、まだ入浴出来ないかと気落ちしていると、地元の方がやって来ました。入浴を頼むと、「どうぞお入り下さい」とのこと。
 喜んでんで入湯すると、この共同浴場、以前に比べ実に綺麗に様変わりしていました。地元の方の話に因ると、共同浴場は昨年の4月にリニュアルしたようです。又、沢渡全体も昭和20年の大火で全焼し、昭和34年に再興されたとのこと。一説には1191年に開湯とも言われるこの沢渡温泉にも長い年月の日々の中に、苦難の歴史があったことを知りました。9時半宿を後にし暮坂峠を越えて六合村を目指しました。(写真:共同浴場入口)


初夏の色濃い「吉祥寺」で

2011年05月25日 | 東京散歩

 吉祥寺と申しましても、中央線の一駅たる吉祥寺ではありません。現在の本郷通り沿いの、我が家から徒歩4・5分のところにある曹洞宗のお寺たる吉祥寺さんです。(吉祥寺本堂)







 毎週土曜日だけラジオ体操に参加するKUさんと連れ立って、福寿会会長KOさんと私の3人は、その土曜日には、ラジオ体操終了後この吉祥寺に出向くことを常としています。植物や花に詳しいKUさんから色々の話が紹介されます。5月21日(土)にはそのKUさんから「センダンが見頃ですよ」の話があり、3人でその様子を観に、本堂脇までやって来ると、薄紫色の見事な花が咲いていました。






 そのセンダンを撮影しようと後刻吉祥寺に出かけ、まずは写真のように書かれた山門の3文字を撮影していると、同じ町内会に住み、時折オアシスでお会いして挨拶を交わすOさんが、本堂を背にして参道をこちらに向かって歩いて来ます。私、したり顔で、「本堂のそばではセンダンが満開ですよ」と、語りました。するとOさん、「はい。私はここの檀家ですから、良く知っています。その山門に掲げられた3文字は、ここのお寺が曹洞宗の学問所であることを示す文字で、曹洞宗の大本山は永平寺と鶴見にある総持寺。ただここの吉祥寺は大本山に匹敵する格で、かってはここでは2000人もの修行僧が学んでいたときもあるのです」と逆に教えて頂くことあいなりました。(山門にはこの3文字が)

 栴檀林については、以前ネットで調べたことがありました。ここ吉祥寺は関東における曹洞宗の宗門随一の栴檀林(せんだんりん)がおかれ多くの学僧が学んだそうですが、第二次大戦でそのほとんどが焼失し、現在は山門が往時を偲ばせています。私はその栴檀林に因んでセンダンが植えられたとも思っています。


 「相当古くからの檀家ですか」とお聞きすると、「いや僅か18年前のことです」と語り始めた内容は吃驚するような話でした。「実は18年前、この寺が大好きだった母は、是非この寺にお墓を造りましょうと、父に語り、父もそれに同意したのです。その僅か数時間後に母は交通事故で死亡しました。母の話は遺言とも受け取り、早速この寺に墓を建立したのです」と。事実は小説よりも奇なりとか。(山門から本堂へと続く長い参道)


 Oさんの母上が大好きだったという吉祥寺、四季折々に色々な花や木々で私達の目をも楽しませてくれます。5月下旬のこの日、蝋梅の実とセンダンの花が初夏を彩っていました。(蝋梅の実)


第13回クラス会を「涵徳亭」で

2011年05月23日 | 身辺雑記


 3年振りの中学時代のクラス会を小石川後楽園内「涵徳亭」で実施しました。校舎内でやっていたクラス会から外へと飛び出し、アルコールを登場させた1963年のクラス会から数えて48年、これが13回目のクラス会でした。ご他聞に漏れず女性陣が子育てで大忙しの時期は開催間隔がかなり空きましたが、この30年間は3年に1回の割合で実施してきています。


 
 昨日の参加者は12名。前回は確か14名の参加者でしたから少し減りました。希望者には、クラス会開会の前の庭園散策を呼びかけたところ、こちらへの参加者は8名、新緑の鮮やかな庭園をゆったりと一周しました。12月3日に下見に来たときはまだ紅葉が残っていましたが、今は緑一色です。ただ所どころで、修理工事が行われていて、少し趣きをそがれましたが・・・


 クラス会は1時に開宴。1時20分頃には参加予定者全員が揃いましたから、正式な乾杯をし、暫しの懇談の後、全員に一言ずつ近況報告をして貰いました。現役の正規勤務者はお一人のみ。あと11名は十分なフリータイムの持ち主です。病のこと、趣味のこと、大震災のことなどが話に登場しました。クラス会に出席出来るわけですから皆さん比較的お元気です。
 

 「涵徳亭」は12時半から4時半まで借りてあります。料理が尽きてからは、時間内一杯まで、お茶やウーロン茶などで喉を潤しながらのお喋りが続きます。最後には座を崩し、三々五々に分かれてのお喋り。私達のクラス会は気取りのないお喋りが楽しいのです。3年後の再会を誓って散会しました。


友達の輪

2011年05月21日 | 江戸の川・東京の川

 Mさんとは1987年(昭和62年)、彼女が向丘高校に新任教諭として着任以来の付き合いです。一方、Gさんが鷺宮高校に新卒で着任したのが1998年(平成10年)で、もう13年前の事になります。Mさんとは、元同僚も含めた年末スキーや飛鳥山花の宴のみならず、よく春日近辺でランチを共しました。Gさんとは”やねせん”で、度々一献傾けました。この様に、お二人とは長い年月にわたって親しくお付き合いを願った間柄です。そのお二人、今年の4月、Mさんの勤務する都立高校にGさんが転勤となりました。偶然にも、お二人は同じ職場の同僚となられたのでした。
 転勤間もなく、まだ共通の話題が少なかったであろうお二人にとって、共通の知り合いとしての私が話題に昇った事は想像に難くありません。お二人から、いずれ3人で食事を、とのメールが入りました。私としては食事のみならず、アルコールもお伴にと考え、”3人の会”と称して、お気に入りの「魚具三昧彬」に予約の電話を入れましたが、既に満席。そこでよみせ通りのお寿司屋さんを予約し、昨日の5月20日(金)に一献傾けることとあいなりました。
 
 お二人とも教えることに非常に熱心です。生徒想いの優しい人柄ながら、分会での活動の様子を聞くにつけ、芯が強いなと思います。こういった点が、お二人のことを好きな理由です。又、二人とも、音楽と美術と、分野こそ違いますが、片や演奏活動に片や個展にと、芸術的分野で絶えまなく活動を続けて来ている点でも似ている面があります。

 私が絡む話題は過去完了形の話になります。昔は良かったね、との話になります。MさんとGさんとの会話は当然に現在進行形になります。お二人の共通の感想として語られたのは現任校での教えやすさと生徒の素直さ。本人たちは多くを語りませんが、Mさんにとっては8年間、Gさんのとっては9年間の大変な勤務を乗り越えての現在があります。その感想を聞き、大変嬉しくなりました。昨日もまた美味しいお酒になりました。