マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

柿もぎ

2013年11月29日 | 身辺雑記

 11月24日(日)、大田区まで出掛け、柿もぎを初体験して来た。
 家人の知人のTさんは、家人がよく”大田区の大地主”と語る様に、自宅に広い敷地を有し、その土地では、知り合いの方が農作物を栽培する一方、植えてある多くの樹木には果物が豊富に生ると聞いていた。枇杷・カリン・キウイ・柿などが生るらしい。秋になったらお出で下さいと招かれていた。残念ながら、今年はカリンは不作で、柿も例年のようには実っていないとの事であったが、土地の様子見学方々、柿をもぎにと大田区まで出向いて行った訳である。(写真:敷地の一部)






 裏門から入ると、広々とした畑が見渡せた。秋も終わりに近く、作物はナスぐらいしか見当たらないが、丹精込めての農作業が偲ばれる畑だ。
 自宅付近の柿の木にはかなり高いところに柿が僅かばかり生っている。お茶を一服頂きながら、どうやって採るのだ
ろうと思案した。
 程なく始まった作業には脚立が用意され、私はハサミと”ひっ掻き棒”を持って脚立に立つた。その範囲で獲れる柿は僅かばかり。それでは成果が少ないので、脚立から木に乗り移り、高いところに実る柿を目指した。しかし枝の間に立って手を伸ばすのは、不安定で不安が大きい。困っていると、Tさんが5mほどの長さの”枝切りハサミ””を持ってきたので、脚立利用は諦めてこの長いハサミを使うことにした。これも初体験だったが、高いところになる柿の、枝の部分に先端を当て、手元操作で枝を切り取ると面白いように柿がもげた。
 玄関前にもう一本柿の木がある。この木には更に多くの柿が生り、枝切りバサミで沢山の柿をもいだ。作業終了後、数えてみると40数個。このハサミを使ってキウイも取った。だんだん面白くなって来た頃には生っている果物は無くなっていたが・・・。(写真:柿の木も黄葉し果物との見分けがつかない)


       (この日の成果)


     (町内会旅行時より大きいキウイ)

 帰宅してこの柿をじっくり味わった。この柿、食すると実に甘い。現在は家人と二人のみの我が家では食べ切れないので幾らかはおすそ分けし、20個ほどはジャムに回した。ジャム作りを趣味とする家人が作ったジャムは、ややとろみが足りなかったが、甘くて美味だった。
 豊作・不作は隔年で起こるそうで、経験上、来年は柿は700個は生るとTさんは語った。来年は友を語らいこの果樹園に出掛けよう。


『佐多稲子アルバム』から田端散策まで(その2)

2013年11月27日 | 東京散歩

  佐多稲子が窪川鶴次郎との事実婚に入るまで住んだ、駒込神明町の下宿は、不忍通りを挟んで、「わらしっ子」と反対側の、現「ホンダクリオ」の一角にあった。東京大空襲の際、この方面も焼け野原となり、当時を忍ぶよすがもないが、今は、狭い路地裏に建てられている木造アパートを眺め、かつてもかくありなんと、貧弱な日本家屋に暮らしたであろう稲子さんの困窮生活を想像した。
 路地を突き抜けると谷田川通り。かっての谷田川は暗渠となっている。下流は不忍池へと注ぎ、途中には“蛇
道”と呼ばれる蛇行暗渠が残る。逆に上流は、水源の一つが、春に、この集団で花見をした染井霊園などと語り、私はしたり顔をする。
 更に、不忍通りをもう一本奥に入った通りが「赤紙仁王通り」。その名前を初めて知ったとき、私は、この通りは招集令状の赤紙と関係があるのだろうと推測し、ネットで調べたが、さにあらず。この通りを300mほど進んだ所にある東覚寺(赤紙不動尊)からのネイミングだと知った。皆さんにはその謂れは語らないで、その寺へと直接案内した。次第に、その寺正面に佇む2体の、赤紙に包まれた仁王様が見えてきて、皆ビックリ。掲示板でその謂れを読み、社務所で赤札2枚とお線香を200円で購入し、仁王様に赤紙を張り付けた。病んでいる個所に貼って祈ると全快に至るとの謂れ。この散策で2番目に“興奮”した瞬間、と言っては失礼か。(写真右:赤紙仁王尊)


     (朝5時45分に撮影した赤紙仁王)


    (掲示板にあった慶応2年頃の石造金剛力士像)

 もと来た道を引き返し、ポプラ坂を上る。その右手側に「驢馬」編集長窪川が住んでいた。上りきった台地が上野台地。左は飛鳥山方面へと続き、右手に曲がれば上野に至る。谷田川側から台地に至る坂は4本あって、北から、八幡坂・ポプラ坂・東覚寺坂・与楽寺坂。坂を上り切ったところは、今は田端保育園となっているが、かってここにポプラ倶楽部という名のテニスコートがあった。このコート、洋画家の小杉方庵が作ったもので、田端に住む洋画家たちの社交場であったとか。周りにはポプラの木が植えられていて、坂の名前はそこから来ているそうだ。





 八幡坂を上ると室生犀星旧居。犀星はこの付近で数回転居している。細い路地を入った所の掲示板は「室生犀星旧居」と書かれ、ここで記念撮影。田端高台通りから中野重治旧居を経て、童橋へ。ここは田畑切通しの上に架かる橋。1933年(昭和8年)に完成したこの切通しを真上から見られる絶好の場所。見事な石組みが見られ、上野台地の“厚み”もはっきりとわかる。この橋からの切通しを見て、私をはじめ興奮する方多し。都内の切通No.1だと思う。
 橋を渡り、芥川龍之介の旧居跡を見て東台橋(とうだいばし)へ。この橋、車道の幅より歩道の幅の方が広いというユニークな橋。その点をも皆さんに紹介し、ゴールは田端文士村記念館。ここにて流れ解散。かくして、後日寄せられた感想によれば、「楽しかった」散策は終了した。田端は文士村のみならず、面白いポイントに満ちている。(写真:童橋から田端切通しを見る)


『佐多稲子アルバム』から田端散策まで(その1)

2013年11月25日 | 東京散歩

 11月23日(勤労感謝の日)、「源氏物語を楽しむ会」終了後、私を含む9名は、とんかつ「わらしっこ」で昼食。その後、田端界隈を散策した。
 その切っ掛けは、偶然にも、会のメンバーのヒロさんと家人がともに「佐多稲子アルバム 澟として立つ」を読んだ事に始まる。佐多稲子は、駒込神明町(当時)の都電裏に住んでいた頃、下宿そばにあるカフェ「紅緑」の女給として働き、そこへ客としてやって来た、雑誌『驢馬』の同人たちや田端周辺に住む文士達と運命的な出会いをする。その様な内容を読み、併せて彼女が働いていた「紅緑」周辺の地図を見て、二人は11月23日の会終了後、同好の士を募り、その地図を頼りに散策をしようと約束をしていた。

 家人から、「その地図に載っている道やポイントを下調べしてみない?」と問いかけられ、私は、これは面白いぞと思い、早速翌日から下調べ散策を開始した。散策と言っても、毎朝の散策の方面を不忍池から田端方面へと方向変換するだけである。毎朝5時10分に自宅をスタートし、地図に載っている「佐多稲子」「室生犀星」「芥川龍之介」などの旧居跡を捜しまわり、谷田川通り・ポプラ坂などを歩き、「赤紙仁王通り」とは何に由来するネイミングなのかなどを調べたりした。薄暗くて掲示板の文字が見えないなど、困ったこともあったが、5日間ほどのこの散策は実に楽しかった。
 一方、通勤途上に「田端文士村記念館」に立ち寄り、丁度実施中の開館20周年記念の企画展「文士村博覧会」で知識を仕入れるとともに文士村の地図や資料を集めた。家人が会の方に参加を募ると、私達も含めて9名もの方が参加希望との事を知り、案内への意欲が高まった。
 最終的に、本に掲載されていた地図に案内順の番号や道路を加筆したり(ブログ下の資料1)、記念館から貰って来た地図にも同じ同じ番号を振ったものも用意したりした。(ブログ下の資料2)。

 スタート地点はとんかっ「わらしっこ」。ここがかってのカフェ「紅緑」跡。現在は、息子の小学校時代の同級生の親ごさんが経営するお店で、学年終了時に“謝恩会”をやったこともあるお店。ランチの席を予約しておいた。定食は数種類あり、どれも750円とお安い。値段と味に皆満足し、12時45分、私を案内人とする一行9名は、稲子さんが暮らした町の雰囲気や面影を味わおうと、この散策のスタートを切った。(その様子は次回ブログで。以下の地図はこんなものを用意したという意味程度)
                                            資料1


                           資料2

 


 


裏高尾を縦走

2013年11月23日 | 山旅

 11月19日(火)、高校時代からの友人瀧川さんと裏高尾を縦走してきた。
 高尾山から西へ、城山・影信山・堂所山・陣馬山へと続く主脈稜線は奥高尾縦走路と呼ばれ健脚向きコースとして名高い。この日のコースは、JR高尾駅→高尾山口駅→(1号路)→薬王院→高尾山頂→城山→小仏峠→影信山→明王峠→相模湖駅と歩いた。朝7時40分高尾駅発で相模湖駅着16時40分。歩数計は4万歩を超えていた。

 今日はポイントの説明を。
 高尾山頂へのコースは6号路まであるが、瀧川さんの希望に従い1号路を採った。山道に入り急坂を登り切ると展望台。ここの展望台からは眼下に拡がる関東平野が一望できる。この日は時間とともに天候が好転し、筑波山や東京湾・東京スカイツリーまでも遠望出来た。(微かに東京スカイツリーも望める)



        (紅葉は見頃を迎えていた)

 薬王院では歴史的建造物はあまり見学せず、紅葉のみを満喫し、高尾山頂へと急いだ。










 高尾山々頂から富士山が良く見えるが、残念ながら頂上は雲の中。













 城山への山道に入ると人出は相当に減り、静かなハイキングが味わえる、はずだが、快晴のこの日多くのハイカーが山歩きを楽しんでいた。城山まで来ると雪景色の富士が均整のとれた姿を現し、展望の良いここで昼食。








 城山から小仏峠を経て影信山までの尾根道は、温かい気候の中、富士を眺めつつ、所どころの紅葉を楽しみながらの散策。激しいアップ・ダウンもなく、落ち葉踏みしめの快適な山歩き。最近では一番山歩きの清々しさを味わえた。
 しかし、影信山から明王峠を経て相模湖への道は長く長く感じられた。以前にも歩いた事のあるコースだが、殊更明王峠から与瀬神社までの道は遠く感じられた。それだけ、歳をとり、体力は衰えたということか。

   
   (縦走路にて)

 


地曳網を体験

2013年11月21日 | 町内会

 最近町内会の行事に相次いで参加した。
 11月14日(木)、ペタンクの練習会。近所の神明公園で9時~10時半、参加者3名。
 11月16日(土)、富士前福寿会の誕生会。富士神社の社務所で。参加者は15名。会費を納入しているにもかかわらず参加出来ない方にはお赤飯を配った。会が始まる前に、長老から「司会は若い者に」と指名され、私は72歳と若くはないはずだが、参加者中3番目の若輩で、司会進行役を引き受けた。誕生会と言っても特定の方の誕生日を祝うのはなく、長寿に恵まれて今日を迎えられた事を互いに喜び、今後も長寿であることを願っての集い。最後は恒例のカラオケとなり、「誰か故郷を想わざる」を合唱して幕。

 11月17日(日)は富士前町会の日帰りバス旅行。今回の目玉は「キウイ狩り」と「地曳網」。快晴に恵まれたこの日、8時25分富士神社前発、東関東自動車道から館山道に入り、最初の目的地の君津にある農園着は10時42分。
 キウイは、採ってから1週間位寝かせておかないと、食べ頃にならないそうだが、近年は品質改良が進み、採ってその場で食べられる様になって来ている、とはバス内での文化部長の話。しかし、狩り前の農園の方の話では「前日にあらかた捥がれてしまった」との話にまずガックリ。後は一人10個まで持ち帰り可能と、小さな袋を渡された。キウイ狩りは初めての経験。屈みこむ様にして、頭上の、なるべく大きな果実を求めたが、大粒のものは余り生っておらず、この点も些か失望。初体験をしたことにのみ満足。(写真:フルーツ村のキウイ)


 その後岩井海岸での地曳網体験。60年以上前に体験した微かな記憶があるのみの事。参加者40人弱が二手に分かれて、沖はるか彼方に張られた網を引く。最初は軽々と引けたが、浜に近付くにつれて網が重くなる。漁師さんが綱を巻く地点まで引いてくると手を離し、今度は綱の先頭に立ち戻って網を引く。この繰り返し。これを20回は頑張っただろうか。普通なら40人位で引くところを子供さんを入れての20人の弱小部隊。いや相当草臥れた。
 さて浜に網は引き寄せられ、何が飛び込んでいるか固唾をのんで見守るうちに現れたのは、やや大き目の魚5匹。漁師さんに尋ねると、イナダ・ボラ・コチとのこと。その後のバーベキューの席で、刺身へと変身して登場。どれも皆、コリコリしていて甘味が豊富で美味。流石獲れたてだけの事はありました。(写真:引き上げられた網)


         (岩井海岸)


       (網を掛けに行く舟)

 
            (掛った魚)

 帰路はアクアラインを利用。「海ほたる」からは満月が鮮やかに見えた。帰りの車内ではビンゴ大会なども行われ、アルコールなど豊富に振る舞われ、和気藹々のうちに町内会旅行は終了した。この会を主催した青年部・文化部の皆さんお疲れ様でした。御苦労さまでした。(この日は満月)