マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

関口フランスパン店を知って

2016年01月30日 | お気に入りの店

 右の地図はボウリング仲間熊坂さんから送信してもらった地形図を加工したものである。地形図は特別の眼鏡で見ると立体的に見えるらしいが、詳しくは知らないので今日はここまでにしておく。ただ今日のブログはこの地図を参考にし頂くとより話が見えるかなとも思う。(下に再掲)

 昨年の1124日に「永青文庫」で“春画展”を観た帰り、江戸川橋バス停を目指し目白台地から目白新坂を下っていった。妻が語るには「この坂の途中にパン屋さんがあったはず」とのこと。坂を下り切る寸前に「関口フランスパン店」があり、コーヒーブレイクし、食パンをテイクアウトして来た。帰宅して買ってきた食パンを、焼かないでそのまま味わった。これが非常に美味しく私好みだった。パン好きな私としては日常的にこのパンを食したいと思ったが、何せ江戸川橋付近の、相当離れた距離にあり、何時しか忘れていた。
 1ヵ月ほどして、妻が、例のパン屋さんでの友人との打ち合わせの帰りに食パンを購入してきて再度食した。これは何とか定期的に購入しようと、ホームページで色々調べた。日本でのフランスパン発祥の地と知った。
 

 『明治6年キリスト教の解禁後、近代日本が迎えた初のローマ法王の使者、オズーフ司教が神父のペトロ・レイと共に明治20年頃、山の手の関口町へ赴いた。ペトロ・レイは、教会経営の孤児院の子供たちに何か文化的な職業を身につけさせようと考えた結果、パンの製造を思いつき、子供たちの中からひとりを選び仏印に送り出し本格的にフランスパンの製法を、勉強させた。そして彼の帰国後、教会敷地内に製パン工場を建て、関口フランスパンは、明治21年(1888年)4月小石川関口教会(現関口教会)付属、聖母仏語学校製パン部として創業。日本における本格派フランスパンの誕生。
 その後、第一次世界大戦がはじまりフランス本国から、孤児院に対する援助金が途絶え、パンの製造も出来なくなったため、教会の信者であった初代社長高世啓三が、工場経営の一切を引き継ぎ関口町に新工場を建設し関口フランスパンとして発足した』とあった


 右に地図再掲。更にこのパン店の製造工場は音羽にあり、販売店は目白坂下の本社のみならず、江戸川橋付近にも「パティスリ-ダノワーズ」(右地図の「関口パン」)の名の販売店があることも知った。こちらの営業時刻は7時~20時。これならば朝の散歩で買い物に出掛け、都バスで帰ってくればよいと思った。

 
思い立ったが吉日、1月14日(木)朝に早速出掛けた。6時40分にラジオ体操終了直ぐにフランスパン店を目指し、最短経路を探りつつ出発。自宅から赤い線の様に進んだ。朝の散歩の方向を変えただけのこと、45分でパン店到着。7時40分江戸川橋発のバスに乗車し8時にはトンボ返り。
 その経路。本郷台地は薬師坂を下り、白山台地は蓮華寺坂を上って御殿坂を下り、小石川台地は吹上坂を上って庚申坂を下った。更にもう一本荒木坂を下ると「巻石道り」で、「石切橋」で神田川を渡り、目白通りに面するパン店到着。
 帰って来て、江戸時代の地図を見ると、歩いた道は全て江戸時代には存在していた道だった。それもそのはず、名前の付いた坂はその多くが江戸時代には存在していたからだ、と思い至る。
 「白山台地」と掲示しているが、本来は本郷台地の一部。その台地上には徳川綱吉の別邸”白山御殿”が建てられていて白山台地と呼ばれている。そこでその部分を「白山台地」と掲示した。又「小石川・目白台地」のうち、その中の特定台地を指す時には「小石川台地」と「目白台地」を区別することもあり、ここでは区分した。
(追記:地図で右下青色が「不忍の池」。パン店へは往復バス利用の時もある)



武蔵野台地と山手線(その2)

2016年01月27日 | 東京散歩

 今回の地図は1/10000地形図(国土地理院)をもとに作成したものをお借りした。(右の地図)

 山手線一周乗車は実際は巣鴨駅をスタートとしたが、田端駅を始点とする記述の方が台地の説明には適するように思え、田端駅からスタートの事とする。

 スタートして直ぐに電車は上野台地に差し掛かる。上野台地は幅が非常に狭く、通過するときに、右側を見るとその断面がはっきり見えて面白い。左下側からは湘南新宿ラインが突然現れ、鉄道ファンならずとも興奮するポイントだ。山手線唯一の踏切を過ぎ、千駄木・不忍谷(かつて谷田川が流れ現在暗渠)を越えると駒込駅。ここと次の巣鴨駅は本郷台地を切り拓いて造られた。

 次の駅の大塚は指ヶ谷谷(かつては小石川の上流にあたる谷端川が流れていたがこちらも暗渠化)の上に建っている。大塚を過ぎると小石川・目白台地だ。池袋に近づくにつれて高度を上げ、湘南新宿ラインの線路と同じ高さとなり池袋のホームに滑り込む。池袋と目白は小日向・目白台地上。目白を過ぎると神田川が見え始める。平川谷だ。山手線上では唯一ここから富士山が望めた。鷺宮高校へ勤務していたころ、天気の良い日には一瞬の富士の姿を眺めたものだ。今はビルに遮られ見えないかも知れない。その日は曇り、展望は無理だった。

 平川谷を越えれば牛込台地。台地を走っている雰囲気は無いが、高田馬場以外の新大久保・新宿・代々木のどの駅も30m以上の標高があり、新大久保⇔新宿間はこの線路の最高地点。原宿を過ぎる辺りで牛込台地を離れ、駅名からも谷の上の駅と分かる渋谷へ。駅脇には渋谷川が流れ渋谷より下流は殆ど暗渠化されていない。下流は古川となって東京湾に注ぐ。恵比寿は谷の上だが、そこを過ぎ芝・白金台地に突入すると台地の中に目黒駅がある。左手を走行していた湘南新宿ラインとは立体交差し何時の間にか列車は右手を走っている。目黒を過ぎ五反田から先は低地を進み台地からは離れていく。大崎駅を前後に目黒川を2回跨ぐと品川。

 品川から田町へと進む右手の広大な更地に新駅建設の作業が進められていた。武蔵野台地の東縁を京浜東北線と並行して田端へと続く途中の、上野駅から先は左手に上野台地が迫ってくる。
 武蔵野台地東縁の7つの台地のなかで、山手線と関わりを持たない台地は赤坂・麻布台地と四谷・麹町台地。その2つの台地を内側にして、山手線は台地と谷を交互に越えて一周しているのだ。
 
 山手線駅29駅のなかで、台地と谷の関係で面白いと感じている駅がある。ホームから地上へと出るのに上り階段と下り階段のある駅だ。典型的な駅が駒込駅。階段を上れば本郷台地で、下れば谷側に下りることになり、この駅のホームから台地と谷を結ぶ坂が見えることとなる。このように谷側改札口と台地側改札口のある駅は他には原宿・上野・鶯谷を含めると都合4つある。山手線一周は兎も角面白い。



武蔵野台地と山手線(その1)

2016年01月25日 | 東京散歩

 今回から数回武蔵野台地が関わる事柄に触れる予定。そこでその武蔵野台地について整理をしておきたい。

 関東平野西部を流れる荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地。その東縁にあたる部分では開析が進み、谷が入り組み、武蔵野台地から多数の舌状台地が削り出され、それぞれに名前が付けられている。しかし、その台地を幾つに分類するか、あるいは何と名を付けるかについては、語る学者により、あるいは著作によって異なり、統一されていない。そこで、このブログでは『東京の空間人間学』(著:陣内秀信。1985年サントリー学芸賞受賞)で使われた分類と台地名を借用することとする。
 右の図は『新・歩いて見よう東京』(著:五百沢智也。岩波ジュニア新書)に載った地図を用い、『東京の空間人間学』の分類に従い、私が色塗りした拙いものである。7つの台地は北から順に

(1)  橙色 上野台地
(2)  水色 本郷台地
(
3)  紫色 小石川・目白台地
(4)  赤色 牛込台地
(
5)  緑色 四谷・麹町台地
(6)  茶色 赤坂・麻布台地
(7)  黄色 芝・白金台地
 で
ある。(色塗りは山手線・埼京線以東に限った)

 (1)と(2)の間の谷が千駄木・不忍谷、(2)と(3)の間が指ヶ谷谷、(3)と(4)の間が平川谷、(4)と(5)の間が内濠、(5)と(6)の間が溜池谷、(6)と(7)の間が古川谷 である。







 徒歩で山手線に沿って一周はしたが、それとは別に山手線そのものに乗車して、山手線と台地の関わりを見てみたかった。更に山手線は高低差が少なく、ネット上でも“明治の鉄道は、ほぼ水平地でなければ敷設できず(角度にして2度が限界)”と書かれている事を自分の眼で確かめたくもあった。

 一昨日の1月23日(土)、巣鴨から山手線を内回りに一周し(約1時間)、更に足を延ばして池袋で下車した。詳細は次回に譲るが今回は標高について触れる。
 先頭車の一番前に乗車し前面を見続けた。水平に走っている感じで、殆ど高低差が感じなかった。あってもせいぜい5m位の高低差かなと思ったのだが、帰宅しネットで調べ吃驚。29駅の中で一番低地にあるのが標高2mほどの品川駅。一番高いのは新宿駅で標高37.5mとあった。その差約36mもあったのだ。これは観察だけでは全く実感できなかった。自動車を運転していて緩い坂道だと坂と感じないのと同じだった。
 
新大久保から新宿へ向かう途中や、田端・駒込間で上野台地を通過する地点では緩く上っているのが見て取れた。中央線・総武線と立体交差している地点では盛り土的で、山手線が高さを上げて跨いでいる感じだった。駅では新宿駅が最高点とすれば、山手線の線路上での最高地点は、中央線と立体交差する地点と言えるだろう。(次回に続く)


音無川と王子街道(その6)

2016年01月22日 | 江戸の川・東京の川
 王子より下流の音無川(現在は全て暗渠)は殆ど歩いたと書いたが、まだ訪ねていない道があった。三ノ輪橋より下流の泪橋を通過する暗渠は歩いていたが、もうひとつの、日本堤に沿って山谷堀へと続く道はまだ歩いていなかった。一昨日の120日はその山谷堀を目指した。(江戸時代の地図は最下段に)
 一昨日、勤務を終えた後、通勤時の下車駅の都電「荒川七丁目」駅から、往きとは逆方向に4駅で終点三ノ輪橋到着。昨年1220日に到達した三ノ輪橋跡を出発点に散策を開始した。出発後暫くは明治通り沿に進むが、直ぐに明治通とは別れ土手通を行く。音無川沿いに日本堤が造られ、その道が土手通。お店名に「ドテ薬局」とか「ドテ理髪店」などと”ドテ”を入れているのを面白く感じながら進む。
 途中、吉原への入口の吉原大門の地点に“見返り柳”があった。旧吉原遊郭の名所の一つで遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳あたりで遊郭を振り返ったということから“見返り柳”の名があるとか。かつては山谷堀の土手にあったが、遊郭の整理に伴いこの地に移されたとも。数代を経た柳で、現在の柳に人の目を引くような勢いはなかった。(写真:右”見返り柳”の碑。下は現在の柳)



 千束通りを越えると土手通りの左手がかつての山谷堀で、今は山谷堀公園。山谷堀を暗渠にした際、そこを普通の道路にするのではなく、緑地帯として残していた。当時、堀には隅田川まで9個の橋が架けられたが、今は橋の名前が記された柱のみが残されていた。紙洗橋・地方橋・正法寺橋などである。緑地と書いたが瑞々しい雰囲気はなく薄暗く寂し気な散歩道だ。その一角に又しても正岡子規の句碑。「牡丹載せて今戸へ歸る小舟かな」とあった。(写真:子規の句碑)





  
    (山谷堀公園)            (堀に架かっていた紙洗橋)
 

 猪牙舟で大川からこの山谷堀に入り吉原へと通ったように、山谷堀に舟が行き来していた様子が窺われる。公園は途中から浅い水路が作られていたが、冬のこの寒い時期には水は流れてはいない。
 公園の端には看板に山谷堀の謂れが書かれていた。
 『・・・隅田川へと注ぐ約700メートルにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。当時この堀は吉原への通路のひとつであった。・・・』と。(写真:水の流れることもありそうな水路)









 山谷堀の最下流が今戸橋。音無川は王子に源を発し今戸橋を最後の橋として大川(現隅田川)に注いでいた。水門もあったはずが、今戸橋から隅田川までは現在工事中で、残念ながらそこから先は進むことが出来ず、水門を直接見ることは出来なかった。
 待乳山聖天にお詣りし、高台から隅田川や東京スカイツリーを一望して帰路に着いた。(写真:公園の外に”今戸橋”)

 中山道板橋宿を起点とし王子を経て終点隅田川への、私の旅も一区切りついた。王子街道・音無川については、いずれ次回以降でまとめたい。


  (待乳山聖天からの眺め)
 
 以下の地図写真は、ソフト「江戸東京重ね地図」安政三年度実測復元地図より。
 
  (上から右への黄色い線が日本堤。幾つかの長方形が吉原)

 
     (中央下に今戸橋。山谷堀が大川に注ぐ)


音無川と王子街道(その5)

2016年01月19日 | 江戸の川・東京の川

 111日(月)、王子街道を求めて、王子より以西を彷徨い歩いて来た。王子より下流の音無川沿いはほぼ歩いたので、まだ歩いていなかった王子駅より標高の高い台地(武蔵野台地)上の道を目指したのだ。
 結果から述べると、道に迷ったりしたものの、王子街道の痕跡を発見し、更には「王子新道」にも出会えたが、その二つの”王子道”が同じ街道を指すのかやや迷っている。

 ネット上で、街道が埼京線(かっての赤羽線)と交差する地点に「赤羽線 王子街道踏切」と書かれた標識が貼られているとの情報を知り、それのみが頼りの探索だった。王子駅から出発し、JRのガードを潜るといきなり急坂が2つ。左が権現坂で右が王子大坂の分かれ道。右の王子大坂が岩槻街道で、目指す踏切はこちら側にあるはずと、進路を右側に取った。暫らくして岩槻街道とは別れ、「十条駅」付近の踏切へと続く道を進んだ。
 ほどなくその踏切に到着し、電車撮影などをしながら「王子街道」と書かれた標識を探したがどこにも無いのである。唯一の手掛かりが見当たらないので途方に暮れてしまったが、線路脇に踏切小屋を発見。係員らしき人が電車が通る度に白旗を振っているのだ。今時踏切番がいる風景に吃驚しながらも、その方に「王子街道の標識は無くなったのですか」と尋ねた。すると「そんなものここには無いよ。王子街道ならもっと池袋寄りだよ」と言われ、ここで私は初めて進むべき道を誤ったことに気が付いた。(写真:踏切脇の踏切小屋)





 「東京家政大学」の案内板を頼りに、埼京線沿いに池袋方面へと進路を変えた。踏切と跨線橋を過ぎ、「北養護学校」脇の踏切に到達した。なんとそこに右写真に見る如く「王子街道踏切」の標識があったのだ。後で気が付くことであったが、その踏切を横切る道は先ほど進むのを見送った権現坂を上った道からほぼ真っ直ぐに続く自動車道路だった。(写真:「王子街道踏切」板はあった!)


          (埼京線が行く)

 こちらが王子街道であったのかと、ほっとしながらも少し進むと、今度は右写真に見る如く「王子新道」の道路標識が目に飛び込んで来た。王子街道とは一字違うが、王子街道は今進んでいる道に間違いないはず思いながら進むと石神井川に架かかる「金沢橋」。そこを渡ると「加賀公園」があった。3年前、富士前福寿会の3人組で石神井川を遡り豊島園まで歩いたときに見付けた公園である。とするとあの時の道が目指す街道であったかと、かなり安心しての歩み。(写真:「王子新道」の道路標識もあった)






  
           (金沢橋)                     (石神井川)

 板谷公園を過ぎる辺りにも「王子新道」の道路標識が見え、商店街を進み行くと、遂に旧中山道にぶつかった。そこは中山道の板橋宿だったところで、その交叉点に「王子新道」の碑が建てられていた。
 その碑の裏側には「王子新道」の由来が書かれ、既に文字は読みずらいほどに薄れたいたが、おおよそ次の様な内容だった。(写真:王子新道の碑)
 『王子新道の由来
 板橋宿は江戸時代中山道の宿駅として栄えたが、明治初頭に宿駅制度が見直され衰退の兆しが見え始め、これに加えて18年3月には日本鉄道の板橋駅が宿駅から離れた位置に開設されるに及び板橋宿は更に荒廃の一途を辿るに至った。
 花井源兵衛翁はかねてからこの窮地を脱し宿駅の活性化をはかろうと、工業地帯として発展しつつあつた王子と当地域とを結ぶ新道の建設に心血を注ぎ終始努力を重ねた。有志による2800円の寄付金を基に東京府が事業を継ぎ総額5000円を費やし、多くの困難を乗り越え1380メートルの新道は発意以来ついに6年余りの歳月を経て明治21年2月に完成をみた。 この道路はいまもなお板橋、王子を結ぶ要路としてその使命を果たしている。 開通100年に当たり先人の偉業をたたえ、ここに記念の標を建立する。東京都板橋区』 と。

 
      (交差点に建てられていた掲示板)             (高速道路下にて)
 果たして王子新道は王子街道のことだろうかと少し疑問に感じつつも、かって「王子新道」と名付けられた街道が「王子街道」とも呼ばれる様になったのだろうと推定しながら、帰路は王子新道を通り、板橋宿→石神井川→赤羽線の踏切→権現坂→王子駅と引き返してきた。