マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

東京大空襲

2010年03月28日 | 身辺雑記

 一昨日登場した光源寺の十一面観音像は1945年の空襲で焼失したと、朝日新聞の記事にありました。柏からの帰りに光源寺に行くことを決め、更に、その前に、やはり空襲で焼け出されたとの記録のある「延命地蔵」にお参りしようと考えました。

          
       (延命地蔵尊)
 
                                                  
 その延命地蔵は、大好きな「よみせ通り」に面して、とても小さなお堂の中にひっそりとおわします。どこかのお寺様の像ではなく、ご近所の篤志家によって祀られているように感じられます。その地蔵尊の脇に、よみせ通りの盛衰が描かれていました。少し長いのですが引用します。



 

 <昔から此の通りには駒込染井から上野不忍池まで藍染川が流れていた。大正12年に暗渠になり、立派な通りが完成すると各商店が調い、安八百屋横丁が栄え、朝市が立ち、生活必需品全てが取り揃った便利で活気溢れる買物通りとなった。人通りも盛んで、其の上、毎日午後から露店が夜店を並べ(中略)歩くこともままならぬほどで、その盛況さは夜更けまで続き、誰云うとなく夜店通りと広く呼ばれるようになった。が、その繁栄も、空襲によって途絶えて仕舞いました>

 東京大空襲として知られる1945年3月10日の空襲による焼失はどうかは分かりませんが、光源寺とよみせ通りは徒歩で20分ほど。おそらく同一の日の空襲によって、その時までの繁栄の全てを一瞬に失ったのでしょう。

 目黒にあった我が家が空襲により焼失したのも同じ頃だったと思います。母から聞いた話によると、空襲が激しくなって来て、”離れ”を取り壊し、そこに防空壕を掘り、そこへ避難する日々が続いたようです。
 その日もご近所数軒と防空壕に避難していると、当時3歳の私は恐怖心からこの防空壕にも爆弾が落ちると泣き喚いたようです。中にいた誰もが、何を馬鹿なと思った直後、焼夷弾が防空壕を直撃します。運が良い事にこの焼夷弾は不発弾に終わりましたが、吃驚仰天した皆は一斉に防空壕を飛び出しました。
 私の記憶に残るのはこの直後です。外は焼夷弾が雨の様に降り注ぎ、火を吹いていました。それをかいくぐるように、母に手を引かれ逃げ惑いました。ここから記憶は暫く途絶えますが、続いて再び記憶に残る場面は、ご近所の「蛸薬師」境内で、米軍飛行機の眼から逃れようとトタンを被り、息を潜めている様子です。
 この日の出来事は、大きな恐怖だったのでしょう。私は気がふれてしまったようだったと母は語っていました。僅か3歳の身に起こった事柄を鮮明に覚えているくらいですから、そうだったと思います。

 東京大空襲で20万人近くの方が亡くなったり行方不明になりました。より多くの方の生活が根こそぎ破壊された事でしょう。多くの寺院や文化財も灰塵に帰してしまいました。この大空襲だけではありませんが、戦争とはいえ、生活圏に向けて爆弾を投下する、打ち込むという事が許されるはずがありません。原爆投下も含め、国際法違反、国際道議に大きく反する事と思えてなりません。忘れかけていた怒りが蘇りました。
 


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