マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

徳川昭武が暮らした戸定邸へ(その2)

2021年07月30日 | 歴史

  松戸駅はJR常磐線快速では日暮里から4つ目の駅だ。駅着く直前に、行く手右側の車窓から小高い森の深緑が眺められ、戸定邸と書かれた道しるべも見えた。この杜が「戸定が丘」で、戸定邸はこの丘の上にあることが推測出来た。

 1883(明治16)年、29歳にして水戸徳川家の家督を甥・篤敬に譲り隠居した昭武は、松戸の字・戸定の高台に普請していた屋敷の完成に伴い1884(明治17)年6月に生母・秋庭(万里小路睦子)を伴い戸定邸に移住した。以降本邸「小梅邸」とここを行き来しながら晩年までを趣味多き人生を過ごすことになる。(庭園側から戸定屋敷を見る)


 松戸は水戸街道2番目の宿場。何度かここを通過するうちに、富士山や江戸川が望める、戸定が丘の高台に邸宅を建てることが、いつしか昭武の胸中に刻まれたのだろうか。隠居の身となり、広大な土地に屋敷が建てられ庭が整備された。1890(明治23)年に庭園の整備終えた当時の敷地は7万3千㎡(六義園より僅かに狭い)を超えていたそうな。(坂道の途中に門)
 1951(昭和26)年、昭武の次男武定は戸定邸建物とその周囲の土地1万㎡を松戸市に寄贈し、2000(平成18)年に屋敷は明治の姿をそのまま伝える点が高く評価され国指定重要文化財となった。それに先立つ1991(平成3)年、「戸定が丘歴史公園」(2万3千㎡)と「戸定歴史館」が一般公開され今日に至っている。

 玄関から入るとまずは屋敷平面図(写真右)が目に入る。来客用・家庭用・職員用と23個もの部屋があることに驚かされる。この日、戸の多くは開け放たれていて、風通しも良く開放感もあった。南側からは緑豊かな庭が眺められた。縁側に腰掛け西側を展望したが残念ながら雲厚く富士は見えず、江戸川も見渡せなかった。
 以下は、戸定邸の様子の写真展。甲冑は徳川慶喜用のものを模して製作されたもの。



 

 

 

 
  

 


徳川昭武が暮らした戸定邸へ(その1)

2021年07月23日 | 歴史

 今回は徳川慶喜の弟昭武が建設し、晩年を過ごした戸定邸(国指定重要文化財)と戸定歴史館を訪れることになった切っ掛けから話を始めよう。
 文高連・教養部の今年度の企画は、“いくつになっても学びたい”を標語にした教養講座。幅広く、歴史や健康法・文化などを学ぼうというもので、そのなかのひとつに、文京区に縁のある歴史講座が用意されていて、内容は以下の通り。(右表参照)
 ①「徳川慶喜、生誕と終焉の地 ぶんきょう」
 ④「小石川から関口台地の南斜面 江戸、明治の輝ける記憶」
 ⑤未定


 この歴史講座の特徴は講義を終えた数日後の散策にあった。講義に登場した場所何ヵ所を繋いで散策しようとするもので、そのコース選定と道先案内に協力してもらえないかと、活動室から私に声が掛かり快諾をしたのだった。
 ①で、徳川慶喜の生誕の地は、現在は小石川後楽園となっている水戸藩上屋敷で、終焉の地には現在、国際仏教大学大学院(以下 仏教大学)が建てられている。その2ヵ所に加え、徳川家の菩提寺だった伝通院を集合・スタート地点とし、コースを伝通院→仏教大学→小石川後楽園と決め、そのコースに沿っての実踏が6月10日で、本番が講義2日後の6月24日だった。(伝通院本堂)
 散策参加者は全部で9名。伝通院には9時半に集合。ここでは、教養部の古橋さんから、家康の母於大の方と秀頼の妻だった千姫について解説。私は清河八郎の墓前で、彼の概略について説明した。実は伝通院の塔頭の一つ処静院(しょじょういん)で清河八郎を中心に浪士組結成の会合がもたれ、最終的には150名ほどが参加し京都へ。その中に後に新選組を結成する近藤勇・土方歳三などもいた・・・などと語った。
 この日の圧巻は次の仏教大学だった。普通学内には入れないが、活動室のスタッフが事前に許可をもらっておいたので入構することできた。
 古橋さんから慶喜も見たであろう大きな銀杏の木のもと、仏教大学は慶喜が晩年を過ごした地で、建物は既に取り壊され、往事を偲ぶ写真が残されているのみとの説明があった。私は慶喜の弟の徳川昭武について説明した。(写真:慶喜公屋敷大銀杏)







 慶喜は水戸斉昭の第七男で、昭武は第十八男。慶喜から16歳も年下の異母弟だが、テレビには初登場との東京新聞の切り抜き記事をA3に拡大したものをお見せしながらの説明。(右写真)
 偶然にも、6月21日の東京新聞では徳川昭武が紹介されていた。6月13日に放映された『青天を衝け』18話「一橋の懐」に、天狗党討伐に向かう慶喜の一武将として騎馬姿で登場していた(その当時13歳で幼名は昭徳 配役は板垣李光人)。彼は1867年に開催されたパリ万博に慶喜の名代として派遣され、渋沢篤太夫(後の栄一)はその昭武に随行した。当然その後ドラマに何回か昭武は登場することになるが、以前の大河ドラマ『徳川慶喜』には登場しなかった。昭武は松戸市に「戸定邸」を建設し、晩年はそこで過ごしたので、昭武の初登場に松戸市は沸き立っているとうい内容の記事だった。皆さんに紹介しながら私が一番そこへ行きたかったのかも知れかった。
 松戸にある戸定邸は明治期に造られ、現存する唯一の徳川屋敷、とも知り、7月21日(水)松戸へと足を運んだのであった。 
 
 


聖林寺十一面観音さま、上野へ

2021年07月16日 | 闘い

 遥か遠く奈良の桜井まで出掛けなくとも、我が家から徒歩40分の地で仏様を拝観出来ることと知って、実に有難いことだと思った。国宝・聖林寺十一面観音菩薩立像のことである。
 緊急事態宣言発出3回目と4回目の間、感染者数の折れ線グラフが谷底から右肩上がりを始めていた7月6日(火)、私達は東博を訪れた。この間の拝観は予約制で、妻がこの日の午後のネット予約を終えていた。
 最後に聖林寺を訪ねたのは40代の前半だったか。40年前の微かな記憶を辿れば、本堂から狭い廊下伝いに進んだ先に観音堂があり、そこに安置されていた。拝観者は私ただ一人。足元に正座して、すっくと立たれる、長身の仏さまを見上げる様にお参りした。本堂に戻り、外に目をやると遥か彼方に奈良盆地が拡がり、ここが高地であることに初めて気が付いたのだった。

 今回の特別展は本館特別室のみの展示で、どこからでも、じっくり観音様を見ることが出来るのだった。一周しながら11のうち8つのお顔を観ることも出来た。私は観音様の横顔を特に美しいと思う。奈良時代8世紀の作で、高さ209.1cm。

 実は大きな誤解をしていた。この観音様は廃仏毀釈により打ち捨てられていたところを、見かねた村の民によって聖林寺へ運び込まれたと聞かされていたが、そうでないとの記録があるそうな。
 三輪山をご神体とする大神(おおみわ)神社には仏教伝来以降に大御輪寺(だいごりんじ。大神神社の神宮寺)が造られ、十一面観音立像は江戸時代までそこの本尊として安置されていた。1200年に及ぶ三輪山での神仏習合を突然断ち切きったのは神仏分離令。聖林寺が大御輪寺より預かったものの一覧を示す「覺」と書かれた資料が、明治十九年の調査によって発見されたとのこと。大御輪寺は廃寺となったため観音立像はそのまま聖林寺に留めおかれ今日にいたっている。
 資料によれば本尊の傍らには「秘仏八尺余」と記されいる(上の写真「覺」の左隣)。聖林寺に移されてからも本尊は人びとの目に触れることなく安置されていたそうな。本拠地奈良を離れの「門外不出」が破られたことは、私達には有難いことだったが、観音様にとっては不本意極まりないことだったのではないだろうか。
 実は、法隆寺からの国宝・地蔵菩薩立像も展示されていた。こちらの仏様も大御輪寺から聖林寺へ移され、明治6(1873)年に、更に法隆寺へ移座され、現在は同寺大宝蔵院に安置されている、とのこと。平安時代9世紀の作で、高さ172.7cmの菩薩さま。


亀島川を歩く

2021年07月09日 | 江戸の川・東京の川

 もう1月以上前の5月31日(月)、亀島川沿いを歩いて来た。
 日本橋川は茅場橋を過ぎると直ぐに亀島川とに分流する。ここから下流はどちらも高速道路向島線の覆いから放たれ、空が良く見えてくる。亀島川は分流後南へ流れ、亀島橋を過ぎたあたりで南東に折れ、中央区の中央大橋下流で隅田川に合流する。この僅か1kmの間に5つの橋が架かっている。(安政時代は、①霊岸橋・②亀島橋・③高橋の3つ)





 この日は半蔵門線を「三越前駅」で下車し、日本橋川の右岸を行った。亀島川は川沿いに歩く遊歩道が殆ど無い。ビルを挟んで川に平行する車道を行くことになる。それ故川を眺めるのは橋の上となる。最初の霊岸橋の上に立つと、現在工事中の日本橋水門が良く見えた。亀島川にはこの水門と隅田川との合流直前の亀島川水門がある。隅田川との合流点は海に近いため、高潮を防ぐ防潮水門だそうな。(写真は日本橋水門)



 新亀島橋から亀島橋へと進む間に右写真の暖簾の掛かる店があった。暖簾の文字は「富田重雄」と読めた。私の知人に一字違いの御仁がおられる。その偶然にビックリし店中を覗くと、幾つかに和菓子の中にどら焼きが並んでいた。お土産に2個購入し、帰宅後調べるとこの店は「梅花亭」本店で創業は嘉永3年(1850)とのこと。

 説明に「初めて丸形のどら焼きを創作する。銅鑼の形のあんに、薄く衣を付けて皮を焼く」とあった。この辺りは今は中央区新川だが、霊岸島の一角で長い歴史があるはず。かって新川にある会社に勤務していた富士前福寿会々長小林さんにメールすると、「梅花亭は地元の名店です」との返信メールが来た。流石に美味しいどら焼きで2個しか購入しなかったことを悔いた。今回の散策時にも見知らぬ名店に出合ったのだ。これが愉しい。

 その小林さんのメールには亀島橋付近には「堀部安兵衛居住地の碑があるのに気が付かれましたか?」とあったが、見落としていた。川を挟んで左岸が新川で対面の右岸が八丁堀。左岸を歩いていたのだ。赤穂浪士がここを通って討ち入りに向かったとの逸話もあるそうな。兎も角亀島橋を過ぎると前方の風景が開けてくる。(亀島橋を過ぎて直ぐの亀島川)



 高橋には明治道路が走り、南高橋からは亀島川水門間近に見えた。隅田川に架かる新中央橋が別世界に着いたことを教えてくれる。(亀嶋川水門)
 







   新中央大橋
 

 亀島川が造られた目的はここに日比谷河岸、将監河岸、亀島河岸、湊河岸などの河岸を作り、船便の荷の積み下ろしの為だったと思う。行徳で積荷された塩は亀島川の河岸でも降ろされたことだろう。江戸時代の水路塩の道を辿る旅はここ亀島川の河岸で終わりを迎えたことになる。
 川が
いつ頃どの様に造られていったかはこれからの学習課題だ。
 
 
 


『高瀬庄左衛門御留書』(著:砂原浩太郎 出版:講談社)を読む

2021年07月02日 | 読書

 久し振りにいい時代小説を読んだ。物語展開が面白い。読後感が爽やかで清々しい。そして、何よりも抑制された筆運びが美しい。最初の2回は図書館から借りてきて読んだが、その文章をじっくり味わいたくて、最近購入し3回目を読み終えた。

 舞台となるのは、架空の、十万石ほどの神山藩。主人公の高瀬庄左衛門は齢50歳目前。郡方(こおりかた)を務め、藩内の村を見回り、その様子を御留書として、上役に報告する日々。
 妻に先立たれた庄左衛門の一人息子が郡方のお役目中、崖から落ちて命を失うところから物語は始まる。嫁の志穂を実家に帰し、好きな絵を描くことで一人暮らしの寂しさ、無聊を慰めている。その志穂は庄左衛門の非番の日に絵を習いにやって来るようになる。
 静かな平穏の日々を過ごす庄左衛門に思わぬ人との出会いがあり波風が立ち始める。脇役ともいうべき人物やその交流も良く書き込まれている。
 志穂の頼みで人を見張る夜、偶然出会ったのが夜鳴き蕎麦の屋台を引く半次。暗い過去を持つが、江戸仕込みの旨い蕎麦を食わせてくれる。
 江戸から戻り藩校日修館の助教となった立花弦之介は、何故か庄左衛門に一緒に新木村を訪れたいと語り、二人して郷方回りを始める。
 剣の師匠の墓参りの折、師匠の娘芳乃と偶然再会した庄左衛門は若かった頃剣に打ち込んだ仲間と自分を思い出す。

 そんな平穏に見えた日々が突然破られる。庄屋の次郎右衛門の病を見舞いに新木村を訪れた際、強訴に向かう百姓の一団に遭遇し、弦之介ともども庄屋屋敷に擒となってしまったのだ。その災難をなんとか逃れた二人には「士道不覚悟の疑ひこれあり、ただちに評定所まで出頭いたすべし」との一筆が待っていた。果たして庄左衛門と弦之介の運命や如何に??
 実は強訴は藩の政争の一端だった。息子の死も其処に端を発していた。全てが明らかになり、政争は収束し、庄左衛門に再び平穏な日が訪れて来た・・・。

 庄左衛門は人の誠を貫き、厳しく己を律する日々。そんな義父に微かな思慕を抱く志穂だったが、思いを断ち切り、目付け役筆頭の娘花江の側仕えとして江戸へと旅立っていく場面が哀切極まりない。

 藤沢周平著『三屋清左衛門残日録』を連想させる作品で、是非この続きの「神山藩シリーズ」なるものを書いてほしい。
 直木賞選考委員会が14日に予定されているそうな。河鍋暁斎の娘を描いた、澤田瞳子著『星落ちて、なお』も本作品もノミネートされている。この2作品がダブル受賞されることはないだろうか