マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

鉄砲坂と群林堂と

2012年06月12日 | 

 6月12日(火)の昨日、文京区目白台にある「永青文庫」に出掛けてきました。例によって新聞販売店のチケット申し込みで入手した入場券2枚を利用しての鑑賞。かってここを訪れた時は、目白駅から目白通りを歩きましたが、今回は家人と相談し、より近道を行くことにしました。
 そうです。都バスの上野松坂屋⇔早稲田路線を「音羽1丁目」で下車し、鉄砲坂を経由して目白通りを越え、胸突坂手前の永青文庫を目指すルートです。鉄砲坂はまだ歩いた事の無い坂で、このルート上に鉄砲坂がある事を知り、ラッキーと思いました。

 この坂は音羽の谷から目白台へ上る坂で、急坂です。気合いを入れて上りました。現在坂下にある東京音楽大学学生寮の辺りは、江戸時代は的場、即ち鉄砲の射撃練習場で、角場とも大筒角場とも呼ばれ、坂の名前の由来になったと書かれています。(写真:鉄砲坂由来の書かれた看板)








 急坂を上るとお屋敷街の雰囲気が濃くなり、立派な門構えの家々が軒を並べ、左手には東京カテドラル大聖堂の塔が見え隠れします。「江戸重ね地図」で調べると、現在目白台と呼ばれる台地には、松平家・黒田家・秋元家などの大名屋敷が密集し、現在の目白通りを挟んで、その向こう側に細川家の広大な屋敷がありました。その屋敷跡は新江戸川公園や和敬塾などに姿を変えて現代に至っていますが、永青文庫もその一つ。永青文庫については次回ブログで触れることにして・・・・。








     (写真:目白台の佇まい)

 帰路は胸突坂を下り芭蕉庵への道は辿らずに、鉄砲坂を下りました。音羽2丁目バス停前の「郡林堂」の豆大福を買って帰りたかったからです。初代主人が産み出した豆大福の味を、2代目主人の池田正一さんが頑なに守っているお店で、北海道富良野産の赤えんどう豆や十勝産の小豆など厳選した素材を使った豆大福は、美味との評判を聞いていました。
 豆大福は人気の為午後の早い時間には売り切れてしまうそうで、先週の6月2日(土)にバスでここを通った時も長蛇の列で、
並んでいる人数を数えると30人ほど。ウィークデーの今日はチャンスと敢えて寄ったのでした。帰宅して食した豆大福、餅の塩味と餡の甘味のバランスが絶妙で、非常に美味かったです。安くて美味。庶民の菓子が人気の秘密だと思います。(写真:瞬間客足が一瞬途絶えました)





 

 
 


『野川』を歩く(その2)

2012年06月02日 | 

 「滄浪泉園」を入口まで戻り、その脇の道を薬師通りまで下りました。この通り左手に国分寺崖線を望みながら野川に平行する様にはしります。小金井街道の下を潜り、右折するといよいよ野川とご対面です。

 この前原町辺りから見る野川は、一面が草花に覆われていて、水の流れは非常に細く見えます。崖を下り土の感触を確かめながら、川面に近い道を歩むと、川はすぐ眼前を流れます。神田川の上流の様に、目線から川面までの距離が非常に近いのです。





 草花で覆われた一面に黄色い花の群落があちこちに咲き乱れます。「何の花でしょう」と問うSUさんに、私は5月22日に出掛けた「高橋宏子個展」での屏風に登場していた”黄菖蒲”を思い出し「キショウブかも知れない」と答えました。さて、その結末は?文末に。





 川の両側には公園等が幾つもありました。武蔵野公園、野川公園、大沢緑地などいずれも緑豊かで広大な面積を持つ公園です。野川公園で後から登場のS I さんと合流し、メンバーは7名となりました。その7名の眼に都会では滅多に見られない光景が飛び込んできました。公園内で、上半身裸で水遊びをする、幼稚園児50名ほどの元気な姿です。


 直ぐそばでは川向こうまでロープを張って、先生の誘導のもと、子供達が川渡りの往復にチャレンジしています。その先生に「公園から苦情は出ないのですか」と尋ねると「注意されるまでやっています」との答え。野川を生活の一部としている姿を直接見ることになりました。















 公園内にある「自然観察センター」で休息を兼ねて野川の知識吸収に努めました。ここで先ほど観察した黄色い花が「キショウブ」と書かれ、私の推定が当たっていて、面目をほどこしたのでした。


信濃町から四谷へ、坂を巡る(その2)

2012年04月02日 | 

 四谷写真会館で三修会「四季燦々」を観た後、その前の通り三栄通りを新宿方向へと向かいました。会館から徒歩3分ほどの所にある「塩湯」を目指したのです。この銭湯は「2000年東京銭湯マップ」に”入口の坪庭が評判”と書かれていましたから、この機会にこの湯にも浸かってみようと考えていたのですが、前まで出向くと定休日。読みの甘さを悔いました。

 今日はこれにて帰ろうと思った時、坂巡りの途中で若葉湯の前を通りかかった事を思い出し、敢えて若葉湯へ。
そこまで利用した地図を頼りに”今来た道”を引き返すのは相当の遠回りになりますから最短距離と思しき道を辿る事にしました。この辺の地形は一度歩けば、大よその察しが付きます。要するに新宿通りを直角方向に折れて谷方向に進み、谷に辿りつけば後は右折か左折で行き付くはずです。

 という訳で新宿通りを左折し路地通りに入ると直ぐに、鯛焼き屋さんが目に入りました。店構えに趣があり、餡の由来も書いてある由緒正しそうなお店。その前を通りながら、時間に余裕があれば、帰りにお土産に買って帰ろうと心積りをしました。

 

 若葉湯への道は予想した通り、数時間前に歩いたクランク状の鉄砲坂を下り、右折すると若葉湯。久し振りに450円を支払い入湯。これと言った特徴の無い銭湯でしたが、温度の熱い事。44度~45度はあるでしょうか。午後4時頃の入浴が様になる高齢の方のみ、私も含め7人~8人。湯が熱いのも頷けます。
(写真;鉄砲坂)






 帰りも鉄砲坂を昇り、件の鯛焼き屋「わかば」へ。買う段になると私の前に4組が行列待ち。待つ間に餡の原材料産地を見た気がしますがこれは忘れました。帰宅して包み紙を見ると「安藤鶴夫」の文字が散見出来、食する前に鯛を眺めると餡がはち切れんばかりです。食してみて分かったことは餡が尻尾にまで詰まっていて、今までに食べたことのないもぐもぐとした食感の餡で、非常に美味しい。鯛焼きの名だたるお店だと直感しました。(写真:包み紙の文字)







 

 その後ネットで知った事は東京の鯛焼き御三家は「柳家」「浪花屋」「わかば」。その「浪花屋」のファンとの間で鯛焼きの尻尾に餡が入っていて良いのかを巡って論争があったとか。私は単純に餡は多いほど有難いと思っていますが。(写真:鯛2匹)









 兎も角、この方面の鯛焼きの知識ゼロで、名店にめぐり合った我がお店発見勘を内心自慢すると共に幸運を思いました。早速クラスメイトBさんにこの事をメール送信すると、
「夫が小人閑居日記 2010. 9.14.>で書いていますと」の返信。
 (上記ブログURLは http://kbaba.asablo.jp/blog/2010/09/14/

 さて、東京は”コンクリートジャングル”との見方があります。一面的で皮相的見方である事が、街ち歩き・坂巡り・川歩きをしていると、良く分かります。新宿ビル群や六本木摩天楼の様なビルもありますが、密集した町屋・商店街・屋敷町・寺院の数々など、東京には、私が生活している駒込近辺とそう変わらない懐かしさに満ちた空間の方が多いはずです。坂巡りを二つもやった感覚を味わった日の一番の感想です。


信濃町から四谷へ、坂を巡る(その1)

2012年03月31日 | 

 前回のブログの続きです。
 という訳で、比較的好天に恵まれた3月26日(月)信濃町から四谷に掛けての坂を巡って来ました。
 都営線のみでJR信濃町駅へは行かれません。千石→(三田線)→春日→(大江戸線)→都庁前→(大江戸線)→国立競技場と地下鉄を乗り継いで、国立競技場で下車。ここからスタート地点の信濃町駅へは徒歩5分です。



 実は「江戸と東京の坂」には江戸切絵図にも現在マップにも坂巡りの道順が赤い線で示されています。更に本文は、例えば「外苑東通りに引き返し、四谷三丁目方向に進み、信濃町駅の先を右折」と、まるで手に取るような道案内です。私はこの道順に従いました。

 その上、行く先々の寺院とその謂れや、所縁の人々も紹介されていて便利な事この上無しの案内書です。それに従い歩いた坂は、千日坂や観音坂などを含めて13。辿ったお寺は10数寺院。全てのお寺さんを丁寧にお参りすることは出来ませんでしたが、最終目標「四谷写真会館」までの所用時間は3時間半。歩数計は2万5千歩を越えていました。(写真:観音坂)



 四谷台地と信濃町側台地(こちら台地の名前は分かりません)間には鮫河谷があり、そこに流れを発するのが鮫川(赤坂川)です。信濃駅側台地には多くの寺が密集し、四谷台地は高級住宅街で学習院初等科などが存在し、甲州道(現新宿通り)が走ります。2本の台地と鮫河谷を結ぶのが江戸時代からある坂なのです。(戒行寺内火附盗賊改方”鬼平”の碑)






 特に興味を感じた3つの事柄を語ります。


 その1 多くの坂から江戸情緒が感じられますが、私の一押しは「闇(くらやみ)坂」。永心寺と松巌寺に挟まれた細い坂で、その日も殆ど人通りは無く、江戸時代、昼間でも薄暗かったであろう事が推測できるのでした。(写真:闇坂)








 その2 鮫川の現在です。今は暗渠となっていて「鮫河橋」にその名残を残すのみですが、かってはこの川は、信濃町駅南側の「千日谷」からの流れをあわせ、赤坂離宮の中を進み、離宮内の渓谷の水をあわせて赤坂見附で平地に出ていました。その日、赤坂迎賓館の門の前には二人の男性が立ち、ものものしい警備で、その内部で流れがどうなっているかは残念ながら分かりません。
 鮫河谷沿いの、こじんまりした商店街では売り手と買い手が話し込み、街の真ん中には銭湯「若葉湯」もあり、庶民の日常生活が垣間見えます。(写真:鮫河橋地名の由来の碑)


 その3 新御所トンネル。散策の終わり近く、鮫河橋坂へ向かう小道を行くと、突然視界が開け、跨線橋の朝日橋がありました。眼下に中央線と総武線の線路が見下ろせ、四谷側に目を転じるとトンネル入口が3本見えました。総武線に乗って不思議な思いを抱きながらもそこを通った新御所トンネルの入口でした。好みの風景に出くわし、何本もの列車が通り過ぎるのを飽かず眺めていました。(写真:新御所トンネル。右端の線路の先にあるのが旧御所トンエル)
(旧御所トンネルについては別の機会に)

 最後に四谷駅前に到着し、坂巡りは終わり四谷写真写真会館へと向かったのですが、坂巡り第2ステージが待っていました。次回グロブに。
 


『江戸と東京の坂』(著:上野 勝 出版:日本文芸社)を読む

2012年03月29日 | 

 日本坂道学会会長上野勝さんが、1月27日の朝日新聞夕刊に「坂を歩けば江戸情緒」として登場し、彼の一押しの坂として、文京区にある菊坂のすぐ傍にある「鐙坂」を挙げていました。その記事を読んだ後、雪の日に鐙坂へ写真撮影に出掛けた話は2月29日のブログに「東京に、又雪が降る」と題して書きました。
 その一方で、彼の著作をオンライン検索して「江戸と東京の坂」があることを知り、予約をすると既に5人待ち。意外に人気の高い事を知りつつ、本の到着を待っていると3月24日に手元に届き、早速読んで見ました。坂好きな人間には、わくわくさせられる内容の本でした。
  

 プロローグでこう語っています。
 『江戸と東京の坂を隈なく歩き回って二十数年が経つ。明治維新後、東京という街は、江戸時代の街並みに大改造が施されて大変貌を遂げたと思われがちだが、こと道路に関してはさほどの変化はない』と。そこで江戸切絵図と現代地図とを照らし合わせながら、江戸時代から今へと続く道筋を丹念に辿ることが可能となりました。本の構成も江戸切絵図と現在マップのカラフルな図が各章の冒頭に載り、その後に9章からなる坂案内が書かれています。
 







 坂の達人から見て、どの辺の坂が面白く感じられたかを知る意味でも、その9章を全て掲げてみます、
 第1章 本郷    第2章 湯島    第3章 谷中~西日暮里
 第4章 春日~小石川   第5章 関口~目白台   第6章 信濃町~四谷
 第7章 赤坂    第8章 虎ノ門~麻布台   第9章 高輪~三田
 です。
 第3章は荒川区・台東区の坂ですが、第1章から第5章はその殆どが文京区の坂。特徴ある坂が文京区に集中している事が分かります。私は第5章の関口~目白台の坂はあまり歩いていませんから、今後ここを訪れたいとは思っていました。
 第6章以下は断片的にしか歩いたことがありません。この本で紹介される名だたる坂巡りをしようと思いながら、読み進んでいて、ふと3月26日(月)には四谷に行く予定を立てていたことを思い出しました。
 私の中学時代のクラスメイトMさんの夫さんが所属している三修会の第17回写真展が「四季燦々」と題して、四谷写真会館5階で行われ、その案内状を頂いていました。何回かこの写真展を拝見し、山と花の見事な写真の数々に魅せられていた私は、今年も是非と思っていました。
 前置きが長くなりましたが、そんな訳で3月26日(月)信濃町から四谷への散策を楽しみ、写真展へと廻りました。そのレポートは次回のブログで。