マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

古希を祝って頂く

2015年04月29日 | 身辺雑記

 妻はこの4月に古希を迎えていた。私の妹夫婦からは新潟旅行中にお祝いを頂き、既にリュックに化けている。妻の妹夫婦からは、古希のお祝いをしたいとの電話が来た。更に「義兄さんの古希にはお祝いをしなかったので、同時にお祝いしたい」との言葉が添えられた。形式的には私はオマケであるが、気に掛けていて呉れた事だけでも嬉しく、有難く出席させて貰うこととした。間もなく、北浦和西口11時10分集合とのメールが来た。ここは、50年以上前に、私が大学生時代幾度となく下車した懐かしい駅だ。
 義理の妹夫婦とは11日に塩山で会っていた。義妹(マコちゃん)からは、その折りに約束のあった皮のブレザーが送られてきてもいた。




 さて当日はどんなところに案内されるのか楽しみに待っていると、26日(日)にその日がやってきた。案内されたところは「雛の家 二木屋」。当時の埼玉大学は移転していて、今は北浦和公園となっている。その公園を突っ切り裏門を出ると閑静な住宅地が広がっていて、その一角に、建物は国登録の有形文化財の、日本料理店の「二木屋」はあった。
 広々とした日本家屋の大広間や客室などにテーブル席や個室が設えられ、日本料理を楽しめるようになっている。程なく満席となった。
 席からは庭とのぼり旗が見渡せ、室内にはお雛様が飾ってあった。そんな優雅な雰囲気での祝う会。妻は新潟旅行を挟んでその前後で体調不良だったが、この日の為に懸命に体調回復に努めて、その甲斐あって、比較的順調に懐石を楽しんでいた


 この建物内では、五節供にはお雛様が無料展示され、時折、庭に舞台を設え、薪能が演じられるという。建物や雛飾りだけでなく、料理にも自信があるのだろう、お品書き末には、料理長伊藤四朗の名前が書かれていた。箸付・小鉢・前菜・お椀と運ばれる来る料理は、見事な器に盛られ、供される料理は皆格別に美味しかった。特に小鉢の「こんにゃく酢味噌掛」は、二木屋創業者で料理研究家であった小林カツ子(小林カツ代ではない!)が百年前に残したレシピを再現したものだそうで、歯応えがあり、酢味噌とよく合っていた。
 祝われる側なので、私は気楽に、口当たりの良いご酒を沢山頂いてしまった(反省!)。



 妻は、ショルダーバックと、マコちゃん手作りのネックレスをプレゼントされご機嫌だった。胃がんが発見されたのが50代後半。全摘後も含め長い闘病が続いているが、よくぞここまで無事でいてくれた、それが3人の共通の思いだろう。あと6年すると、石野夫妻は満と数えの古希となり、そのとき私は満の傘寿で、妻が数えの喜寿。両方のお祝い会を同時開催しましょう、とまで決めてしまったが、そのときまで全員命存えたいものだ。

 

 


 

今日の一葉:ハンカチノ木:白く見えるのは苞葉:富士前公園で撮

 


越後への旅(その4 水鳥の宿 さきはな)

2015年04月27日 | 

 “旅行通”と己惚れている。履歴書の趣味の欄に「旅程を組む事」と書いたこともある。旅先でのサービスの良ししを値踏みすることも多い。取分け宿泊先の接待の質に敏感である。頭の下げ方が低いとか、言葉遣いが丁寧であるとかの目に見える事柄よりも、心底、お客様に寛いで頂こうという気持ちの、ありやなしやに関心が向いてしまう。

 今回宿泊した「水鳥の宿 さきはな」は、今まで宿泊した旅館の中では最高ランクの◎を付けたい。書いてしまうとありきたりだが、行き届いたおもてなしがまず気に入った。妹夫婦は橋という苗字だが、送信した宿泊依頼のメールに書かれた「高」は、普通の“高”ですか、梯子段の“”ですかと、出発以前にメール問い合わせがあり、着いて見ると、部屋の前には、正しく“橋”と書かれていた。(写真:宿正面)





    (川幅広い阿賀野川)

 一番感心したのは、男女どちらの露天風呂の内側にも桜木が植えられていたことだ。運もよかったが、露天に浸っていると湯船に舞ってきた、微かな桜吹雪は風流だった。(露天内の桜)




 夕食は部屋食。越乃寒梅を含む3種類の地酒セットを味わっていると、和服姿の女将が挨拶に現れ、私達4人と歓談になった。磐越西線「咲花駅」から1キロほどの、阿賀野川沿いに
現宿を建てたのが10年数前。以来息子さん2人と切り盛りして来たという。パンフレットに従業員5人の顔写真が載っているので、皆さん正社員ですかと聞くと、全員正社員でそれ以外にパートさんも雇っているとのこと。女将は働く人を大事にし、働く人たちがその思いに応え、絶妙なチームワークで”行き届いたオモテナシ”をしていることが良く分かった。
 内風呂は24時間可とは一見嬉しいが、いったい何時清掃をするのかが気になるところだ。夜11時半に妻が、朝5時に妹が風呂に入りに行くと、風呂の清掃を終え、廊下を掃除中だったとのこと。お客の来ない頃を見計らっての仕事がされていた。
 帰宅して、この宿のブログを見ると、「ベストコミュニケーション受賞」と書かれていた。そこに出席した際の、年齢不詳の女将の写真を右に無断拝借した。



 明けて18日(土)、五泉に回る予定を急遽変更した。村松公園の桜は大方散り、チューリップは連休中に満開になる様に調整していて、今は咲いている場所が少ないと聞いたのだ。若旦那(?)が教えてくれた麒麟山公園と極楽寺の桜を見て回った。簡単に進路変更出来るところがマイカー旅行の良いところだ。
 麒麟山公園のサクラは満開。極楽寺の野中ザクラは、国指定の天然記念物。今より過去の方が見事だったらしい。寺脇にある、野中公民館で一休みすると、ここでも菓子付のお茶の接待を受け、新潟への好印象度は更にアップし、磐越道経由で2泊3日の旅を終えた。
(蛇足ながら宿は新潟から普通列車で35分の「咲花」駅下車で、車の送迎あり。宿泊費は11,500円だった)(写真:常滑川沿いのソメイヨシノ)


    (ベニヤマザクラの野中桜)


越後への旅(その3 福島潟)

2015年04月25日 | 

 今回の、越後への旅の切っ掛けは、ジパング倶楽部発行の定期刊行誌に載っていた新潟案内と写真だった、そこに登場していた、普通の観光案内では見かけない、瑞々しい写真を見て、妻は是非ここを訪れたいと私に語った。毎年春に妹夫婦と出掛ける桜巡りの旅を、来年は“潟”巡りの旅にしたいと、妻は計画を練り始めた。それから約1年、漸くその“潟”の象徴とも言える福島潟に到着したのは、4月17日(金)12時過ぎ。雨は本降りになっていた。(ジパング倶楽部刊行誌より)






 福島潟探索の中心にして出発点は≪水の駅「ビュー福島潟」≫。市島邸へ向かう車から見えた、床が螺旋形に見えた建物。4人が異口同音に「ありゃ、何んの建物だ」と叫んだ建物が「水の駅」だった。実際3階までは普通の建物と同じだが、4階からは一本の螺旋状の床で6階の展望室へと続いていた。
 3階レストランで昼食を摂る間にも雨は止まず、そこから菜の花畑と、潟へと流れ込む川と流れ出て行く
水路を眺めていた。


 (こちらは「水の駅」3階からの眺め)


 幸運なことに昼食が終わると同時に雨が上がり、私たちは潟の散策に出発した。潟の縁に立つと、目の前に一面の菜の花と水面が広がり、遥か彼方に五頭山系の山並みが霞んでいた。この旅の切っ掛けとなった写真と同じ光景が目の前に展開され、私は心豊かな思いに満たされ、暫し陶然として佇んでいた。






 
休息所「潟来亭(かたらいてい)」に入っていた妻や妹夫婦から、私に声が掛かり、そこに入っていくと、20畳ほどある部屋の囲炉裏では薪が勢いよく燃え、その傍らにボランティアの、やや高齢の男性が二人座っていた。そして、福島潟の歴史や、毎月の探索会のことなどを熱心に語ってくれた。冷えた体は、暖炉の火や、入れて頂いたお茶で温かくなり、おもてなしの心意気が伝わってきて有難くも嬉しく感じられた。


          (潟来亭)

 江戸初期の『正保越後国絵図』によれば、2000ヘクタール近い塩津潟や福島潟など、大小100を超える潟湖の存在が記録されているそうな。そこには水と闘いながらその恩恵を享受する「潟端の暮らし」と呼ばれる暮らしがあった。現在でも福島潟には220種以上の野鳥が生息し、オオヒシクイなどの渡り鳥が飛来し,さまざまな生物の宝庫でもあるという。
 すべてを干拓にする計画もあったらしい。水害にも益すると判断され干拓を免れたとも聞いた。タイムカプセルに閉じ込めて仕舞いたい日本の原風景。
 福島潟から瓢湖を経て、桜が満開だった湯宿「ゆらりゆら 水鳥の宿 さきはな」に到着したのは17時を回っていた。
 今日の一葉:瓢湖に残ってしまった白鳥


越後を旅して(その2 市島邸)

2015年04月23日 | 

 4月17日(金)、新潟地方は午前中は雨との予報だった。そこで、この日に観て回る予定の「福島潟」と豪農の館「市島邸」の順序を逆にして、まずは「市島邸」を訪れた。
 車から眺める風景は北海道のそれを彷彿させた。一直線に伸びる長い道路、一面の水田と畑、低い山並みは遠景に退いていた。走ること50分で到着。雨が降り出して来た。日本で二番目の大地主だった市島家。まだ400ヘクタール以上の広さがあった頃の福島潟の東南湖畔に当たる天王地区にその屋敷はあった。

 親切な受付嬢の説明と、渡された案内図に従い、私達4人は、広大な建物内と敷地をのんびりと見学した。敷地8000坪、建坪600坪。100メートルに及ぶ渡り廊下がつなぐ母屋と本座敷のほか、茶室や米蔵、書斎などの、県の文化財に指定されている建築物群。この時刻に訪れていた人は私達4人の他は数人のみ。ややうす暗い空間を歩んでいると、別世界に紛れ込んでしまったような感じだった。

 市島家の初代治兵衛は、1598(慶長3)年、新発田藩初代藩主の入封に伴い、加賀の大聖寺からやってきたと知って、何故か懐かしい思いに駆られた。僅か3週間前に花見をした場所が東大構内の「大聖寺藩上屋敷」だったからだ。治兵衛に始まり歴代当主は商いの才覚豊かにして、幕末までの280年間に2000町歩を持つ大地主にまで成長。1898(明治31)年の全国多額納税者のトップであったとの記録も資料館には展示されていた。
(写真:表門)

  (邸宅内から眺める枝垂れ)
    
(資料館に展示されていた当家のお雛様)

 現在地に残る邸宅は1876(明治9)年に完成。戊辰戦争で全焼した自邸をこの地に立て直したものだそうな。
建物の周りの庭園・竹林・梅林・茶寮などを巡って受付に戻ってくると1時間半が経過していた。受付嬢が「市島家は福島潟の干拓や治水にも尽力してきました」と、誇らしげに語っていたのが、印象的だった。正午直前、市島邸を後に福島潟を目指した。
(写真:南山亭の大広間)


  (水月庵からの眺め)
   
  (三重塔らしかった)                    (長い廊下)


越後を旅して(その1)

2015年04月21日 | 

 新潟への旅から帰ってきて、見開きB4×2の大型地図で新潟の地理をしみじみと眺めている。信濃川と阿賀野川、二つの大河が流れる越後平野に幾つかの「潟」が存在していることに改めて気付かされる。かつては、両川の氾濫に浸され一面の水辺だった地域は、先人たちの、苦難とそれを克服した成果の賜として、米どころ新潟へと変貌している一方、「潟」として残され、野鳥たちの生息場所となっている地域もある。「鳥屋野潟(とやのがた)」や「福島潟」などがそれで、そもそも県名が「新潟」なのだ。

 帰京して、この4日間、満足度高い、今回の旅の余韻を噛みしめている。新潟の風景もさることながら、そこで受けたオモテナシの温かさと、手前味噌になるが、妹夫婦と私達の4人のチームワークの良さもその源泉だ。

 大まかなルートは
 
東京→(関越道)→(北陸道)→新潟市→阿賀野市→阿賀町→(磐越道)→(東北道)→東京と巡った2泊3日の、一筆書きの車旅。4回にわたって越後レポートを綴りたい。

 4月16日(木)、朝8時、新高島平をスタートした車は12時30分には新潟市内にある「鳥屋野潟公園」に着いた。ここは鳥屋野潟の周辺に広がる14.4ヘクタールの広さを有する県立公園。樹齢50年を超える、2,000本のソメイヨシノの桜並木が湖面に映えるとの情報も得ていて、その満開の風景に出会えるかも知れないとの淡い期待を抱きつつ、ここを訪れたのだ。残念ながら2・3日遅かったが、花吹雪と散った花びらも又華麗で、八重桜は満開だった。(写真:鳥屋野潟公園)
 よく整備された公園には多くの樹木が植えられ、ゆったりと花見が出来そうな広場には、その夜の宴に備えてシートが幾つか敷かれていた。

   (鳥屋野潟公園内の八重桜)

  (鳥屋野潟公園は緑の園でもある)

 午後は白山公園へと回った。市内はどこの桜も散り始めだったが、「芸術文化会館」屋上にある「空中庭園」からは信濃川が一望でき、川沿のやすらぎ堤では、桜にかわりチューリップが主役を演じていた。(右写真は信濃川沿いやすらぎ堤)
 宿泊した「ホテルメッツ」は駅から1分の至近距離。
 夜は予約しておいた海鮮居酒屋「えびす鯛」へ。新潟は魚と地酒が実に美味い。特に越乃寒梅も含めての6種類の地酒セットは980円と割安感があり、4セットも味わってしまった。個室利用で、よく飲み、よく食して15,000円を切ったお値段。かくして新潟での第一夜は更けていった。


    (やすらぎ堤)

(文化会館から見下ろした憲政記念館:明治16年の建築)

    (えびす鯛の玄関)