マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

5年ぶりの草津(その2) ブログ最終回

2023年12月09日 | 街道を行く

 帰路、草津から河原湯温泉までは通い慣れた道を辿ったのだが、そこから高崎までは全く初めて通る道だったのでどの道を通ってきたのか私には全く見当がつかなかった。そこで運転を務めてくれた石野さんにメールで聞いてみた。
 「河原湯温泉駅から県道377号線でトンネルに入り、大戸関所あたりで国道406号線に合流した」とのことだった。この国道406号線こそ草津街道と呼ばれ、かっては信州から草津を経由して江戸に向かう最短道路だったらしい。途中「信州草津街道」という道路名看板を見たことからも、国道406号線は信州草津街道(以下草津街道)とも呼ばれていたのだろう。そのトンネルは距離にして3Kmあまりだが、2020年に開通し、川原湯方面から高崎方面に行く時間が30分短縮したとのことだ。(写真:トンネル開通式)
 帰路、草津街道を通ることによって初めて出逢った風景など幾つもあつた。

 ①国定忠治地蔵
 吾妻町大戸には昔大戸関所があったそうな。その関所を破った国定忠治は関所破りの重罰で処刑された。今もその場所が処刑場跡として残っている。不思議なことにそこに忠治の地蔵さまが建てられている。私も何かの本で読んだのだが「強気を挫き、弱気を助ける渡世人」だったからか、世にその人気は高く、地蔵まで建ててくれた御仁がいたのだろう。子分一覧の立て板も張り出されていた。(写真:国定忠治地蔵)





②牧野酒造
 車は大戸関跡を通過すると高崎市倉渕町に入り、406号線はその中心部から山側を辿った。そこに「牧野酒造」があった。このような山深き所に酒蔵があるとは、この辺をドライブしたことのある石野さんでなければ知らないだろう。創業が元禄3年というからかなりの老舗である。ブランドは「大盃」(鑑評会で最優秀受賞)と「榛名山」。「大盃」を試飲させてくれた。やや辛口ながら非常に口当たりが良かった。早速石野家は購買に及んでいたが、最近晩酌を止めている私はぐっと堪えてしまった。クリスマスに掛けて友と飲む機会もあるので、買いそびれたことを後悔したが、後の祭りであった。
 次回草津温泉に誘って頂けることがあるならば、このルートを通って牧野酒造に寄って欲しいものだ。

③道の駅「くらぶち 小栗の里」
 同じ倉渕町に道の駅「くらぶち 小栗の里」があった。石野車が「小栗の里」に入る直前にここは小栗忠順(ただまさ)の領地だった土地ではないかと思い至った。幕末に徳川幕府を支えた中心人物の一人小栗忠順は鳥羽・伏見の戦いで破れた後も徳川慶喜に薩長軍との主戦を主張し退けられ、上州は領地権田の地に隠退した。慶応4年新政府軍に捕らえられ、この地で理不尽に断首された。日米修好通商条約批准書交換のため渡米し、帰朝後外国奉行にまでなった傑物である。道の駅の一角には、小栗忠順の説明コーナーがあったが、この有能な人物の業績を語るには、説明コーナーの規模は小さく寂しかった。小栗びいきの私には非常に不満だった。(写真:道の駅外観)

 ④少林山達磨寺
  車は高崎市上豊岡町北交差点で高崎環状線に入り達磨寺に向かった。「高崎のだるま市」で有名な達磨寺を私は一度も訪れていなかった。本堂までを階段を上って行けば200段はあろうかという高低差のところを、石野車で一気に本堂近くの駐車場まで行ってしまった。本堂には実に多くの、目玉2つが黒く塗られた達磨さんが置かれていた。


 黄檗宗禅宗のこの寺は達磨大師の教えを受け継ぐ縁起達磨発祥の寺として有名で、毎年正月6,7日に開かれるだるま市はかなりの人出で賑わい混み合うそうだ。秋の紅葉も有名で、私たちが訪れた時も見事な色合いを見せてくれた。マコちゃんが納経帖を持って社務所に向かうと、写経してくれる間にお経を唱えてくれた。マコちゃんには初めてのことだそうで、紅葉とだるまとともにこの寺の写経を覚えておくだろう。

 今回まででブログ「マーちゃんの数独日記」を終えます。始めたときにはこんなに長く続くとは思いもよらなかったのですが、14年7ヶ月近くに及びました。少し«数学帰り»をしようと思っています。長い間のご愛読を深く感謝申し上げます。有難うございました。
 
 
 


5年ぶりの草津(その1)

2023年12月03日 | 街道を行く

 実に5年ぶりに、草津に旅し中沢ビレッジ・タワー棟に2泊して来た。義理の妹の石野さん夫妻から私にお声が掛り、ご一緒に菅原さんもお誘いしませんかとの有難い話があった。
 11月27日(月)から29日(水)まで2泊3日の旅で、往復、菅原さんと私は池袋・籠原間は高崎線を利用し、籠原で石野さん夫妻と合流した後は籠原・草津間を石野車で移動した。特に高速道路を利用しない、今までとは違うルートで草津入りしたので、今までに見たことのない、印象深い風景に接することが出来た。
 11月27日(月)、籠原駅で合流後大きなスーパーで刺身・日本酒・ビール・つまみなどを購入。今回の宿泊は全く宿食には頼らず、全て持ち込んだものを部屋で食したので、宿泊費は1人1泊3950円と安上がりで済んだのだ(ホテルそばのコンビニで補充もしたが)。
 さて取ったルートは初めての道なので、通った道路名は分からなかったが、最初に着いたのが、群馬県中之条駅から山側に入った「道の駅霊山たけやま」。「道の駅」からは山頂が岩山の「嵩山」が実に良く見えた。嵩山は吾妻八景の一つで、山頂の大天狗からの眺望が素晴らしいとのこと。山内では胎内くぐりも出来るらしい。(写真:嵩山。山頂の右端の岩山が大天狗)
 私たちは嵩山を見た後、道の駅の一角にある「そば処けやき」に急いだ。ここの十割蕎麦が絶品とは来たことのある石野夫妻の弁。繋ぎが難しいと言われる十割蕎麦は滅多に食せない。流石に美味しかった。妹の石野マコちゃんは蕎がきを注文し、私も一口食べたがこれは蕎麦の味が十分味わえた。



 次に到着したのが「岩櫃山(いわびつやま)」を良く展望出来る地点だった。今までに何度も吾妻街道を通ったのだが、私は岩櫃山の存在に気が付かなかった。岩櫃山は標高802メートルの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地。南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣で、登山路も整備されているらしい。山頂からの眺望はすばらしく、眼下には東吾妻町や中之条町の市街地が、眼前には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めるそうな。今私の脚力では可能性は薄いが、新緑か紅葉のシーズンに登っみたい気を起させる山だ。その山容がしっかり見渡せる地点を案内してもらったのだ。(写真:岩櫃山)

 その日最後の見たのが、水が湛えられた「八ッ場ダム」だった。5年前ここを通過したときはまだ建築が進められていて喧騒が感じられたが、今回訪れた時は、人影は全く疎らだった。(写真:八ッ場あがつま湖







 名湯「川原湯温泉」は湖底に沈み、変わりに、高台には川原湯温泉宿が幾つか作られていた。川原湯駅にはエレベーターで下っていくので、まるで地下鉄に乗るような雰囲気だ。実際に駅に降り立っては見なかったが、駅からは湖が見えるらしく、«地下鉄駅»ではなく«地上駅»だ。 川原湯駅入口付近には記念碑と「元の湯源泉」が作られていた。大きな変りように驚きつつ湖面を見つめ、息子と万座プリンスホテルへ行く前夜宿泊した30数年前を思い出した。
 ここを最後に、車は一路草津温泉「中沢ヴィレッジ」を目指した。(写真:元の湯源泉)


妻の一周忌

2023年11月22日 | 身辺雑記

 妻の一周忌の法要を11月19日(日)13時から、檀家寺蟠龍寺で執り行った。ご住職の読経の後お墓参りをし、精進落としは目黒雅叙園ホテル東京内の日本料理「渡風亭」で、ほぼ身内の10名で行った。
 妻の命日は11月30日だから、命日より大分早く行ったことになる。実は私は11月18日(土)に「文京アカデミー」で『本駒込 今昔物語』を語ることになっていた。具体的準備や心の準備もあるので、一周忌はその後にして貰おうと息子と相談すると、日曜日を前提すると、仕事の関係で11月19日(日)しかないとのことで、19日を一周忌と決めた。(9月に入って私が睡眠障害に陥り、«語り»の役割を下ろしてもらっていたので、後から考えれば11月18日以降に拘る必要はなかったのだが・・・)

 13時からご住職の読経が始まった。お経を聞きながら、妻と過ごした年月で印象深い思い出の数々が胸を横切っていった。楽しかった別荘暮らしでの妻の姿が思い出された。
 19日が一周忌ですと語ると、必ず「もう一年ですか。早いものですね」との言葉が返ってきた。私もそう思う反面、ここまで来るのに、日常生活でも心理的にも越えねばならかった幾つもの壁があったことを思うと、読経の時に、漸くこの日を迎えられたのだという感慨が横切った。



 「法要は30分程度でお願いします」とご住職さんには申し訳ないお願いをしていた。その日に飛行機で帯広に帰らねばならない息子の都合に合わせて、雅叙園での会食開始を2時半に予約していたので、今日のお経は短時間で終え、仏話の続きは三回忌の時にしますとご住職は語って法要を終えた。法要の前にお墓を掃除し、お花を供え、お線香も灯しておいたので、お墓参りは皆それぞれの、妻への思いを伝える祈りだけで終わり、雅叙園の開始時間には十分間に合った。

 雅叙園内には色々な食事処がある。母の法要後の会食を含めて今までは中華レストラン「旬遊紀」を利用していたが、今回は日本料理「渡風亭」。掘り炬燵が切ってあり、高齢者には非常に良かった。料理も美味しかった。参加者は妹夫妻のところは子供3名を含め5名、義理の妹夫妻のところが2名。私のところは私と息子の2名。それ以外に私の高校時代からの友人瀧川さんが参加してくれての合計10名だつた。(妹の孫1名が特別参加)
 皆顔見知りである。和気藹々とした雰囲気のなかで和やかな時は流れ、時に妻が話題に上り、心温まる会は16時半お開きとなった。帰路私は瀧川さんとコーヒー店に寄ってから帰路に憑いた。


孫の七五三で音更へ

2023年11月16日 | 身辺雑記

 11月11日(土)から13(月)までの3日間、息子一家住む音更を訪れ、孫たちの成長ぶりを実感して来た。長女は今年小学校に入学し満7歳、七五三の年だった。
 予定では12日にスタジオで記念撮影をすることになっていたのだが、その日に息子に税務説明会の仕事が入り、写真撮影は11日の14時に急遽変更された。予約しておいたJAL575便の十勝帯広空港着が12時20分。あまり時間の余裕がないので、空港に着いてからの荷物待ちの時間を省くため、主要なものは段ボールに詰めて予め音更に送っておいたので、ザックひとつ身軽な空の旅となった。

 飛行場には息子と次女が出迎えに来てくれた。車で早速帯広市内にあるスタジオに向かった。今回はお宮参りもしないで、スタジオでの記念撮影のみ。主役の長女は着物とドレスの2様の撮影。次女もドレスで着飾った。姉妹二人一緒の写真撮影もあった。私も含めて5人での撮影など様々な撮影をし、全部で50枚くらいの撮影をし、その中から気に入ったものを選んで、アルバムにして後日家族や私に送られてくるので、現段階では、正式に撮影されたものをここに掲示できない。




 
 

 撮影終了後、お宮参りもせずに息子の家に急ぎ帰った。孫たちはおじいちゃん(私のこと)がお土産として持ってくると約束していたジグソーパズルを一刻も早く見て、並べ出したいのだ。長女には「クレヨンしんちゃん 500ピース」、次女には「スーパーマリオ 500ピース」と「クレヨンしんちゃん 300ピース」を用意しておいた。この日は「スーパーマリオ 500ピース」を早速始めた。家族4人に私が加わって5人での大仕事。この日は全部完成はしないで、私は早く寝てしまったが、次の日リビングを見ると見事完成していた。特にママのやよいちゃんと次女の貢献が大きい様に思う。孫たちは何度かやるうちに、どこに何が入るか覚えてしまうようだ。残念ながら私の貢献度は殆どない。(写真は「スーパーマリオ 500ピース」)

 12日(日)は、息子は仕事に向かい、孫たちはサッカーの練習に。ママ運転のBMWに私も乗せてもらい、30分で白樺学園のグラドへ。女の先生の指導のもと基礎練習を40分ほどやった後、5人対5人の練習試合。長女は足が速い利点をいかして、自軍が危なくなると全力でゴール守備に向かっていた。5歳の次女が最年少だそうだが彼女も健気に参加。試合は6対2で孫の入ったチームが勝った。(写真:先生を挟んで右が長女で左が次女)
 試合終了後「Steak Victorika」に向かった。頑張ったご褒美に私が御馳走した。2人とも実に良く食べていた。
その後ママは食材の買い出しに。その間私はおもちゃ屋さんで孫の面倒を見ていたのだが、ルービックキューブの前で二人は立ち止まって動かない。こうなるとおじいちゃんは弱い。2人に同じものを買ってあげた。帰って来て直ぐにルービックキューブを始めたが、孫たちに出来るわけがない。「おじいいちゃん やって見せて」ときた。1年以上前は出来たのだが、この間ずうっとやっていないなかったので、一面完成しかできない。良いところを見せられなかったことを悔やんだがあとの祭り。
 13日は息子は釧路へ3泊の出張、ママはお仕事、長女は学校、次女は保育園と4
人それぞれ行くところがあるのが分かっていたので、私はこの日に帰ることにしていた。お気に入りの「六花亭」で、お代わり自由の珈琲を味わい、昼食も含めて2時間半を過ごし、15時40分とかち帯広発のJAL574便で帰路の途についたのだった。


都高教退職者会「東京歴史散歩」に参加して(その2)

2023年11月04日 | 東京散歩

 神仏分離令は具体的にはその多くが廃仏毀釈となって現れ、富岡八幡宮の別当寺だった永代寺はその地を追われ廃寺同然となり、その境内は深川公園となった。その後同公園内には深川不動堂が建立されたので、現在深川公園は深川不動堂を挟んで東西に分断されている。(右写真は江戸東京重ね地図より。再掲)
 その深川公園は、1873(明治6)年、太政官布達によって定められた日本で最初の公園のひとつ。そのとき同時に公園となったのは、芝公園・上野公園・浅草公園・飛鳥山公園で、私は深川公園以外はそのどれにも行ったことがあったがここは初めてだった。その公園内で格別に目立つのが「石造燈明台」だ。
 以前は、深川不動堂境内の南東にあったが、2008年に深川公園へ移築された。高さが83.94m、約37m四方の燈明台で、地上の灯台といったところか。 
 日清戦争の戦勝を記念して明治31年に竣工された。設計者はジョサイア・コンドル(ニコライ堂の設計者)に師事した佐立(さたち)七次郎。内部は煉瓦積みで螺旋階段が付けられていたと思われ、周囲には寄付をした人々の名前が石版に刻まれていて、市川團十郎、尾上菊五郎、市川左團次ら歌舞伎役者の名前が見える。一番上には八角形の火袋があっが、関東大震災で倒れたらしい。


 深川公園を後に富岡八幡宮に向かったが、数年前、神社にはあるまじき不祥事件が発生していて、私は参拝する気にならず、素通りして「大関力士碑」や「横綱力士碑」へ急いだ。鶴岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地して知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑が建立された。最近の横綱名を見ると鶴竜・稀勢の里と続き、照ノ富士で終わっている。さてその次は誰か。確信をもって名を挙げられないのが今の相撲界の現状だ。
 
 
 さてその次に回ったのが八幡橋。旧弾正橋で、明治11年に架けられた鉄製の橋で、東京市に架けらた最初の鉄橋。日本に残っている鉄橋のなかで最古の部類に入ると言われている。鋼製ではなく純粋の鉄の橋で、現在残っている鉄の橋としては非常に珍しいものとか。見た目にも鉄だけで造られているのがはっきりわかる。関東大震災後の復興事業で川や運河が再興され、橋は使われなくなってしまったが、その由来を惜しまれ、昭和4年現在地に移設され、昭和52年に国の重要文化財に指定された。私たちはこの橋の下で記念撮影。帰りはこの橋を渡ったのだが、少し揺らしても揺れは感じられなかった。(写真:八幡橋下で)

 最後に向かったのが江戸三十三間堂跡。京都の三十三間堂で行われていた流し矢の流行を受けて、寛永19(1642)年に、京都三十三間堂を模して建立されたのを始まりとする。元禄11(1698)年に焼失したが、元禄14(1701)年富岡八幡宮の東側に再建された。しかし、明治5(1872)年、廃仏毀釈により、江戸三十三間堂は廃された。こちらは南北六十六間の堂舎で、本尊は千手観音であったとされる。歌川広重の「名所江戸百景」ではありし日の姿を見られるが、現物はもはや見られない。この建物も見たかった。廃仏毀釈とは罪なことをしたものよ。(写真は広重「深川三十三間堂」より)
 門前仲町駅付近で10名参加のもと懇親会。

 11日から孫の七五三の為帯広に出かけてきますのでブログ更新は相当間が開きます。


都高教退職者会「東京歴史散歩」に参加して(その1)

2023年10月29日 | 東京散歩

 10月28日(土)に都高教退職者会主催「東京散歩~門前仲町周辺をのんびりと」に参加してきた。実は2年前の定期総会の席で、私は退職者会の幹事を辞任し、「歴史散歩」の担当者は星野さんと片山さんのお二人にチェンジしていた。昨年も実施されたのだが、私は妻の介護に忙しく参加出来なかった。今年の担当は片山さんで、介護してあげたい妻は既に旅立ってしまっていたので、今年は参加が可能になっていた。
 集合は東西線門前仲町駅1番出口。かっては門前仲町駅へ行くには当然東西線利用だったが、31年前に開通した大江戸線も門前仲町駅に止まるので、全コースシルバーパス利用で出掛けていった。その両駅は地下道で繋がってはいなかったので、地上に出てから東西線門仲駅の1番出口を探すのに苦労する羽目になってしまった。
 1番出口は深川不動堂への参道脇にあり、集合時刻9時半にはほぼ全員が集合。この日の参加は12名だった。
 この日は次の様に廻った。東西線門前仲町→深川不動堂→深川公園→石造燈明台→鶴岡八幡→横綱力士像→八幡橋(橋を潜る)→江戸三十三間堂跡→八幡橋(橋を渡る)→門前仲町駅→懇親会 (写真はいずれも深川不動堂)





  

 深川は母の生まれ故郷でもあり、親しみを込めて耳に入ってくる地名でもあるが。「深川」という駅名はJR線にも地下鉄にもない。どの駅で降りてどこを散歩すれば、母の遊び育った周辺«深川»に到達できるのかは、何度かこの辺を訪れても良くは分からなかった。
 片山さん作成のプリントで少しは分かった気がしてきた。「江東区南西部に位置する深川は江戸時代以前には海や葦の茂る低湿地帯であった。慶長年間、漁民だった摂津出身の深川八郎右衛門がこの地に移住し、埋め立てによってこの地を開拓した。深川の地名は、深川八郎右衛門に由来している。
 深川が発展する大きな要素となったのは明暦の大火で、その後幕府は再開発都市計画で深川築地15万坪を埋め立て、都心部からの寺社の移転、新大橋・永代橋の架橋などを完成させ、深川は江戸の一部として発展していった。切絵図「本庄深川絵図」の範囲は都営地下鉄森下駅から門前仲町駅の周辺である」・・・深川といってもピンポイントの地名ではなく。広大な地域をなしているのだ。

 さて最初に行ったのが深川不動堂。江戸時代には神仏習合によって富岡八幡宮地に別当寺として永代寺が建立された。その永代寺において、成田山新勝寺の不動明王像がしばしば出開帳され、江戸っ子たちの間では大評判になっていた。それが明治初年の神仏分離令によって永代寺は廃寺となってしまい、不動明王像のお出ましはなくなってしまった。そこは江戸っ子の熱意、当地でも不動尊を参拝したいとの願いが叶い、明治11(1878)年に深川公園内に成田山の東京別院(現在の深川不動堂)が置かれることとなった。(その2に続く)


大野さんのお墓詣りへ

2023年10月23日 | 身辺雑記

 昨年12月、享年67歳で亡くなった、元向丘高校同僚大野勉さんのお墓詣りに、千葉県船橋市営の馬込霊園に行ってきた。
 今年の寒中見舞で妻の永眠を多くの方に連絡してから直ぐに、折り返す様に、大野夫人から夫君勉さんの死去の知らせが届いた。まだ60代の若さである。その頃は年賀状のやり取りもしていなかったし、病におかされているという話も聞いていなかったので、非常に驚き、愕然とし、若くして旅立っていった大野さんの死を悼んだ。
 3月にあったか吉池での、花見の宴の席でも皆さんそのことを知らなかった。いづれお墓参りに行きましょうとの話になったが、何方もメールアドレスや電話番号を知らなかったので連絡の取りようがなかった。
 そこで私はハガキを出して大野夫人の携帯電話の番号をお聞きした。電話番号させ分かれば、後はSMSで色々な事が伝え合える。大野さん死去の様子も聞き出せた。昨年の12月22日に、闘病生活2年半の末、癌で亡くなられたとのこと。船橋市馬込霊園にあるお墓を新しく立て直しする予定なので、お墓が完成したら、再度連絡しますとのことだった。
 お墓が完成しましたとのメール連絡は7月末に届いた。ただ、私は妻の銀行口座の名義変更の事務などで身動きがとれない状況だったので、打合わせの役割を草野さんにお願いすると快諾して下さり、それ以降の連絡は大野夫人と草野さんとの間でなされ、10月22日(日)のお墓参りが決まった。飛鳥山花見の宴の参加者を中心にご案内を差し上げると最終的に11名の参加となり、大野夫人と併せて12名で、昨日お墓参りをしてきた。


 私は1979年に向丘高校に赴任したが、赴任すると直ぐ新一年生の担任となり、その同じ学年の担任に、1年前に新任として向丘高校に赴任してきた大野さんがいた。草野さんも大野さんと同時期の新任で、担任団の一員だった。大野さんの人柄は忖度とうい文字とは無縁の、自分の思ったことを率直にいう人だった。その面では古参教員などからは«生意気な奴»と煙たがられていたかもしれない。しかし13歳も離れた私とは、帰宅途中で何度も一献傾けるほど気が合い、山に一緒に行くようにもなった。剣岳・巻機山・北岳・北穂岳・雲ノ平など一緒に行った名山は10を下らないだろう。多くの山行や旅行・温泉も共にした。スポーツマンでもあり、テニスやバトミントンは教員仲間で1・2を争う実力者。彼が軟式テニス部、私が陸上部の顧問として黒姫での合同合宿にも何度も行ったこともあった。そんな健康的で活動的な彼を知っているだけに、吉池での席でも、異口同音に«どうして»の声があがった。
 ただ、彼も私も向丘を去り、他の何校かに転勤するうちに、赴任先の新しい仲間と一献の会が増えるにつれて、彼と会うことが少なくなっていった。

  さて昨日、東武アーバンパークラインで船橋から3つ目の馬込沢駅が下車駅。この駅に降り立ったことのある人は殆どいなかった。それか故か何名かの方が遅刻をしてきた。そこから徒歩で霊園まで20分以上はかかっただろ、ほとんど畑だったところに住居が建てられ、霊園が造られた。大野家の墓も土台から立て直され、墓石前面には«穏»の文字が刻まれていた。お花は霊園内で購入する予定だったが、大野夫人が朝早く来て既に供えられていた。お線香も大野家のほうで用意されていた。参列者は皆それぞれの思いで大野さんを偲び合掌した。お墓と集合写真を撮影し馬込沢駅に戻ってきた。駅周辺には飲めそうなお店は「庄屋」のみ。その場は期せずして「大野さんを偲ぶ会」となった。



 


差額ベッド代は払わずに済ませられるのか

2023年10月17日 | 医療

 自分の健康問題や介護問題に以前より遥かに関心が向くようになってきている。中でも金銭が絡む「差額ベッド料」は特に気にかかることのひとつだ。折しもこの問題を「しんぶん赤旗日曜版」が6月4日号で、朝日新聞が9月9日(土)の朝刊で取り上げていて、それを読んで理解が進んだ。
 入院した時に「大部屋は空いていないので、1日8580円(消費税込)の個室になります」と言われ、出来れは、安い部屋への入室を希望するにもかかわらず、(大部屋の空きがあるに)より料金の高い部屋への入院となってしまった話を良く聞く。当然この費用は公的医療保険対象外である。
 「差額ベッド」問題に長年かかわって来た「ささえあい医療人権センターCOML」の山口育子理事長はこう語る。「政府の答弁書には『緊急を要し、患者の選択によらずに特別室に入院させた場合は、差額ベッド料を求めてはならない』と書いてあります。その上で患者の希望する病室に空きベッドが出たら移すとうい対応が想定されます」と。この通知があれば患者側に有利にものが進むはずである。(写真:ささえあい医療人権センター理事長山口育子氏)
 ところが、そうは問屋が卸さない、らしい。山口さんは続ける。「ここで重要になるのが『同意書』の存在です。厚労省は、『設備や料金について明確かつ懇切に説明した上で、患者の同意が得られる場合には、料金を徴収できる』としています。同意書があれば『患者が納得した』と見なされるのです」と。厚労省の通知は、病院の用意する『同意書』の前では絵に描いた餅になってしまうのだ。だから『同意書』にサインしなければ良いのだが、、同意を拒んだら医療者との関係が壊れてしまうのではないかと不安になり、サインに応じてしまう患者は多いはずだ。
 赤旗日曜版ではこんな例が紹介されていた。黒田節子さんという方が「個室だと経済的に大変なので、大部屋に移してほしい。厚労省から『大部屋がいっぱいだという理由では差額ベッド料を請求できない』という通知がきています」と看護師に訴えると、看護師長にまで話が通じ、最終的に差額ベッド代を払わないで済んだそうな。厚労省通知を知っていることを示すことが大事なのだ。
 さて、私が当事者になった時にどうするか。方針は既に決めてある。私(私の代理人かもしれないが)は「ささえあい医療人権センター」(本部は文京区本郷3丁目にある)に相談し、更には、朝日新聞と日曜赤旗のこの記事の切り抜きを病院係者に示すのだ。
  最後に山口さんは次のように語った。
 「医療者に依存するのではなく、人間関係を良好に保ち、うまくコミュニケーションを取る。『差額ベッドの支払いに納得できない』という病院にとって困るメッセージを人間関係をこわさずに伝えられるのか。患者が『賢くなる』努力とコミュニケーション能力も問われているのです」・・・「受け身ではない、伝えられる患者におなり下さい」と語るのだが、これは生易しいこことではない。


「むずむず脚症候群」(別名レストレスレッグス症候群)ではなかった

2023年10月09日 | 身辺雑記

 眠れぬ夜がやって来たのは今年の2月頃だった。その原因は多分心理的なものだったのだろう、たまたま、泌尿科の細部先生に相談すると睡眠導入剤を処方され、良く眠れるようになった。
 ところが4・5月頃から寝床に入ると脚の痙攣が始まる症状が出始めた。2011/01/27のブログに書いた“むずむず脚症候群”(別名レストレスレッグス症候群)が再度出始めたと思った。それも以前より激しく頻度も多い形で。それが睡眠を妨げた。そこで、今度は掛かりつけ医の谷口先生に相談すると、漢方薬68番を勧められ飲み始めたが、効果は薄かった。脚の痙攣が激しくなり、30秒に一度くらいの頻度で痙攣(ぴくぴく)が起こった。これは「ㇾストレスレッグス症候群」の専門医に診てもらうのが良いでしょうかと谷口先生に相談すると、適切な医師を紹介して下さるとのことだった。しかし、今後の成り行きを考え、自分の所属している「都立学校教職員互助会」付属の「三楽病院」の方がより便利・有利ではないかと思い、三楽病院の「精神科」に予約を入れた。
 担当の先生は私の経歴から始まって病歴・現在の精神状態に至るまで1時間以上にわって質問をされ、私が述べた「レストレスレッグス症候群」については、そうではないように思えます。」と話された上で、デエビゴ錠(所謂睡眠導入剤)1錠とリポトリール錠(発作を抑える薬)2錠を処方してくれた。この薬の組み合わせが大当たりで、これ以降2週間、途中起きることはあっても、私に安眠が訪れて来た。
 2週間後の再来院の際、私がお礼を言い終わらないうちに、「たまたま、貴方に合った薬だったようです。ただ、貴方の病名は「周期性四肢運動障害」で「レストレスレッグス症候群ではありません」。ただその2つは兄弟の様な関係にあります。「レストレスレッグス症候群が、かゆいなどで本人が勝手に脚を動かしてしまうのに対し、「周期性四肢運動障害」は不随意運動によって脚のピクピクが周期的に起こり、睡眠を妨げるのです。処方はほぼ同じになります」とのお話だった。
 私の話の眠りの様子から医師は«発作を抑える薬»は1錠で良い判断したらしく、寝る前の薬は“発作を抑える薬は1錠にします”と言われた。しかし私は少し躊躇した。1錠で眠れなかったとき時は他の曜日の薬をも飲むわけで、薬が足りなくなるかもしれないと判断し、やはり2錠にして下いと言った。この辺は医師と患者の合意で決めるらしい。兎も角、発作を抑える薬は2錠のままだった。
 帰って来たその日1錠飲んで睡眠に入ったのだが、眠れなかった。2錠を依頼しておいて良かったと胸をなれ下した。兎も角今は三楽医院処方の薬で比較的良く眠れている。


妹からの誕生日プレゼント

2023年10月04日 | 身辺雑記

 8月だったか、妹が夕食持参で、わが家にやって来た時に、一枚のパンフレットを私に見せながら、「お誕生日のプレゼントをするからどの色が好み?」と聞いて来た。古希や還暦のお祝いには互いにプレゼントを贈ってはいたが、特別の誕生日ではない時のプレゼントに私が吃驚すると、妹は言った。「今までだったらサッチャンからの誕生日プレゼントがあったでしょうけれど、これからはそうはいかなくなってしまったから、私からプレゼンを贈るよ」と。その心配りが非常に嬉しかった。
 パンフレットには牛革のスマホポシェットが幾つか載っていたが、私は躊躇わずにオレンジ色のポシェットを指さした。10月1日で満82歳を迎えてしまった。体力の、その中でも特に足の筋力の衰えを実感し、脚こそわが命と思い込んでいた私は、寂しく無念の思いにかられ、落ち込むことの多い日々だが、このプレゼントには嬉しいだけでなく元気付けられもした。人気のある製品らしくまだ手元に届いてはいないが心待ちしているところである。
 身内の兄が書くのもなんだが、妹は心優しく親切で、人の世話を焼くのが好きな人柄である。多くの人に愛され、「宏子さん、宏子さん」と頼りにされている。良く、仲の良い兄妹ですねと言われることが多い。性格が似ている面もある。中学校卒業以来、お互いに助け合わなければやっていけない家計環境も大きく影響していると思う。妹は中学を卒業すると金融機関で働き始めたが、一般的に金融機関は他の職より給料の面で恵まれており、私が勤めを辞めて大学に入学してしまってからは、妹の給料が大きく家計を支えていたのだ。(私も奨学資金を受け、家庭教師で稼いではいたが)。母も働いていたが、それだけでは不十分で、兄妹が力を合わせて家計を支えてきた、いわば戦友だったことが、仲良く過ごしてきた根っこにあると思っている。
 妹が務めた金融機関での仕事は、お客さんと接する窓口業務で気を遣わねばならないことが多く、数年の勤務でそこを辞め、その後製図の仕事に従事する会社に転職し、結婚後も子育てが一段落すると又働き始めた。妹も私も長期に亘って働いて来たのだった。妹の子供3人ともそれぞれ結婚し、4人の孫にも恵まれ、かっては海外旅行が趣味だったが、今は夫婦して御代田の別荘生活を楽しんだり、東急ハーベストクラブで過ごしたり、あちこち国内旅行したりの恵まれた生活をしている。その様な余裕が、私へのプレゼントにも向かう気持となって現れたのだろうと思っている。