マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『ああ三百七十里』と『象の旅』を読む

2018年11月21日 | 読書

 享保14(1729)年3月13日、象は長崎を出発し、65日後の5月27日、江戸城に参上し将軍吉宗に謁見した。およそ370里(1480Km)の長旅だった。1日の移動平均距離は約22Km。象はもとより象を護送する人々にも、迎い入れ送り出す宿などにとっても難事業だったことが『象の旅』から窺える。
 象は初め牡牝の2頭で、現在のベトナム・ホーチミン市から出航し、長崎に入港した。享保13年のことである。そこでの慣らし飼育中に牝象は死亡。結局牡象のみが翌年に江戸へと送られた。その道中についてはノンフィクション『象の旅』に詳しく書かれている。
 長崎⇒長崎路⇒山陽路⇒東海道⇒中山道⇒美濃路⇒東海道⇒姫街道⇒東海道⇒江戸。本州に入ってからは山陽道・東海道以外に中山道や美濃路をも利用した事が分かる。

 『ああ三百七十里』の冒頭はこう始まる。「わたしはひどく気が滅入った。妹か娘のように可愛がったバナガンガが、病死してしまったのだ。それだけのことなら、あきらめもついただろう。彼女はじつは、象使いのトササナに殺されたのである」と。何と物語の語り手は牡象(カニシカ)で、牡象カニシカの眼を通して「象の旅」は語られる。小説家ならではの着想と感心した。しかも最初に牝象は単に死亡したでけでなく殺されたとあった。『象の旅』と比較して読むと、相異なる場面が多々あるが、こちらは創作なのだと理解したうえで、何度か読み直した。
 船が長崎の岸壁に横づけになった朝、長崎港には象を一目見ようと夥しい人々が集まってきた。そこでカニシカは、象使いトサカを地上に叩きつけ死に至らしめ、バナガンガの復讐を果たしてしまう。象の第一印象は”狂暴”となってしまった。
 この物語には脇役が登場する。護送の大役を仰せつかったのは与力・江藤と同心の篠村と須原。意のままには進んでくれない象に憎しみを覚える一方、象は難儀な旅の恨みを護送役に向ける。
 象は京都御所ではとんでもないことをしでかした。中御門天皇に拝謁した折、既に天皇は出御しているにも係わらず、御簾が降りていてまだ天皇は出御に及んでいるとはつゆ知らず、今のうちにと排泄をしてしまう。御簾の中からどよめきが起こり、象は面目を失い、護送役は宿に帰ってから象を罵るのだ。
 (象の名誉の為に付け加えると『象の旅』では、この場面で「・・・前足を折り、正座した格好で巨大な頭を垂れて最敬礼。鼻を高々と差し上げてご挨拶した」とある)

 杉本本で、京を後にした象一行は、「草津・守山・武佐・高宮・鳥居本・・・。美濃路から東海道の熱田に抜ける・・・」とある。草津から中山道に入ったのだ。
 京都から江戸へは草津で東海道と中山道に分かれる。草津から象は何故東海道を進まなかったのか。杉本本にはそこは書かれていない。そこで石坂本を参照した。
 「・・・東海道には鈴鹿峠の難所もあるが、それにも増して桑名から宮までの海上七里の船旅を避けたのであった。関門海峡の海上での苦難が骨身にしみたようである」とある。
 象にとって陸路にまして海路と川が難儀であった。軟な橋は象の重さで壊れてしまう。浅瀬ならば水に浸かりながらでも象は川を渡った。幅の広い川は浅瀬を求めて上流へ足を延ばした。しかしあの大井川はそうはいかなかった。4日待っても水は減らず河を渡れなかった。止むに止まれず船を用意し、川を渡ることにした。船はかしいで、象もろとも人間も投げ出されてしまった。悲鳴とともに流されていく江藤らを、象は追いかけ鼻でつかみあげ背中に乗せた。岸まで遠かったが象は力一杯泳いで川岸に辿りついた。
 憎んだり、うんざりしたり、誤解したり・・・、象と護送役のあいだのへだたりが解けた一瞬。これ以降、なにも起こらず、享保14年5月25日に江戸到着。27日に吉宗に謁見した。「はるばるのところを、大儀であった」と将軍は護送役を労った。象はくちなしの花を4つに折り、3人の護送役には別れの挨拶に、将軍にはちかづきのしるしに、心をこめて贈った。
 杉本本はここで終わっている。石坂本は後日物語を書いている。一時は江戸の大人気者となった象は浜御殿で飼われたが、数年後には貧しい象小屋に移され、寛保2(1742)年、21歳の若さで独り淋しく死んだ。
(写真:『象のかわら版』に描かれた象)

 
 
 
 

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『ああ三百七十里』を読む・聴く(その1)

2018年11月18日 | 読書

 中山道へ出掛ける4日前の10月28日(日)、聲香(こゑかほる。北原久仁香)さんの、~ひとり語り『ああ三百七十里』~、を早稲田奉仕園スコットホールで聴いた。

 




 この公演の案内が届いたのは9月。封を開けて初めて、今回の語り『ああ三百七十里』の著者が杉本苑子で、内容は、長崎から江戸までの、象の旅と知った。江戸時代、外国から象が将軍吉宗に献上されたことは知っていた。それを杉本苑子が作品化していたことは知らなかった。早速借りてきて読んだことは言うまでもない。
 久し振りに聲香さんの語りを聴きたかったことに加え、語りの対象が好きな杉本作品で、これは是非と思った。更に開催場所が早稲田奉仕園で、まだ訪れたことの無い建物。それへの興味もあり、直ぐに参加希望のメールを打った。

 聴く以前にある謎を感じていた。彼女からのパンフレットには、象の「長崎から山陽道東海道を経て江戸へ、はるばる三百七十里の道中を、どうぞ、ご一緒下さい。」とあった。この山陽道東海道に引っかかった。長崎から江戸まで、象は確かに山陽道と東海道を通ったであろうが、中山道を通らなかったのだろうか?いや確か中山道も通ったはずだ、という疑問。

 2年前の12月、近江八幡を旅した私達は八日市線で武佐(むさ)へと足を延ばした。武佐宿は中山道67番目(『浪漫の旅』には66番目とある)の宿場。いずれそこを訪れるはずだから、前もって一目見ておこうという積りだった。その折に、街角の一角の立て看板に「享保14(1729)年に、長崎から江戸に運ぶ象がここに一泊した」と書かれた文と絵を思い出した。
 京都から江戸まで、象一行は一時東海道を離れ、どこかで中山道へと入っていったずだ。その謎を解いておきたいと思い、『長崎から江戸へ 象の旅』(著:石坂昌三)を借りてきて併せ読んだ。
 『ああ三百里七十里』を聴いた感想の前に、その著作と『象の旅』で知った内容を次回ブログに綴りたい。
 
 今日の一葉:大森のお宅に咲くムラサキツユクサ
 
 
 

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果物はたわわに

2018年11月15日 | 身辺雑記

 中山道へ出掛ける前日の10月31日(水)、大森に果物狩りに行って来た。
 妻の友人にして、大森の大地主チヨさんから、今年は柿が豊作でしかも既に熟し始めているものもあるから「早くいらっしゃい」と誘われた。中山道行から帰って来てから伺う積りのところ急遽予定を早めて出掛けていった。
 柿などの果物は2年周期で多くの実を付けるとか。一方こちらの花梨は毎年豊作。という訳で今年は柿と花梨の両方を狩ろうと大きなリュックを用意した。以前縦走に使用していた山用の50リットルのもので、これならば相当収穫可能と欲張ったのだ。
 柿はたわわに実っていた。脚立をお借りしてやや高いところまで手を伸ばし、手バサミで捥いだ。釣りで言う”入れ食い”状態。ブルーベリ狩りもそうだが、果物狩は楽しくて夢中になってしまう。1時間の奮闘で100個の柿を捥いだ。

 続いて花梨。花梨の隣ではマルメロも豊富に実を着けていたがこちらはパスし、花梨を30個ほど狩った。チヨさんはそのうちの幾つかを知人にお裾分けするとのことで、私達は19個ほど頂いた。ザックに花梨と柿の両方を詰め込んで背負ったが、肩に食い込む重さ。以前のような体力はなかった。ややふらふらしながらの帰路。 

 家で重さを計ると柿が11キロで花梨が4キロ。まずは柿は幾つかを食した。甘い柿で、その後の調理は妻活躍の場。柿ジャム3.3キロと果実酒に変身。花梨も果実酒に。

 今日の一葉:10日、北海道に向うJAL機上からの撮影
 
 
 

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文高連創立50周年記念祝賀会開かれる

2018年11月12日 | 文高連

 実はという話2つから綴りたい。実は今、息子家族住む帯広・音更に来ている。二人目の孫の様子を見る為だが、初孫と遊ぶ時間が多く、思ったほどブログを書く時間は無かった。
 もう一つは、中山道に出掛ける数日前に、このブログに記しておきたい、幾つかのイベントなどがあり、そちらも忘れずに書き留めておきたい。とうい訳で、中山道後半の様子や音更での出来事は後日のブログに回します。
 文高連創立50周年記念祝賀会が10月29日(月)、東京ドームホテル「天空」の間で開催された。出席者は260人とも280人とも言われる多数の参加があった。富士前福寿会からは会長の小林さん・文高連役員の富田さんと私の3人が出席した。
 創立50周年を祝うに相応しい、豪華かで意義深い祝賀会だった。文高連会長挨拶の後、文京区長・文京区社会福祉協議会々長・東老連会長の挨拶と続き、祝宴の部の舞踏・ジャズ生演奏が華を添えた。
 その中で特に3つを記しておきたい。区長の挨拶は毎度のことながら、要旨明快にして弁舌爽やか。「健康寿命」についての話は、何歳まで生きられたよりも、何歳まで健康で行動できたかが大事。健康寿命を延ばすためには①適度の食事 ②適度の運動 ③社会参加が必須と語った。自分を顧みて②に問題があるなと思った。”適度”が”過度”になる傾向が強いのだ。



 舞踏の部の「サンフランシスコのチャイナタウン」はお隣組・寿同志会のダンサー5人の舞。知っている方がいたので間近で観賞・撮影した。華麗な舞いだった。



 私達のテーブルには駒込地区の方たち10人。交流のある宮元白寿会の方4人もおられ記念撮影。このテーブルの平均年齢は82歳。私などは下から数えて4人目で、70歳代などは”若造”となる文高連である。白寿会の元会長は95歳。戦後シベリアから奇跡的に帰国され、白寿会の構成メンバーを100人以上に引き上げた功績を持つ。
 私は文高連に参加して僅か9年ほど。50年という歳月の長さに驚くばかりで。発刊予定の記念誌をじっくり読みたいと思っている。
 
 
 

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第3回中山道行 小田井宿から望月宿まで

2018年11月09日 | 街道を行く

 旅の2日目は小田井宿→(4.4Km)→岩村田宿→(5.7Km)→塩名田宿→(2.6Km)→八幡宿→(3.7Km)→望月宿の16.4Kmを巡った。








 ホテルの朝風呂に浸かった後、ホテル内の庭や付近を散策した。ひと際紅葉が鮮やか。朝7時半には妹夫婦の車がホテルに到着。小田井(おたい)宿へ向かう途中に、二人の良く知っているパン屋さん「ココラデ御代田」で朝食。人気のパン屋さんらしく既に混んでいた。美味しい菓子パン2個を食し、お代り自由のコーヒーを飲んだ後、店の裏庭に出て浅間山を眺めた。この日も快晴で、少し雲を纏った浅間山が秀麗。

 写真をして語らしめよ、で今日のブログは道中16枚の写真をご覧下さい。
 右写真は小田井宿の家並み。ここは浅間山麓の小さな静かな宿で、女性が安心して利用できたことから「姫の宿」と呼ばれたとかで、その雰囲気は今に残されている。江戸時代からの本陣・問屋・旅籠などの建物がよく保存されていた。
 
 
 右写真は岩村田宿手前・住吉神社の、こぶの多い欅。樹齢400年の巨木は「住吉の祠」と呼ばれているそうな(写真右)。神社付近には千手観音などの石仏群(写真下)。


 
 岩村田宿手前の龍雲寺は本堂の佇まいが美しい。武田信玄が再興し、後に遺骨が密かに葬られたと伝えられている(写真右)。私が中学生の頃、従兄弟のバイクイの後ろに乗せられて遊びに来た岩村田の商店街にはアーケードが作られている(写真下)。

 

  
岩村田宿から塩名田宿へは、10年前まで車でよく通った道。上信道を佐久インターで下車し、蓼科山麓を抜けて別荘に通った。写真右は駒形神社。騎乗の男女二神像を奉り、望月牧の東端に当たるとされているが、残念ながら二神を拝むことは出来なかった。

 

 右は塩名田宿問屋本陣。
信濃には15宿、木曽には11宿があった。そのなかで、ここだけ2軒の本陣があった。

 
 

 塩名田宿を過ぎると直ぐに千曲川。明治6年から26年まで舟橋があり、9艇の舟を板に掛けて渡したときに、舟を繋いでいた。下は街道に立つ一里塚跡
 

 八幡宿本陣跡。八幡宿を過ぎて望月宿少し手前に瓜生坂がある。
  

 この日、街道の何処からも浅間山が望めた。下は漸くの思いで到着した望月宿の建物。

 

 望月宿到着後タクシーで春日温泉もちづき荘へ。源泉かけ流しの湯が嬉しかった。

 今日の一葉:スカイツリーの真後ろに日の出後の太陽(8日撮影)
 



 
 















 
 

 
 

 

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第3回中山道行 軽井沢宿から小田井宿まで

2018年11月06日 | 街道を行く

 11月1日から4日までの、4日間の中山道行は快晴にも恵まれ、一昨夜無事帰宅した。最大の難所・和田峠も越えることができた。
 『中山道 浪漫の旅』ではこの間の距離は71.3Kmで、実際に歩いた総数は159,528歩。1歩を55cmとやや少な目に計算しても約88Kmを移動したことになる。差異の17Kmは、道中以外の道のりや、道に迷った分や、脇道に入り神社にお参りした分等々がある。

 
初日、同行者3人は新高島平に6時20分に集合し、妹の夫ハムちゃんの運転で旧軽井沢へ。昨年のゴール地点「軽井沢一里塚跡」を9時20分にスタートした。軽井沢には紅葉がまだ残っていて美しい。旧軽井沢は日本で有数の別荘地域。その別荘の間を通る街道には人影は疎らで、所々の紅に彩られた静寂な風景を見ながらのスタートとなった。今回は道中全てが長野県。幼い頃から最近まで何度も遊びに行った地域。幾つもの懐かしい思い出と出会う旅でもあった。

 初日は軽井沢宿→(5.0Km)→沓掛宿→(4.6Km)→追分宿→(5.7Km)→小田井宿。









 右手に離山(はなれやま)を見ながら進むと、この日最初の宿沓掛。しかし、この宿の名はどこにも残っていない。直ぐ傍を通る「しなの鉄道」の駅名も中軽井沢に変えられて久しい。峠を控え旅人が沓(草鞋)を履き替え、履いていた古い沓を掛けて旅の安全を祈ったであろう謂れの宿名は、ビッグネイム軽井沢に乗っ取られてしまっていて悲しい。本陣跡も個人のお宅になってしまっていた。街道沿いの馬頭観音に往時を忍ぶ。(写真:本陣土屋の表札)

 

 追分宿では堀辰雄文学記念館に立ち寄った。(写真:文学館入口)














 追分宿の名は、その先で中山道と北国街道に分かれる「分去れ」から来ている。右は北国街道、左すれば中山道の別れである。現在ではその両街道を割くかのように国道18号線が走っている。
私の大きな勘違いはそこに起因していた。「分去れ」地点で18号線と北国街道は分かれる、別のものと勘違いしていたのだ。実は18号線は北国街道を継承して1952年に制定された。18号線≒北国街道なのだ。






 
 その分去れ地点に「中山道69次資料館」が立っていた。その脇にミニチュアの中山道。ここの資料館を開設したのが、『浪漫の旅』の著者岸本豊さん。翌朝妹から聞かされた話では妹夫婦は岸本さん夫妻と会話を交わしたことがあったそうな。その奇縁に驚かされる。中山道のミニチュアを歩き終え「これで中山道を歩き終えたことになるな」などと3人はほざいた。
 分去れからは長い長い下り。ここに古い思い出があった。中学生の頃、叔母住む御代田に遊びに来た私は1歳年下の従妹とよく遊んだ。その遊びの一つが駆けっこ。中山道を分去れまで駆け上り、そこから18号線を走り下って元の地点に戻って来る一周の駆けっこ。あの頃はここが中山道などとは知る由もなく、60数年後ここを往くとは想像を越えていた。
 御代田駅でしなの鉄道を潜り小田井宿着が15時。妹に電話を入れ、車で迎えに来てもらい、夕食をご馳走になり、ハーヴェストクラブ軽井沢まで送ってもらった。感謝!感謝!ホテルの湯に浸かり初日の疲れを癒した。
 
 今日の一葉:沿道から望む浅間山
 
 

 
 

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今日から中山道行へ

2018年11月01日 | 街道を行く

 今日11月1日(木)から4日(日)まで、菅原さん・熊倉さん・私の3人で中山道へ出掛ける。軽井沢宿から下諏訪宿までの約71Kmの行程。
 
今回の中山道行の最大の難所は和田宿から下諏訪までの長丁場21.6Kmの和田峠越え。峠は標高1,600mもある。車を和田宿に置いてスタートした場合、到着した下諏訪側から車を取りに戻らねばならない。タクシーに頼る以外、両地点を結ぶ適切な交通手段はない。そこで・・・
 前2回は目的地⇔東京間の往復を熊倉車に頼り交通費を節約したが、今回は熊倉車利用を断念し、往きは北陸新幹線利用で軽井沢へ、帰りは上諏訪からバスタ新宿までの高速バス利用の、計画を立てていた。
 今回のコース途上の御代田に滞在している可能性の高い妹夫妻にその計画書をメール送信すると、お役に立てることがあれば協力するよとの返信メールが来た。結局、東京から軽井沢までの往きと、初日の迎えと二日目の送りを高橋車がしてくれることと相成った。有り難いことである。
 という経過をへて最終計画書は以下の様になった。(⇒は車・列車・バス。赤印は高橋車)
 1
日目 高島平軽井沢宿→岩村田宿御代田別ハーヴェストクラブ軽井沢。
 2日目 ハーベストクラブ軽井沢岩村田宿→八幡宿→望月宿⇒春日温泉もちづき荘
 3日目 もちづき荘⇒望月宿→芦田宿→長久保宿→和田宿→民宿
 4日目 民宿→和田峠→下諏訪宿→JR下諏訪⇒上諏訪⇒新宿
 という訳で、ブログ更新は6日以降になります。

今日の一葉:日の出
 

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「東京歴史散歩」を終えて

2018年10月29日 | 東京散歩

 10月27日(土)の「東京歴史散歩」は無事終了した。晴天だった。
 前夜までの天気予報は雨。又もや雨かと些か気落ちしがら当日5時にスマホの天気予報を見ると、雨マークが朝8時からは☁に変わり、10時からはマーク。私がこのイベントを担当してから7年目を迎えていたが、快晴の記憶は一度もない。有り難くもない”雨男”とまで言われて来た。
 思えば2012年に退職者会の幹事となり、「歴史散歩」を担当・企画して7回目となっていた。過去を振り返ると
 2012年 「巻石通りから神田川」 参加者8名 
 2014年 「東京歴史散歩 野川」 参加者9名
 2015年 「やねせん 味な散歩」 参加者12名
 2016年 「殿様の散歩道を歩く」 参加者9名
 2017年 「上野のお山の知られざる旧跡散歩」 参加者12名
 2018年 「四谷界隈を歩く」 参加者10名
 2013年は雨で中止したのかも知れない。毎年の懇親会の場所とその雰囲気は鮮明に覚えているのだが・・・。
 今回の参加者の内訳は、一般参加2 幹事4 向丘4(私はこちらに分類)

 自己紹介を終え、9時45分頃新宿御苑新宿門をスタート。御苑外周部の、大木戸門までは玉川上水が暗渠となったところで、皆さんここを歩くのは初めてとのこと。歩きながらの感想は、「夏の暑い時でも涼しいだろうな」、「紅葉は綺麗だろうね」など。
 四谷三丁目からは寺町歩き。お岩稲荷・戒行寺(長谷川平蔵墓)・須賀神社・愛染院(塙保己一墓)と、寺町の雰囲気濃厚な地を巡った。鮫河に沿っての散策なので坂を上ったり下ったりで草臥れた方が出るほど。鮫河に架かっていた鮫河橋付近は貧民窟と称されたこともあったが、今ではその痕跡もない。「みなみもと公園」には警察官が見張りの為か立っていた。何を見張っているのですかなどの聞く御仁あり。「要人のお宅を見張っている」そうで、そう言えばそこから100mも直進すると迎賓館だ。(写真:須賀神社で。傘を持参する人あり)
 その脇の鮫河坂を上り切ると朝日橋。私が「御所トンネル」を説明したことは言うまでもない。こちら側の台地にも鉄砲坂などの坂があり、坂を上り切ると漸くにして西念寺。ここには服部半蔵の墓と岡崎信康の供養塔があり、悲しい物語が残されていた。半蔵の墓前でも真中さんに説明してもらった。
 岡崎信康は武田方に内通の疑いありとして信長から切腹を申し渡され、介錯を命じられたのが半蔵。その役目を果たせず、彼は後年出家し、信康の供養塔を建てたとか。
 「わかば」のたい焼き屋には多数の行列。2名の方は最後尾に並んだが本体8名は「源源飯店」へ直行。丸テーブルを囲み高層ビル群を望みながらビールで乾杯。皆さんの満足度は高かった様だ。
飲んで定食を食して一人3300円。(写真:源源飯店で)
 皆さん都心を歩くことは全くなかったそうで、この会が都心散歩に切っ掛けになればと思いつつ会を終えた



 今日の一葉:穴八幡宮の本殿(28日撮影)
  

  

 

 


 

 

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御所トンネル

2018年10月26日 | 東京散歩

 「東京歴史散歩」での私の役割は場所の選定とルート案内で、自称”道先案内人”。見学先のお寺などでは、そこの謂れの書かれた掲示板まで案内し、説明文を読んで頂くだけで説明はしない。説明出来ないとも言える。今回はこの辺に詳しい真中さんが参加されるので、所々では彼がその役割を担ってくれることだろう。(写真:朝日橋からの眺め。右端が旧御所トンネル)

 ただ「御所トンネル」の掲示板はない。私が概略の説明をする積りで、自分なりに内容を纏めてみた。今日のブログはその話である。

 中央線や中央緩行線(以下総武線)で、新宿や代々木からお茶の水方面へ向かう場合、信濃町を過ぎ、四谷駅手前でトンネルに入る。「歴史散歩」の散策途上では、朝日橋上からその風景を眺めることとなる。その景色は、右側に一本のトンネルがあり、少し離れた左側に3本のトンネル。この4本のトンネルは、反対側のJR四谷駅からも、地下鉄丸の内線四谷駅ホームからも眺められる。こちらから眺めると右側の3本のコンクリートのトンネルと、少し離れて左側にレンガ造りの1本のトンネル。1本のトンネルは総武線の下りが走行していて、「旧御所トンネル」と呼ばれている。4本が2と2に分かれるのではなく1と3に分かれているのが不思議である。(朝日橋から見る新御所トンネルは3路線の構成)
 最初に完成したのは、1本の方で、今でいう旧御所トンネルだった。明治27(1894)年のことで、中央線の前身、甲武鉄道として新宿⇔牛込(現在の飯田橋)間が開通した際に開削された。複線で蒸気機関車が走ったらしい。長さは317mで、あまり広くない幅のトンネルで、上下線が通ったとは、なんとも不思議なのだが、上りと下りの2本の線が通ったらしい。軌道は1m少々で現在より狭いから可能だったと思う。(写真:こちらが旧御所トンネル。現在は1本の路線構成)
 東宮御所の一部の下を通過する。それ故「御所トンネル」と呼ばれた。民間の鉄道が、“恐れ多くも”御所の地下を通れるわけがない。風雲急を告げる世相の中、軍部のごり押しがあったと伝えられている。日清戦争の年にあたる。

 それから35年後、昭和4(1929)年、新たに3本のトンネルが完成し、中央線は複々線となった。二本は中央線の上り下りが走り、もう一本は、御所トンネルを通っていた上りがこちらに引っ越して来た(その為に3本のトンネルが必要だった)。御所トンネルと呼ばれていたトンネルは「旧御所トンネル」と呼ばれ、新たに出来た3本のトンネルは「新御所トンネル」と呼ばれる様になった。その様な名称が書かれた札がトンネルの入り口に貼られている。旧御所トンネルはレンガ造りで明治が感じられる。明治時代に建造されたトンネルが124年後の現在も使用されているのだ。(写真:こちらは丸の内線四谷駅ホームから撮影した新御所トンネル)
  
 ここで個人的な思い出を付け加えておきたい。御所トンネルについて調べているうちに思い出したことがあった。私は小学生のころから巨人ファンで、中学生になると後楽園球場に一人で観戦に出掛けるようになった。目黒から山手線外回りで代々木へ。そこで総武線に乗り換え水道橋へ。改札を抜け、多くの人波に揉まれるようにして球場まで行った。総武線に乗っていると途中で何故か一時外が見えなくなり、暗くなった。それが凄く残念で、何か不安にもなった記憶がある。今思えば電車が新御所トンネルを潜っていたのだ。もう60年以上も前の思い出である。

 今日の一葉:ご近所の医院玄関に咲くゼラニウム
 

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「東京歴史散歩」で四谷へ実踏

2018年10月23日 | 東京散歩

 今年の、都高教退職者会主催「東京歴史散歩」は、週末の27日に”四谷界隈を歩く”を実施する。イベント担当の私は、6月頃から今年はどこにしようかと思案し始め、迷った末に、2度ほど散策したことのある四谷と決めた。上野勝さん著『江戸と東京の坂』に触発されて、坂を中心に四谷近辺を散策したのは6年前の3月26日のこと(2012/3/314/2のブログに)。面白さが凝縮された街だった。
 ただ、随分前のことで、歩いたルートを忘れかけていたので、4度ほど実踏に出掛け、20日が最後の実踏となった。





 今回のルートの概略を記すと、
 新宿御苑新宿門→玉川上水暗渠→大木戸門→須賀神社(三十三歌仙絵)→愛染院(塙保己一墓)→戒行寺→朝日橋(新御所トンネル)→西念寺(服部半蔵墓)→「わかば」(たい焼き)→懇親会(源源飯店)
となる。(写真:新宿門と大木戸門の間で)



 実踏で行った所・行ったこと
 ①玉川上水暗渠・・・新宿門から大木戸門の間の、新宿御苑外周部をかつては玉川上水が流れていたが今は暗渠。露天掘りの上水はここからは石樋で江戸市中へ給水され、飲料水等に利用された。現在はそれを記念して清流が流れている。大木戸門脇には記念碑が建てられている。
 ②塙保己一等の墓・・・幾つかの寺を巡るが、歴史上の人物の眠るお墓のある場所は知らなかった。その在処を実踏で知った。服部半蔵の墓を訪ねるとその隣に家康の長男岡崎信康の供養塔があった。塙保己一の墓に詣でたときにはお線香を購入しその場所をお聞きした。(写真:岡崎信康供養塔)
 ③地図を手に入れた・・・「新宿歴史博物館」と「鶴巻図書館」で”四谷”の地図を合計13部ほど頂いた。






 ④親睦会・・・2週間前の土曜日に出掛けたのが「源源飯店」。土曜日は客がまばらで、8階からの眺めが素晴らしく、速断でここと決め8名の予約をした。(写真:店主曰く・・・この様な風景が望めるときもあります)






 退職者会のニュースで「歴史散歩」を知った、元向丘同僚の真中さんから電話があり、「資料を用意しましょうか」とのこと。ご厚意を有難くお受けし、送られて来た資料5部を印刷し綴じ終えた。所々で彼に解説して貰う積りだ。
 あとは好天を祈るばかりだ。

 今日の二葉:晴天の21日、上は朝6時に撮影の富士。下はその1分後の富士。



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