2012年10月12日のブログに『孤愁の岸』を読んだ感想文を載せた。その文へ“かなぶ”さんという方から「平田靭負は自刃でなくて病死である」との丁寧なコメント頂いた。この間の事情を整理しながら、再び宝暦治水に触れてみたい。
まずは『孤愁の岸』について。
『孤愁の岸』は杉本苑子作の、1963年度直木賞受賞作品。時は宝暦年間。所は美濃平野。美濃三大河川(木曽川・長良川・揖斐川)治水の難工事を請け負わされたのが薩摩藩。慣れない重労働や疫病などで死すもの多数。藩士多数が自刃。工事完成後その責任を取って、総奉行平田靭負(ゆきえ)が自刃するまでを描いた小説。この難工事を「宝暦治水」と呼び、『孤愁の岸』はその事実を基に描かれた作品で、森繁久弥渾身の舞台ともなった。私は舞台を観ることは無かったが、感動しながら『孤愁の岸』を読み終え、忘れられぬ一冊となっていた、と書いた。 次に“かなぶ”さんからの、丁寧なコメントの要約。
『2015年10月5日中日新聞岐阜県版に記載あり。平田靱負は自刃ではなく病死である。今年の夏、中世文学専門の中西達治さんは『宝暦治水と平田靱負』を発刊した。
新聞記事によると、宝暦治水は長く歴史に埋もれていたが、1890(明治23)年創刊の「治水雑誌」で、藩士45人が完工の遅れに起因して自刃したと紹介され注目を集めた。その中には「平田(俗名不祥)」の文字があり、「提岩智全居士」の戒名で三重県の寺に埋葬されているとあった。だが、靭負の墓は後に京都にあることが明らかになり、この人物は無関係と判明。最近では、宝暦治水を研究する学者たちの間で自刃説を疑問視する流れが広がっていた。「武士が自刃すれば、本来はお家取りつぶしになる。こうして家系が続いていることからも、靭負は自刃ではなく病死だった」と中西氏は確信を深めた』となる。(写真:中日新聞より。語る中西達治氏)
自刃とする史実に反論する説を海津市の顕彰団体会長中西氏が唱えたのだ。コメントを寄せられた“かなぶ”さんの文から、早速中日新聞を取り寄せて読んだ。 記事によると、中西氏は中世文学が専門の金城大学院名誉教授にして、薩摩藩士をたたえる地元団体「宝暦治水史蹟保存会」の会長。従来の自刃説を否定する論拠をまとめる著作を発刊した。「靭負自死は全てフィクション。彼が自刃したことを証明する資料はありません」と書いた。更には「史実をできる限り忠実に理解することは顕彰活動の根幹。靭負が病死だったからといって、彼の偉業が色あせることはない。地元に尽くした薩摩藩士への感謝の念は変わらない」と話した、とあった。
私は一言添えたい。靭負が病死したとしても、自刃したと描いた杉本苑子著『孤愁の岸』の、文学的価値はいささかも変わらず、それを読む人々に大きな感動を与えるだろうと。美濃三大河川の望める高台に私はまだ立っていない。(写真:中日新聞より。平田靭負の銅像)
今年もあと二日で暮れます。良いお年を。