マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

再び、宝暦治水に触れて

2015年12月30日 | 読書

 20121012日のブログに『孤愁の岸』を読んだ感想文を載せた。その文へ“かなぶ”さんという方から「平田靭負は自刃でなくて病死である」との丁寧なコメント頂いた。この間の事情を整理しながら、再び宝暦治水に触れてみたい。

 まずは『孤愁の岸』について。
 『孤愁の岸』は杉本苑子作の、1963年度直木賞受賞作品。時は宝暦年間。所は美濃平野。美濃三大河川(木曽川・長良川・揖斐川)治水の難工事を請け負わされたのが薩摩藩。慣れない重労働や疫病などで死すもの多数。藩士多数が自刃。工事完成後その責任を取って、総奉行平田靭負(ゆきえ)が自刃するまでを描いた小説。この難工事を「宝暦治水」と呼び、『孤愁の岸』はその事実を基に描かれた作品で、森繁久弥渾身の舞台ともなった。私は舞台を観ることは無かったが、感動しながら『孤愁の岸』を読み終え、忘れられぬ一冊となっていた、と書いた。

  次に“かなぶ”さんからの、丁寧なコメントの要約。
 
2015105日中日新聞岐阜県版に記載あり。平田靱負は自刃ではなく病死である。今年の夏、中世文学専門の中西達治さんは『宝暦治水と平田靱負』を発刊した。
 新聞記事によると、宝暦治水は長く歴史に埋もれていたが、1890(明治23)年創刊の「治水雑誌」で、藩士45人が完工の遅れに起因して自刃したと紹介され注目を集めた。その中には「平田(俗名不祥)」の文字があり、「提岩智全居士」の戒名で三重県の寺に埋葬されているとあった。だが、靭負の墓は後に京都にあることが明らかになり、この人物は無関係と判明。最近では、宝暦治水を研究する学者たちの間で自刃説を疑問視する流れが広がっていた。「武士が自刃すれば、本来はお家取りつぶしになる。こうして家系が続いていることからも、靭負は自刃ではなく病死だった」と中西氏は確信を深めた』となる。(写真:中日新聞より。語る中西達治氏)
 
 自刃とする史実に反論する説を海津市の顕彰団体会長中西氏が唱えたのだ。コメントを寄せられた“かなぶ”さんの文から、早速中日新聞を取り寄せて読んだ。

 記事によると、中西氏は中世文学が専門の金城大学院名誉教授にして、薩摩藩士をたたえる地元団体「宝暦治水史蹟保存会」の会長。従来の自刃説を否定する論拠をまとめる著作を発刊した。「靭負自死は全てフィクション。彼が自刃したことを証明する資料はありません」と書いた。更には「史実をできる限り忠実に理解することは顕彰活動の根幹。靭負が病死だったからといって、彼の偉業が色あせることはない。地元に尽くした薩摩藩士への感謝の念は変わらない」と話した、とあった。
 私は一言添えたい。靭負が病死したとしても、自刃したと描いた杉本苑子著『孤愁の岸』の、文学的価値はいささかも変わらず、それを読む人々に大きな感動を与えるだろうと。美濃三大河川の望める高台に私はまだ立っていない。(写真:中日新聞より。平田靭負の銅像)
 今年もあと二日で暮れます。良いお年を。


根津美術館へ

2015年12月27日 | 映画・美術・芝居・落語

 1216日(水)、「根津美術館」へ出掛け、コレクション展「物語をえがく -王朝文学からお伽草子までー」を観て来た。
 自宅から都心の殆どの場所へシルバーパスのみで行ける。都バス路線図を見ながらパズルを解く感覚でその経路を探すのは面白い。因みに根津美術館へは、千石⇒(三田線)⇒内幸町→(徒歩)→新橋駅北口⇒(都バス渋88)⇒南青山6丁目といった具合。しかしこの日、私は荒川5中の勤務の今学期最終日で、千代田線で町屋から表参道に向かった。表参道駅から根津美術館への道の両側には瀟洒なお店が多数軒を構え、歩くことが楽しくなる。

 今回の展示は「伊勢物語図屏風」・「源氏物語図屏風」・「平家物語画帖」・「曽我物語図屏風」・「酒呑童子絵巻」などで、全て根津美術館所蔵のもの。いずれの絵巻も色彩豊かで、物語絵巻を観るのは楽しいことを改めて実感したが、これらの中では特に私は「曽我物語図屏風」と「酒呑童子絵巻」を熟視した。(写真:源氏物語図屏風より)

 「酒呑童子」は、多くの姫君達を誘拐した酒呑童子が、酒に酔わされ最後には源頼光らに討ち取られてしまうまでの、実に分かり易い物語だが、童子の首が飛ぶ場面の迫力が凄い。伝狩野山楽筆で3巻からなる絵巻。
(写真:酒呑童子絵巻より)


 「曽我物語」は歌舞伎で観たこともあるが、歌舞伎と絵巻は大違い。右写真に見る如く、勇壮な場面が描かれていた。源頼朝が行った富士山麓での狩の図で、その狩に曽我兄弟が紛れ込んだ場面。兄弟は何処に描かれているか時間をかけて探した。人物は非常に小さく描かれていてなかなか発見出来なかったが、多分これだろうと合点した。(写真:曽我物語図屏風より)

 目録から、今回展示の作品は主として室町時代や江戸時代に描かれたものと知ったが、この頃になると大画面の屏風に描かれていて、物語が室内で鑑賞されたことだろう。
 根津美術館も庭園が美しい。ただ、今回は散策はせず、庭園を見渡せるレストランでコーヒーセットを味わい、帰宅の途についた。


音無川と王子街道(その4)

2015年12月25日 | 江戸の川・東京の川

 音無川は昭和初期に暗渠化されたが、上野台地の東側を京浜東北線と並行するかのように流れていた。日暮里駅を過ぎるあたりから京浜東北線が右へとカーブを切り始めるのに呼応するかのように音無川は左手へと進路を変え始める。

 荒川区と台東区の区境を進み“御行の松”を過ぎると、流れは小刻みに曲がり、直角に曲がったりするヶ所もある。自然な川の流れではありえないことだが、人工の開削によって造られた流れ、何か特別の事情でもあったのだろうかと思案しながら進み行くと、鉄道の高架が見え始めて来た。常磐線である。明治通りを渡り高架に近づくが、高架をくぐる寸前で道は直角に曲がり、常磐線とは交差しないで、直ぐに日光街道と交差する。(この辺りの重ね地図は最下段に)

 日光街道を渡ったところに右写真の掲示板があった。そこには「三ノ輪橋跡(音無川)」と題して、三ノ輪橋の由来が書かれていた。やや長いがその文章を記す。










  
(コンクリート部分がかっての音無川)  

 「三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交差するところに架けられた橋である。橋の長さは五間四尺(約10メートル)、幅三間(約6メートル)であったという 音無川は、日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り、常磐線ガード手前を右折、その左角は私立池谷小学校(明治36年〔1903〕廃校)跡、そして現日光街道を横ぎり、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治41年(1908)、三ノ輪が属する16番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所として残されている」
 この表示を見て私は始めて三ノ輪橋由来を知った。音無川はこの付近では幅6m、想像した以上に幅があった。
 
 三ノ輪橋の下流で音無川は二手に分かれた。一本は日本堤の北側を流れ下谷堀に至る。吉原へ通う猪牙舟の発着所でもあった。もう一方は名前を思川と変え白鬚橋で隅田川に注いでいた。今回は思川暗渠を進んだ。大関横丁など行ってみたいと思っていた表示も目に入ったが、時刻は既に16時を過ぎ、日没が迫って来ていたので断念し先を急いだ。明治通りに再び出会ったあとは一直線で白鬚橋へと続くが、途中泪橋という交差点を通り過ぎた。バス停で見かけた名前。 

 立会川付近にあった鈴ケ森の刑場に対し江戸の北には小塚原刑場があった。刑場付近の川に架かっていた橋の名前が泪橋。これら泪橋は罪人にとってこの世との別れの場であり、家族や身内の者が今生の悲しい別れに泪を流したからこの名前が付けられたとか。

 
ここから後は20分ほどで白鬚橋到着。夕暮れ迫る橋から東京スカイツリーを撮影し、都バス“里22”で日暮里へと引き返し、紅葉坂を上り、自転車を置いておいた谷中図書館分室まで戻って来た。この間、時間にして3時間弱。(写真:いずれも白鬚橋付近で撮影)








      (三ノ輪橋付近の現在の地図。橙色の線が区境)


       (上とほぼ同じ位置の江戸時代の地図)


音無川と王子街道(その3)

2015年12月22日 | 江戸の川・東京の川

 1220日(日)、王子街道の始点・終点を求めて音無川暗渠(以下音無川と表記)を歩いた。日暮里から下流の音無川はほぼ全て歩いたが、王子街道の痕跡は何も発見出来なかった。ただ音無川に絡む、私なりの発見が幾つかあった。今日のブログはそれらの一部について触れる。

 谷中図書館分室前に自転車を置き、芋坂を下って突き当たると「善性寺」。その門前に「羽二重団子」がある。『東京超詳細地図』(以下地図)を片手に、「善性寺」に架かっていた将軍橋を今回の出発点にした。音無川が江戸時代に何処を流れていたかは古地図を見れば分かる。しかし暗渠となった現在、かつての流路を知ることは、現在の地図では難しいはず。しかしパソコンソフト「江戸・東京重ね地図」で調べると、現在の台東区と荒川区の境を流れていたことが分かった。とすると上記に記した地図で事足りる。(重ね地図は最下段にあり)

 という訳で地図と共に、右手側に台東区の、左手側に荒川区の住居表示を確認しつつ進んでいった。歩き始め、台東区は根岸であり、荒川区は東日暮里だ。尾久橋通りを渡り、尾竹橋通りを過ぎるあたりから道は細くなり、S字型の緩いカーブの街路を進むヶ所もある。いかにもかっては川が流れていただろうなという処を進む時は何故か嬉しくなる。(写真:現在は根岸柳通り)











 
                              (街路沿いの家)

 最初に達した史蹟は“御行の松”。江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松だそうで、初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた当時の高さ13.8m、幹の周囲4.09m、樹齢350年と推定されたと書かれているから凄い。石鍋秀子著『王子に生まれて』にも御行の松は登場していたから、江戸時代のみならず昭和初期まで多くの人達に親しまれた松であったことだろう。昭和3年に枯死。現代は三代目だが、往時の面影はまったくない。西蔵院の境外の仏堂不動堂内に植えられていた。堂内はラジオ体操の会場にもなっていた!(写真:初代御行の松)



 
(三代目御行の松)           (仏堂不堂)


 その脇に正岡子規の句が掲げられていた。
  ”春の水音無川と申しけり”
  ”青々と冬を根岸の一つ松”
 とあり、他をも調べると
  ”薄緑お行の松は霞けり”の句もあった。
 子規の句は「羽二重団子」脇の碑にも
  ”芋坂も団子も月のゆかりかな"とあり、子規は住んでいた根岸の里から羽二重団子まで、多分音無川沿いを歩いて訪れただろうと想像している。(写真:子規の句)




 又御行の松付近には和菓子店「竹隆庵岡埜」があり、そこの包み紙には広重の”御行の松”図が使われていることも帰宅後に知った。音無川沿い、取り分け根岸の里には史蹟が多かった。
(写真:竹隆庵岡埜の包紙に登場する広重の錦絵)(次回ブログに続く)









     (江戸・東京重ね地図より。水色が音無川。左上に善性寺、右下に御行の松)


     (上と同じ位置の現在の地図。橙色の線が区境で音無川暗渠)


「源氏の会」の方々と羽子板市へ

2015年12月20日 | 東京散歩

 1219日(土)は「源氏の会」のメンバー11名と、『竹取物語』講読後、東大赤門近くの椿山荘カメリアでの昼食を経て浅草「羽子板市」を巡った。

 『源氏物語』を読み合わせる会だから「源氏の会」と呼ぶようになった会も開講から既に10年を迎えていた。講読の本もその後『平家物語』から『伊勢物語』へと続いた。更に昨日からは『竹取物語』が始まった。スタート時のメンバーは12名で、そのうちの3名の方は介護などで去られていったが、その後新たに4名の方を迎えてメンバーは現在13名。昨日は新参加のFさんもいた。
 私は会のマネージャー的役割を担っている。開催場所の確保とイベントの企画から実施の際の“引率”など。春の花見・田端散策・やねせん散策などがあった。これは私の得意分野である。読み合わせには『平家物語』から参加しているが、熱心な生徒ではない。
 『竹取物語』は読み合わせに先立ち、妻が、作成した資料と地図を用いて、この物語の概略を約1時間語った。『竹取物語』を形成する伝承・成立・作者(実は未詳)・享受など。
 『竹取物語』は多くの日本人が教科書などで学び、それほど難しくない文体でもあり、最後にかぐや姫は月へと帰っていってしまう結末までも知っているのではないだろうか。
 しかし、私達に馴染深く、古くから成立していたこの物語、実は不遇で、無視され続けた来た歴史を持つという。物語は文学的価値が詩文や和歌よりも低いとされたからだそうで、そのようなことも含め幾つかの面白い話もあったがここでは割愛。
 休憩後は妻が写本を読み、それに続いて『竹取物語』(角川ソフィア文庫)の本文に入る。写本は私も少しは読みに慣れて来たなと実感しながらの1時間。今回は「かぐや姫の生ひ立ち」のみで終わった。

 昼食は都バスで「東大赤門前」へ移動。椿山荘カメリアはかっては学士会館の分館があったエリアに2012年に伊藤国際学術センターが作られ、その1Fにあるレストラン。ランチは税込みで1600円のフランス料理。会員は私以外は皆女性でランチは好評。“ランチ忘年会”をここで実施することを思い立った会員もいた。メインディッシュの豚肉が非常に柔らかった。
 
 本郷三丁目⇒松坂屋前⇒浅草一丁目と都バスを乗り継で浅草仲見世へ。羽子板市開催は17~19日で、昨日が土曜日にして最終日。凄い人出である。多くの人は羽子板を買おうとは思っていないだろう。羽子板の絵を愛で、人出を楽しむ雰囲気である。人気のある羽生結弦や急遽引退声明を出した澤穂希も登場していた。年末風景を眺めるのもまた楽し。
 浅草寺境内からは東京スカイツリーがよく見えた。この日は上弦の月で雲一つない青空を背景に、偶然にもツリーの真上に上弦の月が掛かる瞬間があったのでこちらをも写真撮影。(写真:仲見世で)


       (羽生結弦を用いた羽子板)


          (仲見世で)

 この日は朝から夜まで絶快晴。意識的に上空を見上げカメラを構えた。高いところの主役は東京スカイツリーと上弦の月。『竹取物語』を読んだ日に、かぐや姫が昇天していったお月様を飽かず眺めたのも何かの因縁だろう。

 その写真6枚を時間系列で並べる。
   
                (朝)                              (昼その1)

                
     (昼その2)                         (昼その3)
              
      (夜その1)                             (夜その2)