マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

第三お台場に“上陸”

2022年06月10日 | 東京散歩

 「文京ふるさと歴史館」の友の会会員となって初めての史跡巡りに参加してきた。令和4年度の第1回は〈お台場上陸と南極観測船“宗谷”乗船〉だった。お台場の近くまでは行ったことはあったが上陸したことはなかった。この機会に是非新たな体験をしたいと思ったのだ。








 6月1日(水)13時、JR新橋駅汐留口改札「鉄道唱歌の碑」前に集合。後で聞いたことだが、この日の参加希望者はなんと80名で、あまりの多さに事務局は吃驚。4班に編成しての1班は13時前の出発で、私は3班だった。この日は次の様に回った。









 新橋駅→(ゆりかもめ)→お台場海浜公園駅→(徒歩)→第三台場→(おだいばビーチ散策)→自由の女神像→台場駅→(ゆりかもめ)→東京国際クルーズターミナル駅→初代南極観測船宗谷→自由解散
 幾つかの史跡を巡ったが、この日の目玉はお台場だった。嘉永6(1853)年6月3日のペリー来航により、江戸幕府は二百数十年に及ぶ鎖国の夢を破られ、翌年の黒船再来に備えて江戸湾の海防強化に乗り出した。勘定方吟味役江川太郎左衛門英龍(担庵)らによる江戸湾巡視の結果、内海防備のための御台場築造が決定された。

 当初計画では、品川洲崎から深川洲崎にかけて海上に11基を築造しようとするものであった。第一、第二、第三台場は嘉永7年7月に、第五、第六、御殿山下台場は12月に竣工した。第四、第七台場は築造に着手するも工事半ばで中止された。最終的に完成した6基のお台場は親藩・譜代などの大名によって幕府崩壊の直前まで江戸湾防備の拠点として警備が行われた。しかしここに設置された砲台から弾丸が発射されることはなかった。




 完成した6基のお台場は、2つを残して埋め立てられたり、撤去されて、姿を消していった。第三と第六のお台場のみが史跡として残され、その第三台場は都立台場公園となり、上陸が可能なのだ。

 第三お台場はほぼ正方形に形造られ、周囲は石垣が施されていた。内側は凹の窪地状になっていて、そこに陣屋・かまどが造られ武士たちが居住出来るようになっていて、数ヶ所に分散されて火薬庫が作られていた。(写真下左は台場の窪地。右は台場からの景色)。


 


 砲台・・・西洋式築城法により築造された砲台で、右写真の砲台は当時の記録をもとに1933年に復元された。








 火薬庫跡・・・周囲に土堤をめぐらした木造瓦屋の建物。火薬は火災や被弾の危険に備えて、園内数箇ヶ所に分散して格納された。











 陣屋跡・・・勤番者の居住地として中心の低地部に建造された建物。基礎部分のみ今も現存する。










 かまど跡・・・1928年の公園の開園に伴い設置された大谷石製の八角のかまど。












 石垣・・・一番見たかったのは石垣だ。NHK番組歴史探偵『鉄道開業150年』に登場した高輪築堤の石垣は台場石垣の技術が生かされ、台場と同じように“布積み”と呼ばれる積み方がなされていたそうだ。石材を半分づつずらしながら積み上げていくことによって横ずれによる崩壊が避けられた。


 

 この日に歩いた距離は相当なものだった。高齢者も多く参加していたが皆健脚で、歩き慣れた様子に見えた。


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1 コメント

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お台場を見て (馬場紘二)
2022-06-11 14:13:12
戦前から、久保田万太郎を宗匠にして、いとう句会という会があり、徳川夢声、渋沢秀雄、高田保、川口松太郎、小糸源太郎、堀内敬三、佐々木茂策、小島政二郎、戸板康二がメンバー。戦後、お台場に吟行に行った帰りがけ、ぞろぞろ歩いていたとき、洒落好きの戸板康二が「おだいば見てのお帰り」と言ったそうです。
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