マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

お話会を終えて

2018年03月30日 | 身辺雑記

 一昨日の28日(水)のお話会で「六義園の水の出入りと海老床地図」を話し終えた。参加者は21名。普段お話会に参加するメンバーは開催日が変更になつたから少なく、私の知り合いはクラスメイトも含め多かった。特にラジオ体操仲間は9人。ご近所の方は参加し易いのかも知れない。昨日の朝ラジオ体操時に会ったとき、「良かったよ」「面白かったわ」などと言われ、嬉しかった。
 3月には2つの場で語らねばならず、準備も含めて忙しかった。その両方を無事終えて、肩の荷が下りホッとしている。
 会終了後、話に登場して来た場所を中心に散策した。皆さんが特に気に入った場所が圓通寺と吉祥寺。圓通寺は見事な大木に咲く満開の桜に感嘆の声が聞こえた。吉祥寺の枝垂れは7分程咲き。寺の境内の広さに驚く人が多かった。今朝は満開に近かった。絵葉書にもなりそうな風景を撮影して来た。(下の写真)

     

 このお話会の準備で、ご近所の江岸寺さんと圓通寺さんには大変にお世話になった。今日はその事を記しておきたい。
 江岸寺さんの門前の橋らしき石組みが気になり、上がらせて頂いて、掲示されている地図を見せて頂いた。一枚は「海老床地図」でもう一枚が「東都駒込邊繪図」(嘉永7年の江戸切絵図)。両方を合せて読むと、柳沢下屋敷からの水が江岸寺前・圓通寺前を経て虎ヶ橋へと流れて行く様子が読み取れた。虎ヶ橋はこの流れが中山道と交差する地点に架けられた橋だった。
 切絵図を撮影し終わると、お内儀が「その絵の描かかれているものを差し上げましょう」とのことで、母屋改築記念に作られた絵図布を有り難く頂いて来た。(写真は最下段に)

 圓通寺さんにもお世話になった。小林さん宅横にあった石碑は境内に移されていた。その碑の前面の文字が読み取れたが、俳句の書かれた裏面は読み取れない部分が多々あった。そこでご住職にお尋ねに行くと、右の文を頂いた。”芭蕉翁反故塚”など今後調べたい。石碑前面に書かれた観音大士(観音菩薩)は本堂で拝ませて頂いた。文殊大士(文殊菩薩)は秘仏で拝観は叶わなかった。
 その後、『鬼平犯科帳』の「盗賊婚礼」に圓通寺が登場していることを知った。平蔵の実母の実家の菩提寺が圓通寺。従兄の仙右衛門と墓参の帰路、料理屋「瓢箪屋」へ行く様子が描かれていた。岩槻街道の往還・駒込神明宮・駒込富士前などが登場するので、この話は皆さんに披露した。

 江戸時代末期からあまり変化しないものが二つある。道路の骨格とお寺さんだ。お寺さんには宝物が沢山眠っていることを知った。ご近辺に親切なお寺さんが多いことも知った。

 


明日が「お話会」

2018年03月27日 | 身辺雑記

 妻たちのグループが主催している「お話会」の話し手が私に回って来て、明日がその当日。右のテーマを語る。私はその準備のため、千川上水と谷端川を歩き、ご近所のお寺さんを訪ねたりもした。興味ある話題に幾つか巡り合った。それらの話は後日のブログで綴りたい。

 桜満開である。「お話会」は会終了後、話に登場した場所を何ヵ所かご案内予定で、ならばご近所で桜見頃の場所も紹介しようと、この2日間、桜巡りもしてきた。今日のブログはその中から7ヵ所掲載。
(1)  六義園・・・枝垂れが見頃になると開門時間が定刻9時より早い。カメラマンたちは枝垂れを遠巻きにして撮影。人の登場しない写真となる。






2)  染井墓地・・・ソメイヨシノ発祥の地として有名。墓地の一角で花見が出来る。夜ライトアップが始まったとの情報がある。






(3)  椿山荘下の神田川・・・川にかぶさる数十本の桜は満開だった。









(4)  吉祥寺・・・参道の枝垂れは5分咲程度。鐘楼付近と本殿脇の枝垂れは見事。こここへも最近は多くの観桜者が訪れる。








(5) 
圓通寺・・・本殿前の大木の桜は見事。










(我が家ベランダから撮影。右が圓通寺建物)


(6)  アイソトープ研究所・・・昨年の花見はここ。以前はもっと見事だったそうだが、その面影は残る。当日は、門前から建物とレンガ塀と併せて、桜を見る予定。






(7)  富士神社・・・ラジオ体操仲間では、ここは階段脇の桜のピンクと柳の緑色のコラボレイションが話題になっていた。今は緑のみ。

      

 


面白くなってきたボウリング

2018年03月24日 | 本駒込

 70代になって始めたボウリング、まだ続けている。楽しいから続けて来たボウリングだが、最近では面白いとも感じられるようになって来ている。
 エクセルでこの間のスコアを記録し続け、それを見ると最初は2011年10月31日とあった。現在も東京ドームボウリングセンターを利用し、もう6年半通っていることになる。現在はここの会員となり、毎週火曜日にプロの先生の指導を受け、木曜日には富士前福寿会の仲間3人と投げ合う。
 年間のスコアー平均をみると、113,122,120,119,139,134,139,151と変化してきた。3年前など絶好調と思える時期もあったが一昨年などは前に逆戻りの時期もあった。
 
今年になって1ゲームの平均値が150を超え始め、2日前の22日(木)は1ゲームで自己最高の214点を記録した。私はそうとは気が付かなかった。熊坂さんが掲示されるスコアーを写真に撮っておこうかと言ってくれたが、自己最高は220点と信じていた私は、「いいよ」と断ってしまった。勘違いだった。自己ベストは213点だった。記憶力の方は確実に低下している。
 ボウリングでストライクが出た時は快感である。しかしそれはたまにしか起こらない。それよりも、良い点を出すには「スペア」と呼ばれ、2投目で残ったピンを全て倒すことが大事。それがママならないことが多く、無念の思いを繰り返して来た。最近はその「スペア」を取れることが多くなってきていてる。得点アップより、それでボウリングが面白くなって来ているのだと思う。

 何故「スペア」の率が高くなってきたのかはよく分からない。一時的なことかも知れない。私にはスピードでピンを倒せる腕力がない。そこで「フックボール」と呼ばれる回転ボールを投げるのだが、そのコントロールが良くなってきているのかも知れない。
 以下は3月22日第2投のスコアー記録。「×」がストライク・「/」がスペア。
  
 


久し振りの加藤健一

2018年03月21日 | 映画・美術・芝居・落語

 3月11日(日)、加藤健一事務所公演『ドレッサー』のチケットを頂いていたので、久し振りに下北沢・本多劇場に行って来た。「本駒込」を語り終えた翌日の観劇。「チケットを差し上げます」とのメールを頂いたとき、「偶然にも、お役目を終えた翌日の観劇、ご褒美の様です」と嬉しい気持ちをメール返信した。

 本多劇場も加藤健一も下北沢も本当に久しぶりだった。何年振りか思い出せないほどの昔。
 その頃とは下北沢へのアプローチの仕方が違っていた。昔は小田急線を利用した。シルバーパス愛用の現在は、三田線・都営新宿線直通京王新線・井の頭線と乗り継いだがそれほど時間は掛からなかった。しかし下北沢駅は大工事中で、よく利用した改札口が分からず、見知らぬ改札口から出て“迷子”になってしまい、道筋を聞かねばなら羽目に。

 本多劇場も加藤健一も変わってはいなかった。カトケンのハリのある声を再び聴けたことが何よりも嬉しかった。初めてカトケンを観たのは一人芝居『審判』。その記憶力の良さと迫真の演技に感動したことを思い出していた。
 『ドレッサー』はイギリスの脚本家ロナルド・ハーウッドとかの、有名な作品で、今までに6回上演されたそうだ。妻はこの作品は2度めの観劇。主演男優の名前を暫し思い出せなかったようだが、PARCO劇場で、平幹二郎(座長役)と西村雅彦(ノーマン役)で観たことを思い出した。私には全く初めての作品だった。
 第二次世界大戦下のイギリス。とあるシェイクスピア劇団では、若くて健康な俳優は軍隊に取られてしまい、年老いた座長(加藤健一)などを含め僅かな劇団員で上演を続けていた。連日の空襲の恐怖や劇団の現状に身心共に疲弊した座長は、ある日街中で奇行に及び病院送りになってしまう。座長夫人(西山水木)と舞台監督マッジ(一柳みる)は、今夜予定の『リア王』の中止を決断するが、ドレッサーのノーマン(加納幸和)はなんとか舞台の幕を開けようと孤軍奮闘を繰り広げる。
 『ドレッサー』はそんな状況のもとで幕が開く。舞台裏の楽屋。ドレッサーとは俳優の衣装係兼付き人。座長が常に舞台でスポットライトを浴びているのに引き換え、ドレッサーのノイマンは一貫して影の人。召使的一面を持ちながら、「ご主人」の座長の演技を批判したり、友達の様に対等な冗談を交わしたりしながら何とか座長を舞台に立たせようとする。この二人の関係を軸にして座長夫人・舞台監督・新人女優などが楽屋裏に現れ、座長との葛藤が展開する。浮かび上がってくるのは「己の居場所」の問題。
 
劇中劇『リア王』の演じ方が新鮮で面白かった。楽屋裏に黒色の薄い膜が降りて来ると、楽屋にいた『リア王』の役者は膜の向こう側に行き、その又向こう側にいると想定される観客に『リア王』を演じるのだ。私達は『リア王』を演じる俳優の黒い後ろ姿の影法師を観ることになる。どうでもいい事の様に思えることだが、私はこういった次元の事柄に興味を感じてしまう。
 主役の加藤健一の演技力とハリのある声に魅了されるとともに、ノーマン役加納幸和のトボケタ様な味のある演技を楽しめたのでありました。


『吾輩は猫である』から出発し、巣鴨病院へ(本駒込3)

2018年03月18日 | 本駒込

 昨年、妻が『吾輩は猫である』を再読した時に気が付いたことで、私の発見ではないが・・・。
 『猫』文中に「巣鴨」という文字が登場するそうだ。(以下ページ数は『現代日本文学大系17 夏目漱石集(一)』より)。例えば
 (
1)p130 「・・・ 在巣鴨 天道公平 再拝・・・」
 (2)p139 「・・・天道公平事(こと)実名立町老梅は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。・・・」
 
この文章から天道公平が入院している巣鴨の病院について、その病院は何処にあった何という名前の病院かを調べたらしい。その結果、ネット上「江戸東京医学散歩」(http://sisoken.la.coocan.jp/edotokyo.html)なるサイトに行きつき、「巣鴨」は巣鴨病院と分かり、私に教えてくれた。

 そのサイトの70番目の話題として「日本医師会館・文京グリーンコート:旧理化学研究所跡・東京府巣鴨病院跡」が取り上げられ、「『江戸東京』で、榊俶の事跡を調べていて、日本医師会館や文京グリーンコートのある周辺一帯が、明治から大正のはじめまで東京府巣鴨病院(明治19年6月21日新築。旧小石川区巣鴨駕籠町から旧本郷区上富士前町)の敷地であったことがわかりました」とあった。
 ここで初めて、私は現文京グリーンコートの周辺一帯の前身が東京巣鴨病院であることを知った。(写真:グリーンコート内の理研の写真)

 「巣鴨病院の跡地に建てられたのが理化学研究所と府立5中(現小石川中高校)」との記述をほぼ信じたが、このサイトの文章だけに頼るのではなく、他の情報も知りたくて、府立5中の資料を公開している、小石川高校(現在名 小石川中等教育学校)を訪ねた。
 事務室でその旨を告げると、資料室の鍵を渡された。そこからは自分だけの行動だった。資料室には色々なものが展示されていたが、右の「小石川検定」がその間の事情をよく説明していた。そこに書かれていたことを要約する。










   

 「
府立5中は大正7(1918)年、小石川区駕籠町の東京府巣鴨病院が移転した跡地に建てられた。校地の候補地は幾つかあって、上富士前にあった牛舎や荏原郡松沢村上北沢の都立松沢病院に移転する東京府巣鴨病院跡地が候補に上がっていた。府立病院の方がほうが費用が安く済むので巣鴨病院跡地に決定した」とあった。


 それ以外にも面白い事が書かれていた。
 
「岩崎家別邸やその周辺はうさぎやたぬきが生息する土地でした。明治中頃より牛乳の需要が高まり 東京市内への牛乳の供給のため本郷から巣鴨周辺に牧場や牛舎がかなりあった。駕籠町から上富士前に抜ける不忍通りもまだありませんでした」
 整理をすると現グリーンコートの敷地は、その前身を遡って行けば、グリーンコート⇒科研製薬⇒理化学研究所⇒巣鴨病院⇒岩崎駒込邸⇒柳沢下屋敷となる。
 小石川高校の創立が1918年と知り、今年が創立100周年。盛大な式典が行われるだろうなと推定している。巣鴨病院は松沢病院へ移転したとあるように、そこには精神科が置かれていた。(写真:府立5中開校数年後の写真。不忍通りはまだない)