マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

蒔田鎗次郎と駒込一丁目遺跡

2023年05月04日 | 考古学

 『「弥生時代」の発見』の中で、蒔田鎗次郎(まいだそうじろう)は次のように記述されている。
 1896(明治29)年3月15日、蒔田が現在の駒込駅の東南300メートルの地にあった私邸で、自宅のゴミ捨て穴を掘ったところ、完全な形の壺などの土器が出てきた。これは遺跡のある層だと感じた蒔田は翌日から発掘を始め、翌々日には東大人類学教室の若手の応援を得て、都合3日間調査した。
 その調査と分析結果を『東京人類学会誌』に報告する。この報告のなかで蒔田は「是等ノ土器ハ貝塚土器トハ一種異ナルモノニシテ初テ弥生ケ岡ヨリ発見セラレタル故二人類学教室諸子ガ弥生式ト名付ケラレタルモノ」と由来を述べている。
 次の一文に私は驚いた。「蒔田邸は現在の豊島区駒込一丁目遺跡内にあり、遺跡は区境を越えて文京区の上富士遺跡に連続することが分かっている」。更には「蒔田の報告は詳細緻密で、ほぼ全形がわかる土器九点について個々の寸法や特徴だけでなく、出土時の土器の傾きや相互の位置関係までも記録している」とある。
 駒込一丁目遺跡は、駒込駅南側の本郷通りをはさんだ六義園の向かい側に位置する。そこは私が以前住んでいた所の近くで、蒔田邸はその一角にあったのだ。私は直ぐにその付近を歩き回ったが、遺跡を示す掲示も、蒔田邸の存在したことを示すものも全く発見出来なかった。
 全くの偶然だが、駒込図書館に通い詰めていた今年2月、「駒込一丁目遺跡出土遺物」が図書館内に展示されていた。発見された土器2点が展示され、小冊子「駒込の花」が発行されていることも知った。「駒込の花」には“蒔田鎗次郎をご存知ですか?”の記事が書かれていた。そこには残念ながらこの時発掘・採取した土器は関東大震災によって蒔田邸とともに焼失してしまったとあった。(写真上:駒込一丁目遺跡出土遺物の内、左は小型壺 右は広口壺)
 蒔田は市井の研究者であったが東京人類学会に入会し、短期間ではあったが華々しい活躍をし、志半ば1920(大正9)年、肺結核で亡くなった。染井霊園となりの勝林寺の墓に蒔田鎗次郎は眠っていると記されていた。


『「弥生時代」の発見』(著:石川日出志)を読む(その2)

2023年04月30日 | 考古学

 1884(明治17)年3月、東京大学の裏手向ヶ岡弥生町で出土したひとっの壺から「弥生式土器」、「弥生時代」という名前が誕生する。本書では名称誕生の過程が書かれていた。
 発見者の1人有坂鉊蔵から向ヶ岡で発見された壺を託された坪井正五郎は、『東洋学芸雑誌』に「帝国大学の隣地に貝塚の跟跡有リ」と題する報告を行い、それから3年経った1892年には、現・西ヶ原貝塚を発掘調査した。その際に、多数出土した、縄文土器とは異なる土器の一群を発見し、それらは向ヶ岡弥生町の貝塚から出土した土器と類似するという認識が生まれ、東京大学人類学教室の面々の間で「弥生式」という愛称が用いられるようになった。(写真:1884年向ヶ岡貝塚で発見された壺)

 更には、1896年になって、在野の考古学研究者の蒔田鎗次郎(まいだ そうじろう)が駒込の自宅で発掘した土器を精密に調査記録し、分析成果を『東京人類学会雑誌』に「弥生式土器(貝塚土器二似テ薄手ノモノ)発見二付イテ」の論文として発表し、「弥生式土器」という用語を初めて活字にした。それ以降、弥生式土器(現在名は弥生土器)の名称が学術用語として定着した。
 やがて弥生式土器の類例は多くの場所で知られるところとなり、後に弥生式土器が使われたのは縄文時代と古墳時代の間をつなぐ期間を占めることが明らかになって、「弥生時代」の発見に繋がっていった。本書には「弥生時代」の発見は蒔田鎗次郎に負うところが大きいと書かれている。
 
 
 


『「弥生時代」の発見』(著:石川日出志)を読む(その1)

2023年04月25日 | 考古学

 弥生土器「第1号」出土場所を「異人坂」の、坂が分岐するあたりを有力視する明治大学教授石川日出志氏の著作に『「弥生時代」の発見』があることを朝日新聞記事で知り、早速図書館から借りてきた。本著は新泉社刊行の「シリーズ“遺跡を学ぶ”」の一冊で、多くの写真や図が挿入されていて、初心者にも分かりやすく書かれていた。
 石川氏は「「弥生式土器第1号」が発見された地点は、現在特定できない状態にあり、諸氏により5ヶ所の候補地があげられているが、中でも異人坂分岐点を有力視する理由を次のように述べている。
 発見者の一人坪井正五郎が土器発見から5年後に『東洋学芸雑誌』に発表した報告書に坪井自身が描いた発見現場(向ヶ岡貝塚)のスケッチが載り、そのスケッチ図と「崖に面した場所」という証言と、異人坂付近の地形がよく一致する。他の候補地は崖から離れすぎているとの難点があるという。(下図はそのスケッチ図)

 私などが異人坂分岐点に立って、スケッチ図と見比べても、100年以上の時の隔たりもあり、同じとは想像できないが、石川氏は「向ヶ岡貝塚ヨリ上野公園ヲ望ム景」と説明文の付されたスケッチ図をこう説明している。「人物の足元の点々は貝塚であろう。人物後方の高まりは現在も残り、貝塚の位置を復元できる」と。
 
 それでもなお発見地点が曖昧となるのは発見時の当事者である坪井と有坂の証言の曖昧さからくると断言している。出土地点論考の最後に、「向ヶ岡弥生町遺跡を「弥生式土器第1号発見現場」発見地点や貝塚に限定するのではなく、集落遺跡として押さえることがいっそう重要なことであろう」とまとめている。


弥生土器「第1号」出土場所の謎

2023年04月21日 | 考古学

 もう半年以上も前のことになってしまったが、その頃朝日新聞をとっていなかった私に、中学校時代からの友人馬場さんから9月26日の夕刊の切り抜き記事が郵送されてきた。“まちの記憶”と題する連載ものらしく、今回のテーマは『弥生かいわい』で、「土器も まなざしも 漂うロマン」と書かれていた。この近辺をよく散策する私へ、面白いことが書かれていますよ、と知らせてくれたのだった。記事では弥生式土器の出土場所の謎以外に、「弥生美術館」や甘味処「芋甚」なども登場してくるが、弥生式土器に関する部分が特に興味を引いた。
 出土の模様については多くの方の知るところとは思うが、概略を記しておこう。
 1884年(明治17)年3月、大学予備門生の有坂鉊蔵は、東京大学生坪井正五郎、井上光太郎と共に、東大裏手にあった向ケ丘弥生町の貝塚で、表面に文様のついた、ほぼ完全な赤い土器を見つけた。後に弥生式土器と呼ばれる「第1号」発見の場面だ。

 その後、各地で類似の土器が見つかり、縄文土器とは明らかに異なる特徴があり、使われた年代もより新しいことから、これらの土器は、発見された地名にちなんで弥生式土器(現在は「弥生土器」)、土器が使われた時代を「弥生時代」と呼ぶようになった。土器出土の地名の弥生から「弥生時代」が導かれたのだった。
 ところがである。土器の正確な出土場所が分からなくなってしまっているそうな。その候補地の5つの中でも特に東大工学部敷地内にある「弥生二丁目遺跡」の可能性が高いとされているが、明大石川日出志教授などは「異人坂」途中の、坂が二つに分岐するあたりを有力視している、と書かれていた。(写真:異人坂。坂がVターンしている箇所)


 かって、何度も「異人坂」を上り下りした私は、記事を読んだ次の日の朝、有力視される現場地点を自分の目で確かめたくて、ラジオ体操終了後に異人坂を訪れた。バスを根津駅前で下車し、不忍通りを渡り、上野台地を背にして、本郷台地目指し坂を上り始める。縄文海進の頃はこの坂のどこかまでに海面は上昇して来ていただろうなと想像しながら上った。途中から坂はVターン(Uターンではない)し、根津方向へと戻るように分岐する地点に達した。そのターン場所が有力視されている場所で、本郷台地中ほどの高さにあった。


「凹みが語る縄文文化」(その2)

2020年02月25日 | 考古学

 飛鳥山博物館の展示内容と12日の朝日新聞の記事を併せ読むと「凹みが語る縄文文化」や古代の植物の一端の理解が進んだ。(写真は浅鉢形土器。再掲)
 新しい観察法「レプリカ法」の利点は初学者の私にも分かり易い内容だったし、しかも話は食用に用いられるツルマメに及んでいたので、ここに記しておきたい。


 

 この手法の利点の一つが、分析対象である試料の年代を決めやすいことにあるそうな。土器自体に種や実の跡があれば後世の混入を否定でき、土器の時代から種・実の時代もそのまま決められる。
 七社神社遺跡の浅鉢形土器について、学芸員鈴木氏は「種子は土器内部にもまんべんなく広がっており、粘土を練り込む段階で意図的に混ぜたと考えられる」と話していた。(写真は朝日新聞より)



 土器は今から約6000年前のものと考えられるから、その土器から確認されたダイズは当然6000年前には存在していたことになる。
 植物考古学が専門の佐々木由香氏(明治大学黒曜石研究センター研究員)は「ダイズは約5000年前の縄文中期には栽培されていたと考えられる。栽培種になるまでに約1000年かかるとの見方もある。縄文時代中期から1000年さかのぼった時期が縄文時代前期、すなわち今回分析した土器が作られた時期にあたる。七社神社前遺跡のころにはダイズの栽培行為が始まっていたかもしれない」と語っている。そのダイズは現代の野生種のツルマメに近いとも。(写真は展示されていたものより。ツルマメ)

 その混入理由として2つの説が紹介されていた。(1)土器を焼く際に縮むのを防ぐための混和剤として混入した。(2)種子や実が再び生まれるという、再生・豊饒を願って混入した。
 従来、食物の管理や栽培は弥生時代から始まると考えられてきた。ところが最近の研究では、縄文時代にも食物を管理・栽培していたことがわかってきています、とも記されていた。