マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

母校の同窓会に出席

2019年06月25日 | 学校

 一昨日の6月23日(日)、母校小山台高校定時制の同窓会”偲櫻会”が武蔵小山にある「小山台会館」で行われた。私は初めての出席で、恩師安永先生にお会いすることが出来た。








 会場となった「小山台会館」は「公益財団法人 小山台教育財団」が運営する会館で、全日制の同窓会”菊桜会”と”偲櫻会”が中心となって20年ほど前に建設され、運営の中心をも担っている。4階建て建物で、ホールや会議室は品川区などの一般団体も低料金で使用出来るようだ。夜間自習室があるなど在校生には便利な施設だろう。武蔵小山駅や母校から徒歩3分くらい。ここを訪れるのも初めてだった。
 同窓会は3階大ホールで行われた。中央にはその後に行われる懇親会用のテーブルが設置されていて、部屋の隅にぐるりと椅子席が置かれていた。坐って開会を待っている間に安永先生がお出でになった。直ぐに挨拶をすると、「やあ」と言って強い握りの握手。多分30年振り再会の瞬間だった。

 決算報告や今年度の予算案の提案など型通りの総会は20分弱で終了。続いての懇親会の冒頭に校長などの来賓が入場し挨拶。その後、突然、司会は「今年安永先生が卒寿を迎えられましたのでお祝いを差し上げたいと思います」と語った。意外なことだったらしく先生は固辞されていたが、最後にはお祝いのものを受け取られ万雷の拍手。この7月1日に90歳になられるのだ。一言の挨拶で「日々の生活のリズムを大切にしています」と話された。90歳とはとても思えない、溌溂とした姿。この場面に出合えただけで会に参加して良かったと思った。(写真:挨拶される安永先生。右は同窓会々長近藤和子さん)

 参加者40数名のもと懇親会開始。私の知っている人は先生だけだった。先生は、同窓会会長など色々な方に私を「24期生で、私が担任しました。卒業後大学で数学を学び、都立高校の教員を勤めあげました」などと紹介して下さった。






 宴半ば、10数名が登壇し、校歌の合唱が始まった。会場の皆も一緒に歌った。府立第八中学校歌に続き、文化祭寄贈歌も歌われたが、寄贈歌は5番まであるのに何故か2番で終わってしまった。それがすごく残念だった。
 更に数十分の後、司会から「皆さんで校歌を一緒に歌いましょ」との声がして、安永先生に促されて私もその輪に加わった。最後に歌ったのが文化祭寄贈歌。

 この文化祭寄贈歌の作詞は現役教員だった赤堀先生だそうな。先生が定時制の生徒を励ますような歌詞で、文化祭に歌うだけでなく、私などは日頃良く口ずさんだものだった。ここでは5番まで、私も大きな声で歌った。
 例えば4番はこうだ。
 「現(うつ)し世の 波きびしくて
  憩(やす)らう時も なき道ぞ
  今不死鳥の ゆく如く
  雲を砕きて 友よ 友よ 飛ばんかな」
 宴は午後4時には終了。毎年出席の安永先生からは「来年又会おう」と言われ会場を後にした。
 
 

 


荒川5中最後の勤務

2016年03月07日 | 学校

 34日(金)が、荒川5中勤務の最終日だった。主として水曜日と金曜日の、週2回のボランティア教員としての勤務は、この中学の居心地が良かったからか、4年間も勤めさせて頂いたことになる。「来年度も如何ですか」と管理職に勧められていたが、思うところあって今年度限りとさせて頂いた。

 数学を教える先生の補助が仕事内容だったが、授業中数多くの質問を受けたときが一番嬉しかった。高校受験を前にし、私を心待ちにしている生徒もいた。しかし、上手くいかない日もあった。お節介が過ぎて嫌な顔をされたこともあった。「俺たちのクラスには来なくていいよ」と言われ落ち込んだときもあった。彼らから見てオジンの私に教えて貰うことを潔しとしない気持ちも理解できた。初め「おじいちゃん先生」と私を呼んでいた1年生が3年になると“大将”とか“長老”と呼ぶようになった学年もあった。私はささやかな“喜怒哀楽”を味わったことになる。
 授業以外では今までにない経験をさせて貰った。荒川自然公園での“ホタル観賞”、卒業式や“合唱コンクール”も見せて頂いた。忘年会にも大相撲観戦にも参加させて頂いた。給食は特に美味しかったな。今後街歩きをご一緒させて頂ける先生にも出会えた。人々が集う場所に出掛けていくとそこには色々のドラマが待っている、ということだと思う。ラジオ体操然り、退職教員組織然り。
 さて、このブログの冒頭で“思うところあって”と書いた。
 
私は15歳の時から74歳の今日まで毎年の様に定期的に働いてきた。中学卒業後はニコンに5年。大学入学前の東京ガスのアルバイトが6ヶ月。大学中は週3日程度の家庭教師。都立高校は正規勤務が35+嘱託4年。その後、芝浦大学付属柏中学の講師は6ヶ月。ボランティア教員は5年。もうこの辺で“お役御免”と行きたくなってきていた。それにも増して、少しはじっくりと江戸時代の和算の書を紐解き、和算家の活躍の様子を調べたいとの思いが強くなっていた。それ故のラスト勤務。来年度以降の町会の役職等も下ろさせて頂くことにした。


荒川5中の新年会で、大相撲見物(その2)

2015年01月20日 | 学校

 私がボランティア勤務する中学の忘年会が行われた[「五臓六腑 上野店」は、黒毛和牛のみ使用の、もつ鍋名店らしい。12月19日(金)も満員の盛況で、宴会場所は文字通り肩を寄せ合うほどの狭さ。でもその狭さも幸いしてか、顔が見える距離空間の中、和気藹々と会話が弾み、盃が交わされる。初めて参加させて頂いた飲み会だが、この職場のチームワークの良さを実感した忘年会だった。
 かって、高校で教えていた私の個人感想を添えれば、学校現場で一番大事ものは、このチームワークだと思う。授業や生徒指導に当たる際は、その個人の熱意や力量が大切だろうが、集団としての生徒に対しては、教員側が指導方針を教員皆で共有する必要がある。それには教員集団としての活発な議論を前提とし、それを保障し、支えるのがチームワーク。昔の勤務校、向丘高校や鷺宮高校を思い出させるような、ここの職場の良き雰囲気を感じ私は嬉しくなり、飲み放題のご酒を沢山召しあがってしまったが、帰路、バス路線のみならず下車駅までご一緒の先生がいらしたことが幸いした。
 モツ煮込はよく食するがモツ鍋は初めて。流石に美味い鍋だった。


 新年会には事前に、幹事さんが特別作成した”しおり”が配布された。高校では考えられない、きめ細かさ。事前のアンケートが集約されていて、各自の出身地・酒量・贔屓力士・好きな飲み物が一覧表となっていて、私はこの栞を熟読して宴会に臨んだ。
 相撲見物後は、ちゃんこ鍋「吉葉」へ。ここは、「悲劇の横綱」吉葉山が所属していた、旧宮城野部屋のあったところ。その建物を譲り受け、吉葉山の名から「吉葉」と名付けた割烹料理店。私は知らなかったが、数あるちゃんこ鍋店の中でも有名なお店で、ある幹事さんの熱意が実ったらしい。(写真:17日撮影の土俵)







 玄関を入ると土俵が目に飛び込んでくる。私たちは2階の貸切りの宴会場へ。乾杯後、今回も楽しい会話が交わされ、料理が3点ほど出された段階で、お声が掛かった。1階の土俵で一番太鼓と相撲甚句が行われるとのこと。料理はさて置いて、多くの人たち階下へ。間近で聞く一番太鼓(と呼んだような?)と相撲甚句。相撲見物に来たのだとしみじみ思わせる趣向である。このお店の繁盛原因は魚河岸から毎日仕入れる新鮮魚とこのイベントと知った。なにせ100名は収容可能なこのお店。大相撲同様大入り満員だった。(写真:吉葉HPより)





     (土俵上で太鼓)

  
     (土俵上で相撲甚句)

 イベント
終了後、宴席は仕切り直し。沸騰寸前のちゃんこ鍋を堪能しながらの宴。特に幹事さんが用意してくれた“しおり”が良かった。私のような新参者には会話の切っ掛けとなった。
 帰路、隅田川を渡り来る夜風は強烈に冷く、身に沁みたが、心持は温かかった。

 


三たびの荒川5中

2014年06月14日 | 学校

 今年も5月21日(水)から、荒川5中に有償の”ボランティア教員”として勤務している。主として水曜日・金曜日の、9時半~12時半の勤務で、年に35日出勤という、比較的楽な勤務体制である。3年連続の勤務なので、顔見知りの先生も多いが、この2年間で1/3ほどの教員が異動していった。3日前の6月11日(水)に、朝の職員会議で、紹介をされ、挨拶をした。

 授業に臨む心構えとしては、現役の教員だった頃は”何をどう、分かり易く、時に面白く”述べようかに重点があったように思う。現在は、今のところはどちらかというと受け身の姿勢。先生の授業補助だから気楽な面が多いが、それでもそれなりに生徒に接する面では気配りが必要だと実感している。生徒の年齢は12歳~15歳。私はその5倍ほど生きてきている。生徒から見れば完全なおじい。実際に私の年齢前後の祖父がいる生徒もいるだろう。そんな高齢の人間から教えを受けることを潔しとしない生徒もいる。本能的に拒否をする生徒がいてもおかしくはない。年度当初は、あからさまに”何しに来たの”とか”おじん”などと言う生徒もいる。

 明らかな誤りやミスには積極的に一声かけて世話を焼くが、問題を解き悩んでいるからといって、すぐに手助けすることがベストとは限らない。特に数学では自ら考えることが必要だ。生徒の実情を知った上で、適切な時と方法を得てのアドバイスをするには、1・2年生には、もう少し各生徒の実態を知る時間が必要なようだ。
 3年生ともなると、中には3回目の出会いもあり、お互いに様子がわかってきていて、彼らが私を呼ぶのも、昨年の例だと、”おじん”→”先生”→”親方”に変化したりしている。3年生の2学期ともなれば、受験を間近に控え、藁にも縋りたい気持ちになるらしく、普段あまり質問しない生徒が、私を藁に見立ててか、質問攻勢をかけてくることもあった。低空飛行を続けていた生徒が都立入試に成功し、喜び合ったケースもあった。

 昨日は3時間すべて異なる学年だった。取分け3年生の授業態度が良い。彼らの1年生の時の状態を知っている私から見ると、格段の進歩。彼らの成長の証でもあるが、そこまで生徒を変えさせた、この2年間の先生方の努力・指導の賜物と感心している。
 数学で躓いている生徒からの質問に応えられる瞬間がやはりやり甲斐である。


80歳を超えられてもお元気な方へのインタビュー

2014年04月15日 | 学校

 私が幹事を務める「都高退教」のニュースの記事の一つに『80歳を超えられてもお元気な会員へのインタビー』がある。この様な記事を載せることの提案者の一人の私は、実際にインタビューもさせて頂いた。その記事はニュースとして既に発行もされているが、読まれた方は会員の方に限定されている。80歳を過ぎられても、こんなにもお元気に活躍されている方がいることを知ってもらおうと、その時の記事を縮小し、定年後に焦点を合わせて綴り直します。

 『幡野憲正さんへのインタビュー
 「80歳を超えられてもお元気な会員へのインタビュー」第2弾をお届けします。
 今回、お話を伺うのは、かつて都高教書記長・副委員長などを歴任された、幡野憲正さんです。聞き手は幹事の二人。昨年の定期総会終了後の懇親会の席上「NPO法人を立ち上げて、高齢の方々にパソコンを教えています」との話を伺ったのがきっかけでした。
 80歳は超えられているはずだと思いつつ、まず年齢を。「今、87歳で、大正15年生まれです」に吃驚。昭和一桁生まれではありませんでした。5歳以上はお若く見え、非常にお元気な様子です。

 定年退職後の嘱託時代は、本務以外に、熟練していたパソコンのスキルを活かして友人の会社の製品(貯水槽)の構造計算をプログラム化する仕事を手伝っていました。
 2001年に「IT講習」が実施されたときに、知人のパソコン教室経営者から懇願され講師を引き受けます。その後、その受講者の中から、パソコン技能を充分に習得した人を募り、「PCクラブ」という名で講習を継続。さらに、2002年にこの人たちを母体にした「NPO法人IT支援センター」を組織。
 ところが、講習の拠点たるパソコン教室が倒産してしまい、理事長の役を引き受けると、会の人たちから、各自1万円を出資するから講習を続けたいとの要望があり、足立区の「生涯学習センター」の「コンピューター研修室」を借りて講習を続け、1年で赤字解消。出資金を返還したとのこと。この時の預り金返還のメモまで残されていることに感心すると同時に、特に印象に残ったことは、彼が講師を引き受けて以降退会者が殆どいなくなったということです。それも、大学時代にアルバイトで学校へ通えない日々に、学校へ行かないでも学ぶ方法を身に付け、これを講師として実践したからとの話を興味津々と聞きました。
 2005年9月には、韓国からパソコン団体「銀色の巣」24名の訪日を受けての交流も成功裏に終了。(詳しくはホームページhttp://www.npo-it.com/をご覧ください) 
 現在はパソコンを借りての講習ではなく、受講者各自がノートパソコンを持参しての講習に切り替えています。費用が安く済み、予習・復習がはかどるだけでなく、その場でパソコンのトラブルを直したり、フリーソフトをインストール出来るので、生徒さんに大変喜ばれているそうです。
 今は、プロジェクターを購入し、各自のパソコンに接続しての講習を実施しています。この方法は数あるパソコン教室でも実にユニークな、斬新な方法と思いながら話を聞きました。定時制で教えていた時の方式を採用し、テキストも市販のものではなく手作り教材を使用。精選した薄い教材は持ち運びも簡単で、復習にも最適とのことです。

 ここまでの話を伺って思うことは、そのエネルギッシュな行動力と強い精神力です。NPO法人設立時が75歳。普通(?)の人ならば、隠居気分か老い支度を考える年齢。幡野さんはその年齢から新たなるものに挑んだのです。
 いやはや、大変な行動力です。その幡野さんが我々後輩へ向けてのアドバイスをも語ってくれました。組織の大切さと、長い年月を掛けて培った専門を、次の世代に伝える“恩返し”です。都高退教が中心となり、NPO法人を立ち上げ、落ちこぼれの子供たちを対象とする、学習組織を作ったらどうかとの提案もありました。 
 都高退教に関係 する著作・編集書には『伝えたい戦争の体験』『私にとっての戦後』などがあります。

 インタビューは途中から“ランチョン”に移動。そこで元気の源をお尋ねしました。「働き続けることです」との即答が返ってきました。働くこと→お元気→働くこと の好循環を築きあげられてこられたのです。
 思えば敗戦後の混乱期から高度経済成長を経て今日まで、70年近く延々と働き続けてこられた幡野さんならではの言葉です。隠居気分漂う筆者には身の引き締まるインタビューでした。』