マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

土曜日の”やねせん”

2009年09月27日 | やねせん

 昨日はラジオ体操の後”谷根千”へ。
 土曜日の”やねせん”の朝は早い。朝7時前によみせ通りを歩くと、この近辺のホテルに宿泊したと思しき女性の一団が、買い終わったものを手に手に街を散策しています。行き交う人も普段より多く、何件かのお店は既に開店しています。
 よみせ通りを左折、谷中銀座を抜けて「ゆうやけだんだん」を昇りきると、野菜を売っている露店がありました。きゅうりの漬物(200円)を買い、トマトが見当たらないので、”店主”のおばさんに尋ねると、「5時半にはもうみんな売り切れてしまったよ」との返事。ついでに何処から来ているのか聞くと「我孫子だよ」。朝取りの新鮮な野菜を、素早く運んできたのでしょう。我孫子と日暮里は常磐線「快速」で30分の距離です。後刻、時刻表で調べると4時42分我孫子始発は日暮里着5時13分でした。それとも車移動でしょうか??
 谷中銀座もいつもとは違い、土曜日はお店を開いている処がちらほら。選挙期間中に鳩山党首がやってきてメンチカツを買い、お釣りを貰わなかったことでも有名になった肉屋さんはまだ開店していませんが、メンチカツで有名なもう一軒のお店、既に揚げ始めています。「メンチ何時から販売?」と聞くと「11時からです」との返事。あと4時間後、諦めて「武蔵屋」でおからドウナツを2つ(160円)購買。
 よみせ通りに戻り、「澤屋のジャム」を軽井沢店と同じ値段で売っているパン屋さん「ラ・スール・リマーレ」では抹茶のシフォンを2つ(380円)。大沢製麺では焼きソバの玉を2つ(180円)。「このお店、いつ頃からやっているの」「80年まえからだよ。親父と私で2代だよ」こういった何気ない会話が楽しい。
 これだけの買い物をして千円札1枚で、80円のお釣りがありました。

 お昼には再びよみせ通りへ。「すずらん通り」入り口にある「寿司海鮮処 ととや」でお得なランチ海鮮丼(1000円)を食し、最後は「カフェ・ヴォルガー」の水出しコーヒー(450円)。昨日は”一人やねせん”でした。

 今日から4日間ほど暫く東京を離れます。ブログは10月1日から再開の予定です。


核なき世界へ

2009年09月25日 | 身辺雑記

 今日の朝刊の一面、『オバマ米大統領が主宰する国連安全保障理事会が24日午前、ニューヨークの国連本部で開かれた。核不拡散条約(NPT)で核兵器の保有が認められている米ロ英仏中の5カ国すべての指導者が、安保理事長国の米国が提起した「核のない世界」を目指す歴史的な決議を全会一致で採択した』と報じていました。
 記事は「安保理が決議で”
核なき世界”を国際社会に呼びかけたのも、初めてのこと」と続きます。
 
 「核廃絶」と言う、
世界の多くの人々の、特に被爆国日本の願いが、国際的舞台で陽の目を見ないことを無念に思っていました。その決議はほんの一歩かも知れませんが、”最初の一歩”である事を願わずにはいられません。
 「核廃絶」に対して必ず語られたのが「核の抑止力」や「核バランス論」。かって「核廃絶」を主張する者は国際政治力学の”いろは”を知らぬものとの烙印を押され、せせら笑われる様な雰囲気がありました。少しずつ雰囲気が変わりつつあるようです。
 アフリカ・ウガンダのムセベニ大統領は語ります「核を持つ国があることが、他の国が核を持ちたがる主な理由なのは明白。いくつかの核保有を認め、他の国に持つなと言うのは論理的ではない」私の考えにぴったりの発言です。

 偶然にも「核」に関係する情報が他に2つほど届きました。9月22日のブログ「五百羅漢寺」を読まれた友人のBさんからは、こまつ座公演「紙屋町さくらホテル」のパンフレットが送られて来ました。その劇の一場面、時は昭和20年5月15日の午後6時~2日後の17日午後9時まで、所は広島市紙屋町の「紙屋町さくらホテル」。台本が手元にありませんから確かな事は言えませんが、そのホテルに、8月6日に被爆した「桜隊」が宿泊し、迫り来る運命を知らずに過ごした2日間が演じられたのではないでしょうか。
 
 このパンフレットは「桜隊の運命」と言う特集を組んでいました。こちらの特集には衝撃を受けました。8月6日桜隊の寮は崩壊、隊員全員生き埋めに。しかしその地獄から、丸山、高山、園井、沖だけが脱出できたのでした。脱出した4名は更なる地獄を味わいつつ、丸山定夫は敗戦の翌日に、高山象三は8月20日に六甲で、園井恵子も漸くたどり着いた六甲で8月21日に、仲みどりは、破れたシーツを身にまとい、東京の母のもとに生還後の8月24日に、亡くなったとありました。皆、もの凄い地獄の苦しみの中、命途絶えたとありました。

 もう一つは赤旗日曜版「核持ち込みの日米密約」について。選挙後の9月10日の党首会談で、共産党志位委員長は、党が独自に入手した、「密約」に関する文書を、民主党の鳩山首相と岡田外相に渡したとありました。この事実も両党の歴史の中で多分初めての事。知りたいのは真実。それを明らかにする文書に到達して欲しいものです。
 
 後世から見て2009年が、世界の流れや日本の政治のターニングポイントと評価されるなら、今、私達は歴史の転換点の紛れもない目撃者。新聞をはじめ各種メディア情報をしっかり受け止めたいと考えています。
 
 


元競馬場

2009年09月23日 | 東京散歩

 五百羅漢寺を後にし、目黒不動尊境内を通り抜けて真っ直ぐ進むと母校目黒3中があります。今日はここは素通りし、母校を背中にして元「競馬場」跡地を目指しました。バスの駅名に「元競馬場前」とあるくらいですから、そのバス停からそれほど遠くないところに競馬場があったのでしょうが、最近までその競馬場が何処にあったのかは知りませんでした。
 
 日経新聞紙上の「夢のなおありて」と題するコラムに「現代遺跡発見の旅」(伊東克代著 交通新聞社)が紹介されていました。
 早速購入し一気に読み終えました。「まえがき」で著者は語ります。
 『・・・この現代遺跡発掘の旅は、ある種の郷愁と一時代を築いたシンボルの本当の姿を知りたいという思いから始まりました。現実には跡形もなくなっているものがほとんどでしたが、丹念に歩いてみると、思いがけない”夢のかけら”が落ちていたのです』
 「目黒競馬場」、「池袋モンパルナス」、「恋文横丁」、「東京スタジアム」、「千住のお化け煙突」、「上野大仏」、「仁丹塔」等々が登場してきます。

 ”発掘の旅”は「目黒競馬場」から始まっていました。元競馬場のコーナーの円弧の部分が道路として現存している、とも書かれていました。中学生時代この近辺は何度も歩いた事があるのに、迂闊にも全く気が付きませんでした。
 この「目黒競馬場」1907年に開設され、1932年に第1回日本ダービーが行われたのもここ。ただ手狭になり、1933年の春季開催を最後に競馬場は廃止され、その役割は現在の府中競馬場に移転されたとも書かれています。


 
 (第1回 ダービーの様子 :Wikipediaより)


             (目黒通りにある記念碑)

 
その跡地なかなか見つかりませんでした。地元の方と思しき方に聞いても分かりません。30分ほど行きつ戻りつして漸く発見。本当に半円を描いた様な道路が現存していました。勿論端から端まで、ゆったりと歩いてきました。


     (カーブが現存していました)



      (外周の形跡が続きます)


        図1
 図1で「山口マンション」右上から「すずかけハイツ」に掛けての円弧が、その跡地で、道路とし現存しているもの。図左上に交差点名を示す『元競馬場』の文字が見えます。
 帰りは目黒通りに出て、「元競馬場前」でバスに乗り「大鳥神社前」へ。ここでバスに乗り換え渋谷へ。
渋谷にある名曲喫茶「ライオン」へ。まだ存在しているとのKさん情報を聞いての遠回り、ここは30年振りの再訪でした。


五百羅漢寺(目黒)

2009年09月22日 | 東京散歩

 7月上旬、父の墓参りに、目黒にある俗称岩屋弁天(蟠龍寺)に出掛け、その帰り”五百羅漢”から”元競馬場”へと足を伸ばしました。
 
 マーちゃんが生まれたのは目黒不動尊のすぐそば。よく遊んだのは蛸薬師(成就院)の庭先。中学へは五百羅漢寺の脇の坂道を登り、目黒不動尊の裏手に出て通学していました。思えば神社仏閣の多い地域で生まれ育ったものです。特に目黒不動尊の毎月28日の縁日が待ち遠しく、小銭を持ってよく出掛けたました。でも通学途中の”五百羅漢”にある仏様達の形相は物凄く、恐ろしい感じがして、出来れば仏様の顔は見ないようにして、足早に通り過ぎたのものでした。
 
 『目黒不動の佇まいは大好きです。初めて訪れた五百羅漢寺ではあまりの迫力に鳥肌が立ちました』とのメールが、街並みを描き続ける画家のKさんからありました。あの五百羅漢に感動する方がいる事が驚きでしたが、50余年前の昔とは大きく変わったらしい事が推測出来ました。丁度その頃伊東克代著「現代遺跡発見の旅」(交通新聞社)を読んで、そこに登場する「目黒競馬場」の跡地を歩いて見たくなり、墓参りの帰りに五百羅漢寺→目黒不動尊→母校→元競馬場 の散策を思い立ったのでした。

 五百羅漢寺は、江戸時代に松雲元慶によって開かれた浄土宗系のお寺。現在そこには開基元慶が独力で彫り上げた300余りの羅漢様達が鎮座されています。江戸時代には、このお寺は、「葛飾北斎」の『富嶽三十六景』にも描かれているとの事。
 その五百羅漢寺へ行ったときの私からkさんへの感想メールです。
 『「五百羅漢」へ寄りました。もう何十年振りかの事です。中学時代この脇を通り通学していました。荒れた感じのお寺で「五百羅漢」の仏様は何か怖いという印象しか持っていませんでした。まるで感じが違っていました。この仏様たちを制作した作者元慶の気迫に圧倒される想い。仏様の傍に掲げられた一言一言の多くが胸に沁みこんで来ます』

 このメールには書き忘れましたが、本堂をお参りした後、お寺の脇に廻ると、吃驚するものがありました。
 原爆で亡くならた劇団「桜隊」の慰霊碑があったのです。不明にして全く知りませんでした(不明な事が多すぎます)。やや長い文章ですがインターネットから引用させていただきます。
 
 『広島での巡演中に9名全員を原爆で失った劇団です。
 移動演劇隊「桜隊」は、1945年8月6日広島県内を巡演中に爆心地から750mの宿舎で被爆し居合わせた9名全員の命を奪われました。

 メンバーには、存命であれば戦後の演劇界を大きく変えたであろうといわれる、名優丸山定夫、元宝塚スターで「映画無法松の一生」で全国のファンを魅了した園井恵子、裸体にシートをまとい避難列車で帰郷し、東大行院に入院し原爆症一号患者として亡くなった仲みどり などがいます。
 (中略)
 戦後、徳川夢声氏の呼びかけで、多くの関係者の協力により目黒の五百羅漢寺に「桜隊原爆殉難碑」が建立され、今日まで毎年8月6日に「移動演劇・桜隊原爆忌」として追悼会を催しています』とあり、碑にも同様な事が刻まれていました。
 
 ここにも原爆により悲惨な死をとげられた方々がおられました。
 核廃絶に向けての報道を注目しています。
 (このブログ 次回に続きます)


高峰温泉(秘湯へ その2)

2009年09月19日 | 秘湯へ

 前回のブログに登場した囲碁仲間の4人と、今年の5月に行ったのが、信州の「高峰温泉」です。既に70歳を過ぎられたにも拘わらず運転がお得意のOさんの車で直に温泉を目指しました。

 この温泉に初めて出掛けたのは20数年前の3月。小諸から車坂峠までの上り坂には雪が残り、マイカーを車坂峠で降りました。そこには何と雪上車がお出迎え。雪上車に乗るなんて初めての経験です。雪景色を眺めながら500mほどで宿へ。宿の家族の皆さんに温かくもてなして頂いたというのがこの時の印象です。

 その後色々なところでこの温泉の評判を聞くにつけ、何時かは再訪をと願っていましたが、今年になり願いが叶いそうな条件が整いました。この宿の”御もてなし”が気に入りリピーターが非常に多いとも聞きました。土日利用は予約で一杯と推測し、そこを外しての予約、空いていました。4人とも定年退職後の嘱託も終了、現在は”無職”。この”特権”を最大限活用しています。
 宿は評判通りでした。建物は改築され、増築もされていましたが、接待の態度は昔と変わらず、単にうわべだけの丁寧さとは違い、心が籠もった感じが心地よく感じられます。部屋の外には野鳥の巣が作られ、室内から野鳥観察出来る様な工夫もされてありました。夕食の食膳は山菜尽くし。付近の高原から採ってきた高原山菜との事。夕食後は天体観測会も行われた様ですが、私達は囲碁に没頭、参加出来ませんでした。
 この宿の一番の特徴は超低温の湯。二つの湯船とも源泉が低温。特に一箇所は入るのが躊躇われるほどの低温です。30℃以下の温度でしょうか。でも入ってしまうと徐々に冷たさは遠のいていきます。夜、この温泉に入り、眼下に佐久平の夜景を眺めました。
 翌朝4時に起床し、うとうととしながら1時間半以上も超低温の湯に浸かっていました。遠くには蓼科山や美ヶ原の山影が。近くには小鳥達の飛び交う姿や石楠花の花が。長時間、のんびりと入浴できる湯でした。


             
(玄関前の看板)


         (高峰温泉 玄関)
 
 早朝宿を立ち、高峰山に向かいました。この4人の囲碁仲間、囲碁だけではなく、囲碁+温泉+低山ハイキング+ご酒 を同時に楽しもうと欲張っています。この日向かう高峰山は標高こそ2000mを超えていますが、宿から小一時間で到達できる山頂。この日は快晴で、山頂からは八ヶ岳や残雪の北アルプスがくっきり見渡せ、ビール一杯で乾杯し、早めの昼食を食しつつ佐久盆地や千曲川を飽かず眺めてました。
 下山後の再入浴OKで、身も心もサッパリして宿を後にしました。


      (高峰山への途中の道標)
 (この宿のホームページが充実しています。「高峰温泉」で検索してみて下さい。蛇足ながら「高峰高原ホテル」は別の宿です)