マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

ブラームスを聴く

2014年04月30日 | 身辺雑記

 ラジオ体操の効果は、早起きが習慣化され、体操後の、朝陽を浴びながらの散策やトレーニングで気持ちの良い一日のスタートが切れることにある。一方、そこはコミュニティーの場ともなり、あらなた人間関係の萌芽ともなり得る。私はこの4年間で色々なことを教えられ、又得てきた。
 毎日ラジカセを運んで下さる沢さんからは、90歳にしていまだ元気の秘訣をお聞きした。昔の温泉宿の載る本も数冊頂いている。消滅してしまった、懐かしい宿の写真がそこにはある。又、先週は山梨県に別荘のあるOHさんから、背景に甲斐駒ヶ岳の写る、素晴らしい右の写真を頂いた。多分北杜市の清春あたりから撮影したものだろう。私が撮った写真を皆さんに差し上げることもある。
 富士神社近辺の貴重な情報がもたらされることがある。毎日交通整理の旗を振る、82歳のNさんからは、例えば閉店してしまった“鶴の湯”が一日だけ営業したとの話を聞いた。(この情報を知ったのは営業後であったが)。
 先日はOさんから、音楽会のチケットを頂いた。「文京シティ・コア」第14回定期演奏会である。当初チケットの話が出たとき、Oさんの属する合唱団の発表会かと考えていたが、左にあらず。交響楽団の演奏があり、その演奏に合わせての合唱が奏でられたのだ。


 4月29日(火)に文京シビック大ホールに出かけた。会場の前の方に席を取り待っていると、楽団入場。オーケストラの構成員は50名ほど。更に120名を超える大合唱団だ。後ろから3列目の左から4番目にOさんの顔も見える。
 第一部が「運命の歌」。第二部で「ドイツ・レクイエム」どちらもブラームスの作曲。迫力満点の演奏であり、合唱だった。
 配られた資料によれば、「文京シティ・コア」は1993年2月に結成され、以降、今回の指揮者辻秀幸氏の指導を受けて来ているそうで、3年に2回のほどの割合で定期演奏会を開催している。バッハやメンデルスゾーンを経て、今回はブラームス。「レクイエム」は鎮魂ミサ曲。舞台袖の電子掲示板からは、歌われている歌詞の訳が流れる。現世を生きる人間へのメッセージと受け取った。120人もの合唱が会場を揺するようだった。Oさん、有難う御座いました。



 


古川祭を観る

2014年04月28日 | 

 古川祭は“天下の奇祭”と語られている。400年以上の伝統がある気多若宮神社の例祭。起し太鼓も、屋台曳行も氏神様の神幸を祝い、迎えるためのもの。古川人がこの地に生きる上での心のよりどころ。毎年4月19日・20日の二日間に限り行われる。

 昨年春に飛騨古川を訪れた際、古川祭の中心は屋台曳行と思い込んでしまったようで、夜にも屋台の曳行があると勘違いしていた。19日の夜に行われるのは「起し太鼓」。これこそ、古川祭のハイライトであった。(写真:翌日の地元紙朝刊より)






 夕食後、宿の仕立てたマイクロバスは18時45分には会場に着いた。既に大勢の見物客で会場は賑わっている。私たちは"
まつり広場"の中心へとの足を進めた。ときは、出立祭りの直前で、そこではさらし姿の若者が付け太鼓を使い度胸を試し合っていた。右の写真のように、太鼓を付けた棒を夜空に向けて立て、その先端まで駆け上り、腹を基点の”宇宙遊泳”をするのだ。まだ祭りの前座に過ぎないが、演じるほうも観るほうも、もう興奮状態になってくる。後で考えれば、祭りの一部であったが、ここに祭のエッセンスがあったようにも思う。
 神事が執り行われたのちに、数百人のさらし姿の裸男たちが担ぐ櫓が町中を練り始めた。帰りのバス時刻の時刻が迫り、今夜の見物はこれまで。実は、ここからがいよいよ本番で、町の辻々では、「付け太鼓」と呼ばれる小太鼓を持った裸男達が、町内の威信をかけて、我先に櫓に付けようと次々に突っ込み、激しい攻防戦を繰り広げ、迫力ある攻防が深夜まで続くのだそうだ。(写真:見事な遊泳)
 その辺の事情は宿に帰ってきたから読んだ資料で知るわけだが、”無知なるかは幸いなるかな”、その時は悔しい思いを抱くことなく、帰りのバスに乗った。後の祭りとはこのこと。




         (櫓先頭)
 
 明けて、4月20日は、からくり人形と屋台の回転と獅子舞を見た。屋台の上に若い衆が5人ほど乗り人形を操作する。屋台の回転は、屋台真下に膝を屈めてその仕組みを覗いた。もの作り日本の、伝統ある技術。私たちの国の、最良の部分の一つを眺められ満足。それを最後に飛騨古川を後にして帰路についた。(写真:からくり人形)
 

 


 

 


  (屋台は回転するときに車の一部は宙に浮く)


飛騨高山で

2014年04月25日 | 

 春の高山は初めてだった。45年ほど前の高山は日教組全国教研集会の真冬。昨年は真夏に訪れた町並み。どちらも、そぞろ歩きには向かない季節の訪れだった。その反動だろう、今回は、訪れた当日の午後、翌日の早朝と午前中と、三度も市街を散策した。分けても19日(土)の早朝散歩は寒かったが、スキットした気分でのそぞろ歩きだった。

 18日(金)、弘法山古墳を12時10分発の車は14時20分には宿泊ホテル「アルピナ飛騨高山」に到着。まずは市内見物に出かけた。高山駅を背にして真っ直ぐに進むと宮川に出あう。高山の中心部分をゆったりと流れ、鯉が泳ぐ清流。そこに架かる中橋付近での桜は満開。佳きときに訪れたことを実感していると、物凄い数の、それも外国人の一向に出会った。街中で聞かれる声は母国語よりも外国語の方が多い。人も“満開“なのだ。そぞろ歩きには程遠い雰囲気なので、散歩は早めに切り上げ、夕食の食材を求めてスーパーへ回った。(写真:宮川に架かる中橋)







 夕食は、妹が自宅で調理してきたおでんと、買い求めた刺身での部屋食。このホテルの部屋は広く、9階の展望風呂は温泉で、高山市街が一望のもと。設備も整っていて真新しい。このホテルが気に入って、ここの会員になってしまったほど。

 明けて4月19日(土)、私ひとり、早朝5時50分に宿を抜け出し、宮川の朝市へ。朝市のスタートは朝6時からなので、まだお店はちらほらだが、朝食のオカズにと、赤かぶとラッキョの漬物を購入。その後、宮川の支流江名子川へ。こちらは川沿いに、見事な桜が、細い流れを覆っていて、風情が増す。行き交う人との朝の挨拶も軽やか。


 高山は天領だった。中心市街地には江戸時代以来の城下町・商家町の姿が保全されており、その景観から「飛騨の小京都」と呼ばれ、商都市として発展・興隆して来た。その面影の残る古き町並みを眺めながら、1時間半ほどで宿に戻った。
 朝食も買い込んでおいたパンで済ませ、10時に再度街中へ。宮川朝市は大きな賑わいを見せていた。実演販売の店が多々ある。私たちは駄菓子”げんこつ”を買った。昔食べた懐かしい味。屋台会館付近では、妻へのお土産に“渋草焼き‘のコーヒーカップを大枚4000円を叩いて購入。この旅直前に患い、無念の降板をした妻への細やかな慰め。
 昼食は有名な高山ラーメン。40数年前に、ここのラーメンを感激しながら味わったと
いう友人の話ほどの味ではなかった。かくして、幾ばくかの散財をした飛騨高山を後に、一路神岡城を目指して北上を開始した。





         (江古名川の流れ)




        (早朝の、古き町並み)


津和野町と文京区のゆかり

2014年04月22日 | 東京散歩

 淡墨桜を眺めようとする旅は、弘法山古墳→飛騨高山→神岡城→飛騨古川(古川祭)と巡って、一昨日の20日(日)に帰宅した。流れからすれば、今回のブログには飛騨高山を登場させるはずであったが、事情があり、後日に回す。

 
4月7日(月)に石見神楽を観た際の文京区長の挨拶が気になっていた。津和野町と文京区を繋いだ人物として紹介されたのは森鴎外以外に坂崎出羽守と津和野藩主だった亀井氏。大阪夏の陣で、大阪城落城の際、千姫を助け出したと伝えられる坂崎出羽守は津和野藩の初代城主。助け出された千姫は文京区にある伝通院に眠る。町と区の両者を結び付ける話としては些かこじつけの感を拭えないが、それはそれで分かる。
 
もう一つは、廃藩置県の際の城主だった亀井氏と区の関わり。亀井家は明治期に入り、屋敷を小石川区丸山町に居を構えたと話されていた。その話を聞いた翌日、千石2丁目を早朝に散歩したが、それらしき建物は見当たらなかった。丸山延寿会の方に電話で聞いてみたが分からなかった。
 4月16日(水)に行われた「文高連総会」には区長も出席した。懇親会の席で、直接区長にその話を確かめた。亀井氏は明治になってから伯爵となり、その屋敷が現在の千石3丁目、かっての丸山町にあったとの話であった。亀井氏別荘に格段の興味があったわけではないが、気になってしまった謎。解いておきたかっのでネットで調べた。
 ”旧亀井伯爵屋敷”で検索し、漸く到達した情報によれば、屋敷は、現在の千石3丁目37番地(旧丸山町八番地)にあったとのこと。そこは、かって散策時に見たことのある、ひときわ目立つ洋館の建つあたりであった。通り一つ隔てて「伊勢五」という米屋の建物が登録有形文化財に指定されている。やや苦労して知りえた結果が、かって散策した一角にあったとうい意外。(写真:千石3丁目37番地に立つ洋館。旧亀井伯爵邸ではないらしい)
 あそこだったのかと、4月17日の朝撮影に出向いた。そこはすでに宅地分譲され高級住宅が立ち並んでいて、洋館は現在は天理教の分教館で、かって亀井家が住んでいた洋館も和館はすでに取り壊されていた。

 
    (「千石界隈」より拝借の写真。旧亀井邸右が玄関)


 (『東京たてもの伝説』より。使用人の記憶に基づく、大正時代の亀井邸配置図)

 森まゆみ、藤森照信共著に『東京たてもの伝説』なる本があることも知った。「同潤会アパート」や「平塚千鶴子邸」などと並んで「旧亀井茲明伯爵邸」訪問記が載っている。亀井茲明は明治16年、小石川丸山町のこの地に引っ越し、翌年、邸が完成。明治36年には周りの土地をも購入し、道路に囲まれたブロック全体が亀井家所有の土地であったという。地図から推測するに優に3000坪を超えている。亀井家は、東京大震災の翌年までここに住んでいた。
 実は茲明は、孝明天皇の側近だった堤哲長の三男で、16歳の時に亀井家の養子に入った。その実兄が、建築家として名高い松ヶ崎萬長。私が昨年8月に訪れた青木周蔵那須別邸は彼の唯一の遺構。旧亀井家洋館も彼が建築設計した可能性が高いとあった。区長の挨拶から出発した連鎖は、青木周蔵遺構へと繋がっていった。(写真:昨年見学した青木周蔵那須邸の端正な建物)








     (やや斜めからの撮影)

 
 (建物内部)           (青木周蔵が利用した乗り物)


弘法山古墳の桜

2014年04月20日 | 

 今、妹夫婦と飛騨古川に来ている。狙いは、日本三大桜の一つ、岐阜県本巣市に咲く梶尾谷淡墨桜(うすずみざくら)の鑑賞。同じメンバーで一昨年は山梨県にある神代桜を観た。昨年は三春の滝桜見学に福島を訪れた。その延長で、三春の途中で、「来年は三大桜最後の淡墨桜」と決めていた。しかし、その訪問の時期を誤ったようだ。ネットで調べると花は既に散っていた。
 昨年の初夏に、妻と飛騨古川の宿「季古里」を訪れた際、ここで4月19日から20日にかけて古川祭りが開催されるこを知り、その魅力に惹かれ1年前に宿の予約をしてしまった。桜の時期と重なることを祈っていたのだったが、ネット情報では既に桜は散っているとのことで、その代替を求めていた。
 北軽井沢に別荘のある妹たちが、多分長野地方のテレビ番組を見たのだろう、松本に「弘法山古墳」があり、桜の名所であるという情報を得ていた。松本方面を通るこの旅で、そこに寄って見ようと事前計画を一部変更しの出発だったが、運よく「弘法山古墳」の桜満開の時期に出会えた。

 一昨日の4月18日(金)、7時20分に駒込の我が家を、義弟運転の車で出発し、中央自動車道経由で塩尻北IC下車、弘法山には10時40分到着。雨模様の天気が幸いしてか、途中渋滞に合わず、3時間20分の比較的短時間で目的地に着いた
。更に幸運な事に到着直前に雨は止んでいた。
 標高差50mはあろうかという小高い丘の“山頂“を目指すと、弘法山は全山が桜に染まっていた。昨年行った花見山も山一面の花々だったが、ここは桜のみ。ソメイヨシノと枝垂れの二種類の花が、ピンクの濃淡を色分けていた。
 この古墳は前方後円墳で、山の尾根筋の一部に盛り土をして造ったと、謂れが書かれている。古墳時代の、3世紀の最古級のものだそうだが、誰を祀っているのかは書かれていない。ただ北アルプスを見渡す、広大な墓はこの地方を支配した人物を埋葬したものであろうとの推測が記されていた。
 この日、残念ながら北アルプスの山々は見渡せないが、眼下に松本市街を望み、今年何度目かの花見を楽しんだのち、
安房トンネルを抜け、一路飛騨高山を目指した。