マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

Dr.肥沼信次のこと(その2)

2017年12月31日 | 

 昭和20年代、ラジオ番組に『尋ね人の時間』というのがあった。第二次世界大戦中に連絡が取れなくなってしまった人の特徴をアナウンサーが読み上げ、消息を知る人や、本人からの連絡を待つ番組だったように記憶している。
 村田全教授がコエヌマ・ノブツグなる人物を捜そうとした頃にはラジオの『尋ね人』は既に無く、彼が利用したのは「マリオン」だった。1989年11月のベルリンの壁崩壊1ヶ月後の12月14日に朝日新聞別刷り「マリオン」紙上の尋ね人欄に次の主旨の記事が載った。
「故コエヌマ・ノブツグ医師(漢字不明)のご遺族、ご親類の方。1909年生まれで、第二次世界大戦後の数ヶ月間、ドイツ辺境でソ連軍管理下の町、チフス大流行のリーツェンの医療センター長として献身的に努力。ついにその病に倒れ、1946年に客死。リーツェンの人々は立派な墓を立て、今なお献花が絶えません。町長さんらが捜しているそうで、東ドイツ学士院のピアマン教授から依頼されました」(写真:ドキュメント「リーツェンの桜」より)
『大戦秘史 リーツェンの桜』の著者館澤貢次氏が肥沼信次なる人物を知ったのもこの記事だった。しかし、誰からも連絡は入らなかった。諦め切れず、第2回目に投書した「マリオン」の記事を肥沼の従兄弟の子供さんが偶然にも目にした。彼から肥沼の実弟・栄治さんに電話が入った。その知らせは村田教授を通じて、ヴリーツェン市長シーベルなどに知らされた。

ドイツでDr.肥沼の身元を熱心に捜していたのが、フンボルト研究所の所長であるピアマン博士。栄治氏はピアマン教授宛てに「肥沼信次」の履歴書と研究論文のコピーを送った。それを見てピアマン博士はさらに驚かされた。彼は肥沼信次がフンボルト財団の奨学生で、戦前のベルリン大学に籍を置いた学生であることを知った。ベルリン大学の同窓であった。燈台もと暗しだったのである。(上の写真の市庁舎は、第二次世界大戦後に伝染病医療センターとして利用されていた施設)
栄治氏は1991年には100本の桜の苗木を贈った。1993年にヴリーツェンを訪ねた館澤氏は50本が育っていることを確認している。
『大戦秘史・・』のあとがきで、館澤氏は次の様に書いている。
 
「・・・肥沼栄治夫妻は1994年7月8日、ヴリーツェンを訪れて、1937年春、横浜の桟橋からドイツに旅立った兄・肥沼信次の眠る墓を訪ねた。栄治さんにとって57年ぶりの悲しい再会である。・・・」と。
 読後私は思った。悲しい再会であっても栄治氏は救われたのではないかと。彼の母ハツさんは何も知ることなく、亡くなっていた。

地中深く埋もれた輝石から発せられた微かな光に導かれるようにそこに到達し、ダイヤモンドを見出した人は、そのダイヤモンドの輝きを伝えたいと強く思ったであろう。村田教授然り、川西名誉教授然り。館澤さんも塚本さんもそうだったろうと思う。
ドイツのセントヨハネッタハイスクールと、野球部が昨年夏甲子園出場を果たした八王子高校は姉妹校提携を結び、交流を深めているという。後世へもダイヤモンドの輝きは伝えられつつある。
 「誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある」は肥沼信次が尊敬したアインシュタインの言葉だそうな。
 皆さま良い年をお迎え下さい。新年は元旦から書き始めます。


Dr.肥沼信次のこと(その1)

2017年12月28日 | 

ドイツとポーランドの国境の町ヴリーツェンで献身的な医療活動を続け、今なお市民から敬愛され、名誉市民ともなったDr.肥沼の偉業は、母国日本に伝わることは殆ど無かった。第2次世界大戦後、ヴリーツェンは東ドイツに属することとなり、ベルリンの壁が情報をも遮ってきたことが大きな原因だと思う。
Dr.肥沼についての情報が伝えられたのは、大学に客員教授として招かれた元立教大学教授村田全氏や現桜美林大学名誉教授川西重忠氏を通じてだった。

 1989年、ベルリンの壁崩壊。ドイツ・フンボルト大学の客員教授の時に肥沼の墓を詣でた数学思想史の学者村田全氏は、Dr.肥沼がすべての患者を思いいたわり、励ましの言葉をかけ、誰からも信頼され尊敬されていたことを知った。帰国後、村田教授は朝日新聞の「マリオン」での尋ね人蘭に投稿。それを通じ、肥沼信次を知った館澤貢次氏は取材を重ね、1995年に『大戦秘史・リーツェンの桜』を著した。肥沼信次を知ろうとする人の基本書と言われている。






 一方、3年半にわたってドイツに滞在した、川西重忠桜美林大学名誉教授は、帰国後講演活動を続けるかたわら冊子『八王子の野口英世 ドクター・コエヌマを知っています』を著し、先ごろ『日独を繋ぐ“肥沼信次”の精神と国際交流』を出版した。
 二人に共通するのは、ドイツ人に愛された日本人がいる一方で、日本ではそのことが全く知られないという落差に驚き、そのことを日本で伝えようと決意したことだ。
 テレビでは『アンビリーバボー リーツェンの桜』が放映され(You Tubeで見られる)、今年に入っては、25日の日本テレビで『ドイツが愛した日本人』という番組が放映されたそうな(「轟亭の小人閑居日記」より)。

 私は、塚本回子さんから贈られた『日独を繋ぐ・・・』に載った講演を基に、川西氏が奇跡的にもDr.肥沼の墓にたどり着いた物語を綴ることにしたい。
川西氏は訪独直前、大学の先輩から“ドイツに行ったらリーツェンにある肥沼信次の墓を訪ねて欲しい”との葉書をもらった。帰国直前のある日、肥沼信次という名前とリーツェンという地名だけを手掛かりに、教え子夫妻の車でベルリンを出発した。ベルリンの北東140キロの地点にあるリーツェンを訪ね、墓地を捜し回ったが墓は見いだせなかった。
諦めて帰り掛けた頃、老婦人が声を掛けてくれた。その婦人によると、肥沼の墓のある場所はここではなく、更に北西へ80kmのところにあるヴリーツェン(Wrietsen)の町だとのこと。発音が似ているリーツェン(Lisezen)に行ってしまったのだった。川西氏たちは「何故、肥沼について貴方は御存じですか」と尋ねると、驚いたことに「私は、幼い頃肥沼先生にチフスの予防接種をして貰ったお陰で命を救われました」と返答。(写真:ヴリーツェン市内にある肥沼信次の墓)
 一行はヴリーツェンの町に到着し、広大な共同墓地を見て回った。肥沼の墓碑を見いだせず途方に暮れていると、向こうから二人の婦人がやって来て、「あなた方は日本人ですか」と聞いて来た。経緯を話すと「私は、肥沼先生の下で看護婦をしていました。名をヨハンナ・フィードラと言います」と言った。彼女たちは肥沼の墓と顕彰碑の場所を教えてくれた。
偶然出会わせた二組のドイツ人は、ある人は命を救われ、ある人は先生の下で働いていたという奇遇。その出会いが無かったら墓にたどり着くこともなかったろうし、その後に続く長いドラマも展開しなかったかも知れない。(写真:テレビドラマ『リーツェンの桜』における一場面。右側がヨハンナ)
看護婦(現在は看護師)ヨハンナと出会えたことは更に大きな意味があった。肥沼の様子を直に聞くことが出来たからだ。彼女はこう述べている「1946年の3月に、ある難民の避難場所に治療に出掛けた時のことです。まさに地獄のような阿鼻叫喚の場所に私は入ることが出来ませんでした。しかし先生は平気でずかずかと入っていき、重症患者から順に診ていかれたのです。あの時の先生は勇者の様でした」と。
川西名誉教授は講演の最後に「ベルリン郊外の地方都市で神のように慕われ続けている事実があることを今日は報告させて頂きました。ヴリーツェンと八王子が肥沼を絆として、いつか結ばれる日がくることを期待して待ち望みたいと思います」と。
その日から15年の歳月を経て、両市は友好都市として結ばれ、肥沼の顕彰碑が建てられた。幾つもの偶然と粘り強い活動の結果だと思う。
蛇足ながら、私は大学時代に、村田全先生共著『数学の思想』(NHK出版)を読んだことがあった。50数年の時を経て、又先生の名に接するとは思いもよらないことだった。


Dr.肥沼と塚本回子さん

2017年12月25日 | 

 八王子へ足繁く通うになり、何人かの魅力的な方と巡り合った。そのお一人に「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」代表の塚本回子さん(右写真は東京新聞より)がいる。Dr.肥沼信次と聞かされても知らない人の方がはるかに多いだろう。その詳細は後日書き綴るとして、簡単に略歴を記しておくと、








「1908年、八王子に医者の子として生まれた肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)は日本医科大学を卒業後東京大学で放射線医学を研究。1937年にドイツに渡り、ベルリン大学放射線研究室で研究に励み、数々の優秀な論文を提出する。  
 1945年3月、ベルリン陥落直前、日本政府はベルリンより全員帰国の指示を出すと、肥沼は説明会に顔を出したものの、退去の日に顔を出すことは無かった。肥沼が再び姿を現したのは半年後の1945年9月。終戦後のヴリーツ
エン伝染病医療センター所長に就任した肥沼は、チフスなどの感染症が猛威を振るうなか献身的に治療活動に当たり、多くの患者の命を救った。最後には肥沼自身が発疹チフスに罹り、1946年3月8日、37歳の若さで死亡した。“日本の桜が見たい”との言葉を残して。肥沼に救われた、多くのヴリーツェンの人々は今も彼の墓を守り続け、1992年、市は肥沼に名誉市民の称号を与えた」 

 ベルリン自由大学での2年間の招聘期間中にこのことを知った川西重忠氏(現桜美林大学名誉教授)はDr.肥沼の偉業を多くの人に知って貰おうと、講演活動を始めた。2005年2月ころ、NHK八王子文化センターでの講演を聴講した一人に塚本さんがいた。
 こんな偉大な人が地元の八王子にいたことに驚き、感動した彼女は、その年の11月には八王子ボランティアネットワークの仲間とヴリーツェンを訪ね、肥沼の墓に詣でた。現地では名誉市民となるなど敬愛の気持ちが受け継がれていることを知った。
 帰国後、ヴリーツェン市と交流を深めるため友好都市になるよう市に申し入れたが事態は思うようには進まなかった。2015年に「伝える会」を発足させ、肥沼の偉業を知って貰うための地道な講演活動も続けてきた。
 市制百周年の今年、状況は一気に進んだ。7月には両市が友好交流協定を結び、9月には顕彰碑が完成した。10月には市は市制100周年記念式典で肥沼を特別顕彰し、ヴリーツェン市長等を式典に招聘した。(写真:顕彰碑)










 今年の10月、2年振りに塚本さんと再会した私は、その時初めて顕彰碑のことなどを聞かされた。多分その序幕式でも塚本さんが挨拶をしたと思う。思い立ってから12年の歳月が流れていた。そこに至るまでには多くの方の絶え間ない努力があったことだろうが、常に活動の中心にいたのが塚本さん。決断力と実行力。それにリーダシップを兼ね備えた方だと、私は会うたびに感じている。
 12月13日(水)、八王子に出掛けた帰り中町公園の顕彰碑を訪れた。“お帰りなさい Dr.肥沼”と書かれた碑。そのことを伝えるメールの返信は次の様にあった。








 「市から頂いた、90センチ四方の土地にどんなものを建てられるか随分皆で検討しました。・・・桜が見たいと言った言葉から、使う石は国産で桜色と決めて探しました。“お帰りなさい、Dr.肥沼”の字は実行委員の一人が心を込めて筆で書いてくれました。ドイツの方が見てもすぐに分かるようにドイツ語で“お帰りなさい”も入れました。(右写真参照)
 7月の調印式でヴリーツェンに行ったときには、顕彰碑のレプリカを、調印式の日付を入れてお持ちしました。10月にお出で頂いたヴリーツェンの市長さんからは『あのレプリカとこの顕彰碑に今、虹が架かった』と嬉しいお言葉を頂きました」とあった。
 顕彰碑は市民による手作りの運動の証でもある。


再びの倉賀野宿で五貫堀を歩く

2017年12月22日 | 

 もう一度倉賀野宿を訪れたかった。五貫堀を歩き、烏川河岸跡を見たかった。
 一人、籠原駅から高崎線を北上し倉賀野駅で下車。スーツケースを預けようと駅員に一時預りの場所を聞くと、「駅構内にも周りにもありません」とのこと。確かに、下車した南口側の駅周辺に店舗は全く見当たらなかった。止む無く、私は中山道沿にあった「倉賀野おもてなし館」まで歩くことにした。(写真:倉賀野の中心街)


1ヶ月ほど前に、3人でここを訪れた際に時刻前に開館して頂いたことを話すと、「思い出してきましたわ」と応えてくれた女性は館長さんだった。五貫堀を歩きたい旨を告げ、荷を預かって頂くことをお願いした。(写真:倉賀野おもてなし館)




 五貫堀は長野堰幹線用水路を倉賀野で分水し、この地域の水田を潤した用水路。館の直ぐ脇で中山道と立体交差していた。暗渠化される以前は、水車が設けられ、魚獲りも出来たそうな。「英泉画」に水車が描かれていることから、その水路が五貫堀かと推察した。今は暗渠化されているが、右写真に見るごとく凹形を為していて、かつての川底のその下が暗渠。川底に降り、まずは下流の烏川岸へと向かった。

 烏川はこの辺りでは川幅も細く、倉賀野河岸の面影は残されていなかった。江戸時代初期に、幕府から公認され、江戸湊から50里の船路は、上りには塩・茶・干鰯などが、下りには廻米・煙草・板材などが輸送されたそうな。明治17年の鉄道開通で急速に衰えた。碑は建てられていたが、それは「烏川護岸工事完成記念碑」だった。
 やや
荒涼たる風景を眺めてから踵を返し、堀の上流へと向かった。ところにより石造り両岸を眺めるだけの散策だが、私は充分に満足した。物好きと人は思うかも知れないが・・・。時間の余裕がなく、途中で引き返し、「丁子堂 房右衛門」で“あさドラ”と名付けられたどら焼きと最中を買った。館に戻り、「観光ガイド」について尋ねた。ボランティアガイドさんがいるとのこと。今回は回れなかったが九品寺や倉賀野城跡なども含め、倉賀野散策の案内をお願いしたいと思った。(写真:養報寺)
 撮影した写真
 
    (丁子堂 房右衛門)

 
     (五貫堀川の碑)

 
         (中山道に架かる太鼓橋)

 
     (長野堀幹線用水路の図)

 
        (掲示板より。倉賀野河岸跡の碑)


深谷に宿泊し、佐野橋を渡る

2017年12月19日 | 

12月16日(土)~17日(日)、私ひとり、Iさん家に宿泊し、深谷から佐野橋・倉賀野へと足を延ばした。
 Iさんに「パソコンでの音声入力」の方法を聞きたかった。スマホでの音声入力は簡単に出来たが、パソコンでの音声入力は自力では出来なかったので教えて貰うのが主目的での宿泊訪問。到着後直ぐに作業開始。Iさんは自分のパソコンでは実現していたが、私が持ち込んだ「Surface」では最終目的地には到達出来なかった。ただ、その操作過程の中で幾つかの事柄を学んだ。
 現バージョンの「Surface」は音声入力を受け付ける能力が弱い。OSがAndroidのスマホ活用の方がベストであること。Iさんの持っている、性能の良いICコーダーからならば、私のスマホへの、正解率高い音声入力が可能、などなど。今後に活かしたい。(写真:性能の良いICレコーダー)
 その話が一段落して倉賀野の話になった。私は『中山道 浪漫の旅』を見せて、「佐野橋」を渡ってみたいことと、倉賀野の「おもてなし館」が素晴らしかったことを話した。ここ深谷から群馬方面への道に詳しい彼は直ぐに、車での佐野橋までのアプローチルートを思い描いていたらしい。

 17日、朝9時半Iさん家出発。川越街道(国道254号)を北上した。川越街道が延長されて、国道254号線となり松本まで続いている、とは知らなかった。10時50分頃、倉賀野宿とは反対側にある烏川右岸に到着。そこに烏川に架かる木橋の佐野橋があった。
 『浪漫の旅』には《『東路記』に「佐野舟橋を渡せし川有。名所なり古歌多し」と書かれ、北斎は「諸国名橋奇覧・上野佐野舟橋之古図」を描いている。烏川の舟橋があったとされる地に、現在は幅3m長さ90mの歩行者専用の木橋が架かる》と書かれ、その写真も載っている。11月に中山道を歩いた時にそれは読んでいたが、中山道からはやや外れ、そこを訪れる時間がないので断念していた橋。写真を見て是非渡りたいと思った橋だった。(写真:北斎画)

 橋を渡り、流れを見ると、澄んだ清き流れ。遥か彼方には上信国境の山脈が見渡せ、直ぐ目の前には線路が架かっていた。程なく二両編成の鉄道が通過。高崎と下仁田を結ぶ上毛電鉄上信線だった。橋を渡ると「佐野のわたし駅」が見えてみた。私でも知っている定家の「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮」(新古今)の佐野は残念ながらここ群馬の佐野ではないらしい。(写真上:佐野橋)

  
  

 駅に掲げられた看板から「鉢木」の舞台になった地であることを知り、電車を待つ人から「常世神社」の場所を聞いた。そこには「鉢木」の主人公佐野源左衛門常世の家跡に建てられた神社。小さい神社ながら碑が多数。 




昼食に「石焼ラーメン」なるものを食した。Iさん夫妻お気に入りのラーメンとのこと。高温に熱された鍋に麺と具が入っていて、そこへラーメン汁を注ぐと、汁は沸騰し、大きな音を伴い蒸気がモウモウと立ち昇る。用紙を持ってその蒸気を遮った。東京では見ない風景。食すると、野菜が豊富で美味しいラーメンだった。下北沢に21軒目の支店がオープンしたそうな。
 彼ら夫妻とは籠原駅で別れたのが14時過ぎ。まだ時間があるので、ひとり倉賀野へ向かった。