マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

六義園の池の水は何処へ流れ去りしか(海老床地図から その2)

2017年05月30日 | 江戸の川・東京の川

 六義園の景観の中心を為す池”大泉水”。ここの水の水源は明らかで、多摩川⇒(羽村)⇒玉川上水⇒(境橋)⇒千川上水⇒(西巣鴨:千川上水分水堰)⇒六義園と流れ来ている。
 では何処へ排水されたのか。暫く前まではネット上、二つの説がぶつかりあっていた。即ち次の2説である。
 A説。現在は暗渠となっている谷田川(下流で藍染川と名が変わる)へと流がしていた。
 B説。江岸寺・圓通寺門前を通り、東洋大学を経て、鶏声ヶ漥に抜け、後楽園で小石川と合流していた。
 最近、ネットを見ると論争は無くなり、B説との推定がほぼ定着していた。私もB説であってほしいと思い、その根拠となる“物”を捜しに六義園の南側をうろうろしたことがあった。”物”は、意外にも“海老床地図”に書かれていた。右図はその地図上の圓通寺付近の記述だ(青い線で囲んだ)。
そこには次の様に記されている。
 「コノ下水は柳沢甲斐ノ守下邸ノ池カラ出テ来ル物デ末ハ鶏声ヶ漥ノ虎ヶ橋ヘ落チルノデ夏大雨が降ルト此側ノ寺墓場ハドコモ出水スルナリ」と(原文のまま)。











 圓通寺上流にある江岸寺山門前の右写真は、そこに川が流れていたことを示す橋跡で、その川の水源はその上流にある井戸かも知れないし、六義園の池かも知れないと迷っていた。海老床地図はその疑問に決着を付けてくれるものだ。








 右の写真は「文京ふるさと故郷歴史館」が主催した“坂道 ぶんきょう展”のときに撮影した写真に赤線を書く加えたもの。赤線は六義園から流れ出し、往時の小川(紺色の線で描かれている)に流れ込んでいたと思われる流路。この紺色の線の部分を歩くと、この辺りは沢であったことが直ぐに分かる、窪んだ細い道で、東洋大学正門に繋がる。
 さて“鶏声ヶ漥”とは何処か。『ぶんきょうの坂道』中“曙坂”に次の文が見える。
 「・・・東洋大学の北西に曙町という旧町名の町があった。この町の南の方に里俗に鶏声ヶ漥(けいせいがくぼ)といわれるところがあった。明治二年(1869)に町ができて「鶏声暁にときをつげる」という言葉から、あけぼの(暁とおなじ)をとり町名とした・・・」とあり、鶏声ヶ漥は曙坂と比較的近いことが分かる。曙坂は誠之小学校脇から指ヶ谷方面へと下る階段の坂で、要するに白山下から指ヶ谷方面に掛けての白山通りは窪地で、その辺りを鶏声ヶ漥と呼んでいたと思われる。
 千川上水から引水されていた六義園の水は、文京区役所付近で、千川上水から流れ来た小石川と合流したのだ。(小石川の水源は谷端川だったが、ある時から千川上水からも引水した。)


円通寺の石碑(海老床地図から その1)

2017年05月28日 | 街道を行く

  江戸時代の髪結床の系譜を引く理髪店「海老床」の十代目店主嶋村八十八氏は”海老床地図”中、1935(昭和10)年7月付けで次の様に記している。()内は私の注。
 「明治42(1909)年の3月頃、東京名所図絵の内本郷区之一部を一冊友達より借りて見るに、昔の駒込冨士浅間と神明宮付近の絵図有りければ父に見せしに、ほぼ此様なりしが違ふ所も多しとて詳細に語りければ、此の話絵図に描きたらば昔を偲びて面白からんと暇あるごとに父に聞きて下書きをなし・・・」とある。すなわち、八十八氏が父上から聞いた話を絵図に書く加えて下書きし、その後、安政年間(1854年~1860年)に設定し浄書したものが”海老床地図”である。その地図は2015(平成27)年に文京区の文化財に指定され、教育委員会によって調査されて報告書が出された。(写真:現在の海老床さんのお宅はそれなりの雰囲気が漂う)







 その地図を飽かず眺めていて気が付いた、ミクロな事柄から書き始めたい。その手始めが円通寺の石碑だ。

 海老床地図を片手に岩槻街道(地図上には日光街道と書いている)を日光方面に向って旅するとしよう。文京区浅嘉2丁目を過ぎると、街道左手には定泉寺・目赤不動・養昌寺などの、現存する寺が次々に現れ、やがて右手に大きな山門を構える吉祥寺が見えて来る。吉祥寺も過ぎると、左手に大運寺。そのお寺さんを過ぎて直ぐを左折すると、円通寺表門通となる。その角に「石ひ」と書かれている。(右図参照。K点の左側)
 実はその角っこ(K点と表示)には、現在、なんと富士前福寿会々長の小林さんが住んでおられる。彼はこの地には小学生だった昭和20年代前半から住んでいるとのことなので、ひょっとしたらこの石碑に付いて知っているかも知れないと思い聞いてみた。



 彼曰く「私が小さい頃石碑はあった。その石碑目がけて野球のボールを投げて遊んだものです。ボールが当たらないとボールは本郷通りを転がった。車の通りが少ない頃だったから気軽に通りに出たね。そのうち、円通寺参道(地図上は表門と記載されている)に車が通る様になり、石碑は邪魔だということになり、円通寺さんが、寺内に移した。その石碑は寺を入って直ぐのところにあるよ」と。これは凄い”証言”だと思った。(写真:現在の円通寺表門通り)











 石碑にボールを投げぶつけるなどしてバチはあたらなかったのだろうか。輪投げのコントロールの良さは少年時代のこの鍛錬に由来するかもなどと余計なことを思い巡らしたが、それは兎も角、早速、通り突き当りにある圓通寺(現在の寺名)に行って見た。石碑ありました。(右図)。表には「文殊大吉 観音大吉」と書かれ、裏側には芭蕉三世弟子”大蟻”とやらの一句が彫ってあった。図らずも安政年代の石碑に巡りあったのでした。(写真:左が石碑の表側。下は圓通寺正面入口)
 
                                                   

   
     (石碑の裏側)                   (圓通寺境内)

  


”海老床地図”に出会う

2017年05月26日 | 読書

 本当は、今朝5時には第2回中山道行に出発するはずだった。それがこの数日間、激しい咳に苦しめられ、断念した。昨日その旨を同行の熊倉さんに電話すると「ぎっくり腰で、車運転が辛い」とのこと。その話を聞いて中止にすることが気楽になった。秋に再スタートの予定だが、果たして???。妻曰く「軟弱鬼の霍乱ね」と。
 ブログも「中山道に出掛けるので暫く休みます」と短く綴る予定だったが、急遽変更。数回連続で書きたいテーマーがあった。それは”海老床地図”。

 我が家は昔名で言えば岩槻街道(現在名本郷通り)に面している。江戸から日光方面に進むとして街道の左側に位置し、通りを挟んで向かい側に、江戸時代から続いていた「海老床」があった。その10代目の嶋村八十八さんが作成した安政時代の地図がある。その様な地図があるらしいとは、風の便りに聞いてはいたが、最近その地図に2度もお目にかかった。
 「お殿様の散歩道」を「こまじいのうち」で語る前日「地域活動センター」のサロンで『安政年代駒込冨士神社周辺之図及び図説
』(文京区教育委員会発行)を見た。それは”海老床地図”についての区の文化財調査報告書。正式名称の代わりにここでは”海老床地図”と略す。
 更に「お殿様の散歩道」の翌日、「こまじのうち」に預けておいた資料を取りに行くと、主の秋元さんから「こんな面白いものが手に入りました。一緒に研究を始め始めましょう」と手渡されたのが”海老床地図”。それはコピーし、報告書はシビックで購入してきて、ことあるごとに眺めて飽きない。地図が好きなのだ。
 
その地図には、大まかに言えば本郷通りの、吉祥寺付近から染井辺りまでの、安政年代の岩槻街道とその道沿いの様子とが描かれている。その地図の謂れや、私自身が発見した面白い事柄は今後数回に分けて綴りたい。(写真:下は海老床地図のほんの一部)

 

            
 今日の四葉(富士前公園付近のお宅のバラ)
  

  


春日大社から「海北友松展」へ

2017年05月24日 | 映画・美術・芝居・落語

 奈良旅行3日目、この旅行で初めて早朝の奈良を散策した。
 朝散歩にはうってつけの場所に宿泊していたにも拘わらず、夜行バスの疲れからか、体が重く朝は骨休めに当てた。ただ、奈良に行ったときには春日大社に参拝ようとは「春日大社展」を観て暫くしてから決めていた。そこで奈良を去る日の早朝に春日詣。5時半ホテルをスタートし、近鉄奈良駅前の通りを東へと進んだ。緩い坂道へと右折するとそこが大社への参道だった。
 


 左右には灯篭。時折鹿のお出迎え。人影は疎らで、厳かで森閑とした雰囲気が漂う参道を上っていった。鮮やか赤が基調の本殿へのお参りは、早すぎてまだ出来なかったが、やや離れた場所から参拝。帰りは一直線に坂道を下り、三条通りを通ってホテルへ。所要時間約1時間30分。






 JR奈良駅前で妻達と合流し京都へ。京都国立博物館では「海北友松」展が開催されていた。妻から、京博では”かいほう ゆうしょう”を観るのよ、と言われても、その名前の漢字をはじめ、どんな絵師のことだか全く分からないというテイタラクでの、貴方任せの絵画鑑賞だった。しかし、ど迫力のある作品を鑑賞出来たことで大満足だった。 





 海北友松は1533年に生まれ1615年没した。その膨大な作品群76点が展示されていたが、その中で強い印象を受けた3点に触れてみたい。
 近江浅井家の家臣・海北家の男子として生まれた友松は3歳にして京都東福寺に喝食(かっしきORかつじき)として出家。信長に主家浅井家や兄が滅ぼされるに及んで還俗し、狩野派の門下に入り画の道に進んだと伝えられている。
 永徳の死後は、その影響から離れ、67歳で友松は、兵火によって灰塵となった建仁寺方丈の内部装飾を任された。そのとき描かれたのが右の「雲竜図」。今回の特別展でこれを鑑賞出来ただけで大満足だった。二頭の巨龍が墨だけで描かれている、スケールの大きな作品で、迫力十分だが、目だけ見ると愛嬌が感じられるところが面白い。

 関ケ原の戦いで、親しかった西軍の大名との関係を失った友松は、武士との関係は薄くなり、次第に公家との関りが深くなり、水墨画だけでなく金壁画をも描き始めた。妙心寺の「金卉図屏風」の右隻では牡丹が描かれ、彼の作品の中でも一番華やかでゴージャスな作品と言われている。写実的な作品と見え、「雲竜図」と同一人物の作品とは思えない絵画だ。(写真:金卉図屏風右隻)



 展示の最後は60年振りに里帰りした「月下渓流図屏風」。友松82歳・最晩年の作品と伝えられ、米国・ネルソン・アトキンズ美術館の所蔵作品。右隻で穏やかな流れの渓流の彼方に朧月が浮かび、左隻では勢い激しい渓流にと、描き分けられている。等伯の「松林図屏風」と同様、幽玄な雰囲気が漂う屏風だ。その幽玄な中に土筆やタンポポなどの色彩が美しい。(写真は最下段に)
 ここまでで、私は奈良美術行を終え、ひとり京都を後に勤務先へと向かった。

 
 

 


大和文華館へ

2017年05月21日 | 映画・美術・芝居・落語

 太閤園から藤田邸跡公園へと巡った私達は、大阪から奈良へとトンボ返りした。近鉄奈良線「学園前」で下車。この駅名は駅付近にある帝塚山学園からきているらしい。その正門前の道を沢筋へと下るとそこが大和文華館への入口で、そこから緩い長い坂を上ると初めて正面玄関が見えてくる。平屋建ての端正な姿の美術館だ。(写真:大和文華館玄関)





 ここでは4月14日~5月14日まで「国宝”松浦屏風”と桃山・江戸の絵画」ーー都市のにぎわいと成熟ーー展が開催されていた。前回訪れたときも感じたのだが、美術館といいそれを取り巻く環境といい、静かな佇まいが心地よい。訪れる人も疎らだ。
 大きな戦乱を経て泰平の世へと歩みを進めた桃山時代から江戸時代には、都市が発達し、力を付けてきた庶民を描いた風俗画が多数登場してきたそうな。その名も”都市のにぎわいと成熟”と題したこの展覧会の目玉は「松浦屏風」。正式名は「婦女遊楽図屏風」だが、平戸藩松浦家が所有していたことから「松浦屏風」の名で呼ばれることが多い。
 私は現物を見るのは今回が初めて。左右両隻の屏風の中に遊女ら18人が等身大に描かれている。誰もみな楽し気な面持ちで、色々な遊びに興じている。色鮮やかな屏風だ。

 私は、
右隻一番右端には碁盤が描かれているのかと目を凝らして眺めると、19×19の盤ではない。後刻係員に「あれは何ですか」と尋ねると、図録を用意してくれ、それを読むと双六らしい。右写真の様な盤で遊んでいる。これは、屏風に登場する図ではないが、黒石と白石が用いられていて、パット見には碁盤。平安時代を代表する室内遊戯には碁以外に、より庶民的で、流行したものに双六があったらしい。
 双六は今でこそ正月の子供の遊びに変わってしまったが、平安時代には賭事に使われて何度も禁令が出されたほど平安人が熱中した遊びだったようだ。「松浦屏風」の中の遊女たちは、平安時代に流行した双六盤で遊んでいるのかも知れないと想像を逞しくした。



 この展示では他に「阿国歌舞伎草紙」「伊勢物語図八橋図」など約50点もが展示されていた。その中で小田野直武「江の島図」に出会ったときは嬉しかった。昨年、サントリー美術館で「小田野直武と秋田蘭画の世界」で観た絵だったからだ。小田野直武に興味を持ち、彼を主人公とする『風狂の空』を読むと、蘭画に取り組む小田野直武が、苦心しながら遠近法を絵画に取り入れた過程が描かれていた。知らない人々の集団の中で旧知の人に会った感じだった。(写真:上が「オランダ海港図」。下が「江の島図」
 

 夕食はJR奈良駅付近にしようということになり、三条通りを物色散策。地酒を飲ませる「KURA」へ。単品の料理での夕食。私は地酒3点セット780円を味わったが、銘柄は覚えていない。奈良へ来たら又ここへと、3人のこの店の評価は◎だった。