マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

御嶽山噴火

2014年09月30日 | 山旅

 この項を書き進めるにあたって、まずもって、今回の御嶽山噴火により亡くなられた方々や災難に遭われた方々に、山を愛する者の一人として、衷心よりお悔やみを申し上げ、お見舞い申し上げます。

 そこで死亡したのは私だったかもしれない。重傷を負った
のは同行した山仲間であったかも知れない。そう感じた時に、今までの山岳遭難とは比較にならないほどの恐怖感に覆われた。かって10数年前に、山仲間4人と、この山頂に立った時は、火口付近を通過し、火口を見ながらの登山だった。自分が登った山での噴火という以上に、それが全く予知出来なかった遭難ということも、より大きく恐怖を感じた理由だった。
 登山中の方々にとって噴火に伴う噴石や火山灰に襲われるなどは全く想像外の事であったろう。噴火後山小屋に避難しようとした方々も多かっただろう。しかし噴煙は、運悪く、南東方向つまり王滝頂上山荘方向に向かったそうな。避難途上で、
背後から追われ、大きな噴石に直撃されたり、黒煙に覆われ、火山灰に巻かれ埋もれ、有毒ガスを吸われて倒れた可能性も推測されていた。
 避難した山小屋の屋根へも落石。生々しい映像で当時の恐怖状況が再現されていた。私がその場にいたならば、同じように恐怖心から右往左往しただけだっただろう。登山者は滑落や道迷いに因る遭難・雷・疲労凍死などは、これを避けようとして予め対策を立て、心の準備もしている。今回遭難された皆さんは、全くの不意打ちに遭われたのだ。


 今回の噴火はマグマ噴火ではなく、水蒸気噴火だった。水蒸気噴火の方が噴火予知がより難しいという。日本には110個の火山が存在し、47の火山には常時観測対象として監視の目が向けられている。焼岳・乗鞍岳・那須岳・白山・浅間山などは百名山に名を連ね、私が登った数々の山も火山だった。予知が難しいなら、今後これらの山々とはどう向き合えばよいのか?

 9月27日は、紅葉シーズンの土曜日。多くの入山者がいたことも災害の規模を大きくしている。30日現在の死者12名、心肺停止24名、重軽傷者59名とある。この方々以外にも連絡が取れていない方がいるという。今日会った教え子は、私が御嶽山に登っているのではと心配し、今日会ってほっとしてくれていた。
 今回、私が、自らの問題として反省したことは、日帰り旅行でもヘッドランプを持参すること。ヘルメットは持参した方がよい場合が多々あるということ。今までで実行してきて良かったと再認識したことは、登山計画書を必ず作成し、家族に渡して家を出、入山口に届けを出してきたこと。
 急がれるのは救助活動。予知が可能だったか否か、警戒レベルは1のままで良かったかも含め、しっかりとした検証結果を知りたい。

 


澤地久枝さんによせて

2014年09月28日 | 身辺雑記

 既にブログに書いたことだが、10月5日(日)に、都高教退職者会と都高教の共催で、「憲法学習会」と銘打って、澤地久枝さんの講演会を予定している。退職者会の各幹事は、出来るだけ多くに方に参加して頂こうと、現在、盛んに広報活動をしているところである。
 私は出来上がったチラシを添付して30名の方にメールを送信したところ、8
名の方から参加しますとの嬉しい返信を頂いた。「源氏の会」や「杉浦裁判控訴審 報告集会」などでもチラシを配布させてもらい、結局、私や妻の知人の方は合わせて11名もの方が講演に訪れる予定。
 そのメール文にも書いたことだが、澤地さんに初めての手紙を差し上げたとき、彼女の著作『密約』と密接な関連を持つ「秘密保護法」について、憲法的視点から語って頂きたいとの思いを綴り、講演引き受けも含め承諾の返事を頂いていた。
 しかし、テーマを最終的に決めるための、電話での直接会話では、彼女から「秘密保護法」に絞らない方が良いのではとのアドバイスを頂いていた。解釈改憲により「集団的自衛権」を目指す安倍内閣の危険な動きがより顕著になり、政治情勢に大きな変化が生じていた。そこで、急遽、会長や事務局長とも相談し、テーマ文を「解釈改憲を許さない ~日本を戦争する国にさせないために~」とに変更した経緯があった。
 皆さんへのメール文の後半では次のようにも記した。
彼女は、この9月3日で84歳になられました。そのお歳での、社会的発言と行動力。私たち「退職者会」としましても、そのお元気さの一端に触れ 行動への活力にしたいと願っています』と。

 その澤地さんが、テレビ番組BS-TBSの、関口宏「人生の詩(うた)」に登場し、インタビューを受けていた。偶然にもその番組を観たのだが、そこには、”凛とした”姿とは違った、着物姿ではあるが、普段着を着ているような、ざっくばらんな発言や身の上話が登場し、遙かなる高みにいた方が、少し身近に下りてこられるように感じられた。
 インタビューは出生から現在までを辿った。興味ある話題の数々は後日のブログに譲るとして、ここでは一つだけ記す。
 学生結婚をし、身ごもって父親の大反対で家出。離婚に至った理由を問われた時に、”欲望って、男だけでなく、女にもあるのよね”と微妙な表現をされていた。
 もう70年前の事を昨日の事のごとく語る彼女の発言からは記憶力の良さが、明晰な言語からは気力充実さが窺えた。心臓手術3回を経てのお体。そこを一番心配しているのは私だけではない。
 


 


『青崩峠』

2014年09月25日 | 読書

 “海に面していない長野県は幾つの県と接しているか?“。こんなクイズの問いがあった。
 正解は8つ。その一つ静岡県との国境の、秋葉街道の峠が青崩峠。その名前、人が使用を避けたがる“崩“を敢えて用いたのが面白い。「光満ちる遠江」と「みすずかる信濃の国」を分ける国境の峠。標高1082メートルの眺望絶佳の峠ではあるが、秋葉街道最大の難所でもあるそうな。
 峠は、中央構造線上による破裂帯になっていて、青というより、鉛色の大ガレ(崩壊壁)からは、ひっきりなしに土が谷間に崩れ落ちているとか。
 妻との間でまだ青崩峠を話題にしていなかった今夏に、妻は、お笑い芸人が実に難儀しながら峠を越える模様をテレビで観たという。その峠が後日話題になるとはつゆ知らず、不覚にも録画していなかったが、兎も角難所のある国道の一つとして、テレビ局は紹介したかったのだろう。その国道152号線に一時話は飛ぶ。

 国道152号線は上田市と浜松市を結ぶ、全長250キロほどの普通国道だが、実は2ヶ所で車不通区間がある。青崩峠と地蔵峠である。国道に常時不通の区間があるとはつゆ知らなかった。地図を見ると152号線は、長野県側でも静岡県側でも、峠直前で、車道としては行き止まりなのだ。地形の急峻さと地盤が脆弱なために道路・トンネルを通すことが出来ず、現在も未だ開通のめどが立っていないとか。だから車で県境を越えようとするなら、国道474号線などを使用して迂回しなければならない。(写真:峠の石仏群)

 





 152号線の行き止まり付近には駐車場があり、守屋辰次郎初義を祭る「足神神社」が置かれられている。そこからは、水窪町が造ったハイキングjコースがあるそうで、『・・・秋葉街道・・・』の筆者達は冬にも難儀を重ね、この峠”頂上”に立ったと記されている。山中には銘水「足神の水」も湧き出しているそうな。自らの足に大感謝している私としては、足の神に参詣し、足神の水を味わって見たい。(写真:雪の信州路。江戸末期には毎日40~50人がここを通ったとか)
 守屋辰次郎が出た守屋家は信州諏訪明神に仕えた神官の別れとも記され、この街道には諏訪神社と結びつく多くの史跡が残されてもいるという。その点も観察ポイントか。




 以下は青崩峠を下って遠山郷から和田への、手書き地図。下栗の里や小川路峠も散見される。



『秘境はるか 塩の道 秋葉街道』(文:有賀競 写真:野中賢三)を眺める

2014年09月23日 | 読書

 本書の表題は、秋葉街道の前に”塩の道”とある。宮本常一著『塩の道』などを併せ読むと、秋葉神社への参詣の道は、それ以前から塩が運ばれた道でもあったのだ。
 瀬戸内海方面で作られた塩は水路(海や川)で運搬可能な地まで運ばれ、そこから先は牛・馬などの力を借りて、時には人力で目的地へと運搬された。海に面していない信州は、他の国からの、峠を越えての供給を必要とし、その一つが太平洋に面した相良港からの”南塩”。日本海の糸魚川から千国街道を通って松本方面へと運ばれたのは”北塩”。上田あたりではその両方の塩が売買いされたという(『塩の道』より)
 北塩の道千国街道を歩いて初めて塩の道に興味を抱いた筆者有賀は、信州への、幾つもの塩の道を、カメラを携えて歩き回ってきた。その一つの秋葉街道の青崩峠で、旧友でフリーカメラマンでもある、やはり塩の道に取りつかれた野中と30年有余年ぶりの再会。以来、二人はともに塩の道を歩き始めたのだった。、

 特に二人が愛着を抱いた秋葉街道を取り上げ、本書が完成したのが、今から21年前の平成5(1993)年。二人が歩いた道の主なポイントを記すと、相良⇒掛川⇒秋葉神社⇒水窪(みさくぼ)⇒青崩峠⇒遠山郷(和田)⇒大鹿村⇒長谷⇒高遠⇒杖突峠⇒茅野⇒上諏訪⇒下諏訪⇒岡谷 で、信州側は、私が当初想定していた地域とほぼ重なる。

 まだ数章しか読んでいないが、特に写真が良い。そこで生活している庶民の表情が豊かだ。
 この道は、南北朝時代、宗良親王が南朝の拠点とした大鹿郷大河原へも通じる道であり、武田信玄が風林火山の旗をなびかせた道でもあった。そういった歴史遺跡が多く残り、名刹も多いことが写真を眺めているだけで分かる。

  
 
 思えば、私は信州側の道(今は国道152号線)の大部分を、そこが秋葉街道と認識しないまま、車で通ったことはあったのだ。殆ど歩いてはいないが・・・。この10月にも遠山郷と大鹿村を訪ねる予定だが、足腰の弱い妻と一緒。多分幾つかの拠点を訪ねての散策となり、街道筋を歩くくことは稀だろう。ただ、本書は定点鑑賞の際の、貴重な教科書となるだろう。
 今年は兎も角、数年のうちには、青崩峠を越えて見たいと、私は思うのだ。

 以下、筆者達が歩いた秋葉街道を赤線で。

 


『秘境はるか 塩の道 秋葉街道』(文:有賀競 写真:野中賢三)

2014年09月21日 | 読書

 8月18日、高遠へ向かう車運転中に”秋葉街道”と思い込んでいた道が、車ナビでは杖突街道と表示されていることを知り、秋葉街道について詳しく知りたくなった。まずはその始点と終点だけでも特定したいと思い、ネット検索をしたが、意外に明確にはならなかった。ホームページやブログを書く人によって内容が異なるのだ。後で知ることとなるのだが、秋葉街道は秋葉神社へのお参りの道。時とともに道そのものが変化し、神社さえも創建当時とは異なる場所へと移転していた。当然、国道152号線などの様に定義もされていない。人が呼称してきた、言わば俗称の街道名はその範囲の特定が難しいのだ。
 そこで、豊島区の図書館に出かけ、『長野県の歴史』や『絶景の街道』などを借りてきたが、はっきりとは書かれていなかった。
 漸くに思いついたのが、図書館のオンラインシステム。文京区の図書館のシステムだけではないだろうが、“秋葉街道”をキーワードにして検索すると、本の題名に“秋葉街道”の文字は登場しなくても、本文に“秋葉街道”が登場していれば、検索にかかる。文京区のシステムでは『塩の道ウオーク』が検索された。
 この本の著者は16日間かけて、太平洋側の相良港(静岡県)から日本海側の糸魚川までの430キロを徒歩のみで横断し、秋葉街道を①相良→遠山郷→小川路峠→飯田市とし、更にもう一本②遠山郷から北上し杖突峠を超えて岡谷市までと規定していた。この道中記は大変面白く、現在読みかけているのだが、残念ながら、大鹿村や高遠の経由のルートは登場してこない。しかし参考文献として、表題の本をあげ、「文章、手書き地図、写真の三位一体は傑作の名にふさわしく、読み始めたら寝食を忘れるとはまさに本書のことである」と絶賛している。
 これは是非読もうと、いくつかの区の図書館に検索するも見当たらず、最後は“古書店”に検索し見出した。その値段だが、最高値4000円、最低値1500円と幅広いのにびっくり。勿論1500円のものを購入したが、昨日漸く届き、眺め始めたところである。
 この街道の最難所”青崩峠”の写真が美しい。(右上の写真)