マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『わたしを離さないで』(著:カズオ・イシグロ 訳:土屋政雄)を読む

2011年03月30日 | 読書

 発端のときは1960年頃、処はイギリスの田園地帯にある施設「ヘールシャム」。物語の主人公の一人で、優秀な介護人キャシー・Hの、ヘールシャム時代への回顧から物語はスタートします。
 生まれ育ったヘールシャムでの親友トミーやルースとの葛藤や交歓の日々。しかし、そんな日々の学校生活のなかで、生徒達はある疑問を感じ始めます。図画工作に力を入れ過ぎる授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度・・・。次第に事の真相を感じ取っていく彼らを前に、ルーシー先生は突発的に真相を語るのです。
 『あなた方の人生はもう決まっています。これから大人になっていきますが、あなた方に老年はありません。中年もあるかどうか・・・。いずれ臓器提供が始まります。あなた方はそのために作られた存在で、提供が使命です。・・・・』と。。それは生徒達がうすうす感じ取っていた事柄であったことから、
その話を聞いて、生徒達に大きな動揺は起こりませんが・・・。

 クローン人間として作られ、”提供”者の介護人となり、その後提供者としての使命を果たして、終えるという宿命。普通の人間となんら変わらない感情や外見を有しながら、セックスを交わしても子供は作れないという無情な運命。クローン人間に、劣悪な生活環境ではなく、より”人間的”な生活環境を確保しようとの理想に燃えて作られた施設が「ヘールシャム」なのでした。

 物語はヘールシャムとそれに続くコテージでの、主人公3人、キャシーとトミーとルースの織り成す青春の物語でもあります。仲違いして一人コテージを去り、介護人として生きて行こうとするキャシーは、10数年の後、提供者となったルースやトミーの介護人として再会。トミーと2人して捜しあてた家で、マダムとかっての先生に再会し、疑問に感じてきた幾つかを問います。先生と交わす問答から、個人の物語として語られて来た独白が、普遍性のあるテーマ(遺伝子工学に係る倫理の問題)として浮かびあがってきます。


 静かで端正な語り口で始まり、どこにでもありそうな人間関係が丹念に語られるなかで、作品世界の奇妙なありようが次第に見えてきます。奇妙な世界が見えて来た後にも続く端正な語りから、主人公達の切実な思いがひしひしと伝わってきて、知らず知らずのうちに彼らに感情移入してしまい、心揺さぶられます。SFとも言えますが、近未来に起こるかも知れない物語として読み終えました。
 
  
 (付記 著者カズオ・イシグロは日本で生まれた後渡英。以後日本とイギリスの二つの文化を背景に育ち、1989年発表の「日の名残り」でイギリス文学の最高峰ブッカー賞を受賞しました。またこの作品は映画化され現在上映中です)


 


都会の秘境トンネル河川を往った日(その2)

2011年03月28日 | 江戸の川・東京の川

 11時過ぎ、船は市兵衛河岸船着場からスタートし、神田川を上流へと遡りました。残念ながら、川面は澄んでいません。少し黒味を帯びていますが、近年、川の浄化装置が大幅に改善され、不潔ではなくなり悪臭も漂わなくなったそうですが、清流とはほど遠い感じです。


 まずは「三崎町中継所」を通過。実はここはゴミの中継所。千代田区・文京区・台東区から排出される不燃ゴミは、ここ三崎町中継所までは清掃車で陸路運搬され、ここからは船(=艀=はしけ)に積み込まれます。その後、神田川を下り、中央防波堤不燃ごみ処理センターまで運ばれ、そこで再資源化されるのだそうです。(三崎町中継所と艀)




 三崎町中継所を通過後暫くして、水道橋2号分水路吐口到着。ここからいよいよトンネル=暗渠に入ります。かって、神田川は幾たびもの氾濫を繰り返してきました。その対策として川幅を拡幅してきましたが、川幅を広げる土地は既にありません。土木技術の発達によって、地下へ川を振幅するという方法が可能になり、分水路は、洪水を防ぐために地下に作られた、第二の神田川なのです。トンネルの幅は非常に狭く、高さもさほどありません。船頭さんの腕の見せ所に差し掛かりました。(写真:分水路入口)

 その分水路の中ほどまで来たとき、案内人石坂さん、突然「船の電気を全て消します。真の闇を味わってください」と。分水路は船の航行を想定して作られたものではないので、照明など一切ありません。照明を落すと、真っ暗に。光の全く射さない暗闇の世界があらわれました。潜ること700mで又神田川に戻ってきて、ほっとします。

 船は高速道路の真下を通り、普段見慣れた光景とはまるで違う景色を楽しんでいると、船河原橋でUターン。ここからは神田川の流れに沿って下ります。(高速道路の真下。以下3葉も船から見上げる地上風景)

















 後楽橋・水道橋など馴染みの橋を過ぎると、御茶ノ水の掘割です。江戸時代、神田川は本郷台地を貫く大工事の末、放水路として切り開かれました。船はその
名高い掘割の箇所をゆっくりと進みます。普段御茶ノ水橋から眺める見慣れた風景がアングルを変えて眼の前に展開されます。今回のハイライトです。
 (御茶ノ水橋下を往く。前方に聖橋が)




 聖橋を潜り、丸ノ内線・神田橋梁を潜る寸前には地下鉄も姿を現しました。ここを過ぎて再度方向転換し、市兵衛船着場まで川を遡ります。乗船時間1時間10分で、あっと言う間に暗渠を巡る船旅は終了しました。(聖橋を見上げる)






 案内人石坂さんと思しき方の、当日の案内記は以下のブログに登場します)
 
http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-680.html



    (地下鉄丸ノ内線・神田橋梁と聖橋)


    (橋を通過する丸ノ内線)


    (御茶ノ水橋下では梅が満開)


都会の秘境トンネル河川を往った日(その1)

2011年03月26日 | 江戸の川・東京の川

 私においては、3月11日以前の時間感覚が狂っているようです。僅か1ヶ月前のことが、随分前のことのように感じられます。昨日(3月25日)お会いした知人との会話の中でも、その事を思い知らされました。このブログにも書いた河津桜見学に出掛け日、2月上旬かと勘違いしていましたが、手帳をめくると2月27日(日)、今からほぼ1ヶ月前でした。
 午後に東京駅から天城高原方面に向かったその日、午前中は神田川を船で上下していました。文京区の広報に、区とJTB共催の「暗渠の王様 都会の秘境トンネル河川を往く」なるイベントが募集されていました。巡る川は神田川と書かれていましたから、参加費4000円ながら迷わず申し込みました。
 
 当日の集合は水道橋東口10時半。定刻には30名弱の参加者が集い、そこから市兵衛河岸船着場までJTB係員の誘導で歩き、そこで乗船し、渡されたコースルートを見ると次の様になっています。
 市兵衛船着場⇒三崎町中継所⇒水道橋2号分水路通過⇒船河原橋で分水路を出る⇒神田川を下る⇒小石川通り架道橋⇒後楽橋⇒御茶ノ水橋⇒聖橋⇒丸の内線・神田川橋梁⇒反転、神田川を遡上⇒市兵衛河岸船着場

 神田川と暗渠を単純に結びつけて、神田川にも暗渠の部分があり、そこを船で潜るかなと考えていましたが、このルート地図を見て、そうではなくて、神田川の洪水を防ぐことを目的に、実質的に川幅を広げ
、本来の神田川と並行してトンネルの放水路を設け、そのトンネル部分を暗渠と呼んだのだと初めて認識しました。(私達が乗る船)




   (水道橋から神田川と乗る船を撮影


   (神田川はモーターボートも走ります)
 
 11時、案内人の石坂善久氏が登場。プロフィールによれば、水運時代への興味から、小型モーターボートで東京とその近郊の川や運河を巡る水路愛好者とのこと。まずは自己紹介から始まりましたが、スタート前からいきなり興味ある話が飛び出しました。ここ市兵衛河岸船着場は、実はその昔、小石川と神田川がほど直角に交差した地点だったとのこと。神田川から南の方向を見ると、凹形の、小石川の痕跡らしきものが見え、ここが両川の交差した場所であったのかと、それを目撃出来たことに大満足。(写真:市兵衛船着場。神田川より小石川を見る。この奥に小石川が流れていた)
 11時過ぎ、いよいよ船はスタートしました。


観音開きに留め金を

2011年03月24日 | 身辺雑記

 知り合いで、マンションに住む方や同じマンションに住む方と、今回の大地震の様子の話を交わすと、皆一様に「揺れが激しかった」と語ります。それも階が上に行くにつれて、その揺れは大きかったようです。食器が半分は割れましたとか、テレビが落ちましたとか、パソコンが机上から落下し使い物ならなくなりましたとか話されます。余震に怯えている方もいます。我が家でも、棚から本やファイルや花瓶が落下しましたが、被災地の惨状と比較すれば、何というほどの事ではないでしょう。
 それでも何点か室内を改善しました。割れ易いもの、重量のあるものを出来る限り棚の下にも持って来ました。不要な陶器や磁器などは思い切って処分しました。11日以来、少し日常のルーチンが滞り、断捨離の日程を決めるのも忘れていました。壊れたものの整理や、不要と思われる食器の処分が結果として断捨離になっていましたので、今月の、改めての断捨離は中止しました。
 改善点のもう一つは観音開きに留め金を取り付けた事。父の職業は大工で、目黒雅叙園の建設に携わったこともあるのですが、自慢ではありませんが、私は手仕事はいたって不器用で、大工仕事系は苦手。困ると、家人から見ての義理の弟に、遠路はるばるお出で願って、多くの仕事をやって貰います。蛍光灯の総付け替え・衛星放送のアンテナの装着・別荘での扇風機を天井に取り付ける工事等、挙げ出した限がありません。

 ただ唯一ドライバを用いネジを取り付けることだけは得意です。中学を卒業して就職した職場で、ドライバーを用いての作業が非常に多かったからです。”偽札鑑定器”の組み立てでは来る日も来る日もドライバーを用いてネジを捻じ込んでいました。家人の”おだて”に乗せられて、何箇所かの観音開きに留め金を取り付け、並みの揺れでは扉が開かないようにしましたが、すっきりした出来栄えではありません。「見栄えはどうでもいいんだ。開かなければいいんだ。開かなければ」とひとりごちています。


荒川の瀬替え

2011年03月23日 | 江戸の川・東京の川

 甲斐の国(山梨県)、武蔵の国(埼玉県)、信濃の国(長野県)の3県の境に跨るが故にその名を冠せられた甲武信ヶ岳、標高は2475mにして百名山の一つ。甲斐の国へ流れる水は富士川として太平洋に注ぎ、信濃の国へ流れる水は、千曲川から信濃川と名前を変えて日本海へと流れ込みます。武蔵野の国へと下った水は荒川として東京湾へ流れ下ります。まさに甲武信ヶ岳は分水嶺なのです。
 その甲武信岳を水源とし、東京湾を河口とする荒川は、幾たびかその流路を変えてきました。鈴木理生著「江戸・東京の川と水辺の事典」や東京新聞出版局発行の「荒川新発見」によれば、瀬替えは何度か行われたが、大きな瀬替えは2つあったと。一つは明治44年から開削が開始された荒川放水路によるもの。もう一つが江戸時代初期の寛永6年(1629年)に着手された大改造です。
 徳川幕府は、寛永6年、関東郡代の伊奈忠治に、熊谷の久下(くげ)付近での「流路の付け替え」=瀬替え工事を命じます。それ以前の荒川は、今の川筋ではなく、その東側にある現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(現古利根川)に合流し江戸に流れ込んでいました。それを、荒川の西を流れる和田吉野川を経て入間川に水が流れ込むように、流路を人工的に作り替え、それまでの荒川を”封鎖”し、せき止めたのです。
 それに先立つ元和年間には、利根川を江戸から外し、銚子へと流路を変更させる改修工事も伊奈家に命じ、世に言う「利根川の東遷、荒川の西遷」が江戸時初期から進められ、利根川と荒川の荒ぶる二大河川の流路は遠ざけられたのでした。「荒川西遷」の狙いは狭山丘陵からの木材運搬路の確保と、埼玉平野の新田開発の為であり、「利根川東遷」の目的は、実は江戸への洪水防止策としての治水工事ではなく、日本海沿岸地方から内陸河川を通じての東回り廻船航路という安定した、安全な航路の確保にあったと言われています。
 問題は「荒川西遷」によって、新荒川流域の農村に洪水が押し付けられたことです。その根本的解消は荒川放水路完成までの長い年月続きました。

   (利根川と荒川の流路の変遷:「埼玉県の歴史」より)


 久下で堰きとめられ、(=頭を失い)、歴史の表舞台から消してしまった
旧荒川に眼を転じると、旧荒川は、塞き止められた近辺の涌水を水源として、過去よりは狭い川幅ながら、ムサシトミオと言う名の小魚を育み、田畑を潤し、桜並木を咲かせ、地元住民に愛され 越谷市で中川に合流し、東京湾に注いでいます。その源流のある久下の堤防そばの研究センターは熊谷市にあります。深谷市に住む義理の妹夫妻を訪れた折に、この川沿いを是非散策したいと、今から胸膨らませます。