マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

16歳の頃

2023年09月30日 | 闘い

 妻の預金口座の名義変更と同時に、妻名義の貸金庫の解約の手続きも取らねばならなかった。解約の当日、貸金庫に保管してあった少々のものを持ち帰る時に、一枚の写真に気が付いた。忘れていたが、記念にと大事にとっておいたのもので、16歳の私が働いていた頃の写真。ほぼ66年前の私の写真だった。
 1957(昭和32)年、私は中学を卒業すると同時に「日本光学㈱」(現在名ニコン)に就職し、その付属の「技能養成所」に入所した。
 午前中は国語・数学・物理など高校生が学ぶものとほぼ同じものを学び、午後が作業実習だった。学びながら普通に給料がもらえるということで、この養成所の人気は高かった。その年の中卒男子の入所者は35名で、入所すると一方的に職種が決められていた。35名は機械工・仕上工・検査工・レンズ工・塗装工などに別れ、それぞれの職場に配属された。
 ただ、機械工8名と仕上工8名の16名は、工場のある建物とは離れた箇所に建てられた「実習所」と名付けられた場所での訓練・生活・学習などが行われていた。私の職種は仕上工だから実習所で過ごしたことになる。この実習所生活にも大分慣れてきた翌年の2月頃、鬼よりも怖い落合所長から「川口、教官室へ来い」と呼ばれた。又何かミスをして大目玉を食うのを覚悟で教官室に入ると、小言ではなく「こちらの方は産経新聞社の記者さんだ。質問にちゃんとお答えしなさい」と言われ、後はその記者さんと2人だけになった。「中学を卒業して1年ほどたった今、皆さんがどんな生活をしているか知る為のインタビューです。率直なお話を聞かせて下さい」との挨拶があった。
 後で知ることになるのだが、産経新聞社は1カ月ほど前から「中学をでて1年」という企画を始めていて、私が5人目の“工員のまき”だった。私の前には寿司職人見習いさんや、バスガール―さんが登場していたらしい。インタビューは30分程度で済んだろうか。その内容が1958(昭和33年2月19日)の産経新聞の記事になり、所長を通じて私にも渡された。
 内容は兎も角、新聞が必ずしも真実を伝えるのではないなということを16歳の身で知ってしまった。記事にはインタビューの内容が載っているのではなく、私の手記の体裁をとった記者の書いた文書が載っていた。更に、私は仕上工だから鑢かボール盤を使って作業をしているはずなのに、それでは絵にならないと考えたのだろう、颯爽と旋盤を操作している写真が載っていた。はっきり言ってこれは事実ではない。
 それはそもかくとして、内容は概ね正しかった。「つらい仕事と勉強」、「日曜日はねるのが楽しみ」との見出しを見ると、青春時代とは思えない自分がそこにいる。私の書いた文章ではないが、私が書いたことになっている文章を以下に綴る。興味のない方は読み飛ばしてください。
 『父が戦死し、母と妹の3人ぐらしです。東京生まれで、東京そだちですから、中学時代とくらしのてんでは、そんないにかわりはありません。この会社では、養成所で高校と同じくらいの学力をつけてくれますから、進学しなかったことはあまりきになりません。一番つらいのは朝6時に起きることくらい。それと数学・化学・物理の予習や復習を、仕事の後でやらねばならないことがちょっとこたえます。
 あと2年養成所にいて、それから1人前になるわけですが、いまでも、会社の忙しいときはセンパイたちにまじって、お手伝いをしています、勤務時間は8時から4時までで。しっかりした一人前の技能者になれるよう、実習と学科で過ごす毎日です。給料は手取りで七千円もらっていますが、中学出としてはいい方とのです。
 中学のときと、うんとかわったことは、日曜日に昼頃まで寝ていることです。好きな映画も中学のときよりみなくなりました、生活がいそがしくなってヒマがないんです。数学と物理などの学科はとくいなのですが、どうも実習のほうはあまりとくいではありません。それでいまいちばんこころがけ努力しているのが、なんとかしてこの実習をうまくなる、ということなんです』で終わっている。 
 記者が去った後、所長曰く「お前をインタビューに向けたのは、お前が一番ソツがないからな」と。どうも養成所内の出来が良いから選ばれたのでなかったらしい。私がニコンを退社したのはこれから3年後だった。


野火止用水行を再開(その2)

2023年05月14日 | 闘い

 新座市は水道道路が小金井街道と交差するその先にあった。事前学習したことによれば、新座市には野火止用水の分水点が幾つも存在するということだった。西武池袋線を越えて暫く行くと「西堀・新堀コミュニティーセンター」があった。地名にも“堀”が多く用いられている。ここで休憩をとった。野火止用水の資料が展示されているとも聞いていたが、見たところ係員が2・3名の小規模な出張所で、展示室も私たちの訪問を知って係りの方が照明をつけてくれた。多くの写真とともに新座市での野火止用水の全貌が分かる古地図が展示されていた。新座市の様々な資料を頂戴したが、有難いことに、そのなかに『野火止用水散策マップ』(右写真)があった。自然と歴史を巡るコースが3つ紹介され、見どころが多数載っていた。以後はこのマップを導き手として進むこととなった。

 そこから1kmほど進むと「史跡公園」があり、そこが分水点だった。左行けば本流堀で、右すれば平林寺堀に続いていた。その更に右にここまで続いていた水道道路が真っ直ぐ伸びていた。平林寺堀は公園内を流れているが、水流はかなり減少していた。公園内には埼玉県知事だった畑和の筆による『清流復活』の碑が建てられていた。清流は10年の空白期間をおいて昭和49年に復活し、碑は53年に建立されていた。(写真:分水点)


 公園から先は自動車道路から離れ、田畑や樹林帯の中を進んだ。川歩きがより楽しく感じられるときだ。そこに突然高速道路が現れた。関越高速道路だ。妹から用水と道路が交差するのを高速道路上自動車内から見たことがあると聞いていて興味をもったことだった。写真に撮ってきた。私の想像だが、基本的には用水路をあまり動かさず、傷つけないように、その下に高速道路を掘ったのではなかろうか、と私は推測している。(写真:野火止用水下に中央高速道路)


 そこから先の用水は開削された当時のままの様に感じられる作りになっていた。陣屋通りにぶつかると用水は平林寺境内へと姿を消し、空腹の私たちは右折して昼食場所を探した。幸いにも「さか重」という蕎麦店が営業していて、天ぷらとそばを肴に飲む生ビールは格別に美味だった。
 次回は本流堀を歩く予定だ。




オトコの料理教室へ

2023年04月12日 | 闘い

 富士前福寿会の冨田さんから「川口さん!今度オトコの料理教室で修業しませんか」とのメールが届いたのは3月10日のことだった。炊事に難儀していた私は、これは励ましを兼ねた有難いお誘いだと感じ、直ぐに「お願いします」と返信した。その時から丁度1ヶ月後の4月10日(月)に今年度第1回目の例会が「アカデミー向丘」で開かれ、私は期待を込めて参加して来たのだった。その感想は一言で表すならば「参加出来てすごく良かった」である。
 「オトコの料理教室」とは世間向けの呼び名なのだろう。文高連の一組織「味わいクラブ」が正しい名称で会員数は25名ほどか。調理を主目的とした、全員が男子のクラブだ。既に富士前福寿会に所属している私は準会員として迎え入れて頂いた。実は5年ほど前に行われた『文高連創立50周年記念祝賀会』の時に「味わいクラブ」の方々とは同じテーブルを囲むという御縁があった。
 さて当日、参加者14名は全員がエプロンをかけ、頭に三角巾を被って4つの調理台の周りに立った。程なく講師の先生からお声がかかり、メイン調理台の前に集合。レシピが渡された。そこにはこの日に調理する料理が3つ書かれていた。(写真:炊きあがった炊き込みご飯)
 ①竹の子と牛肉の炊き込みご飯 
 ②和風ロールキャベツ 
 ③茹でキャベツのごま和え 


 配られたプリントには〈材料〉と〈作り方〉が紹介され、それに基づいて先生は説明を加えながら実際に調理して見せてくれた。その説明を聞いてから、私たちは調理台に戻り、4人が協力しながら調理を進めた。多くは私ほどの年齢の方々で、多分ここの古くからの会員だろう、手際が良かった。特にリーダーがいるわけでないのに滞りなく調理が進んだ。私も包丁作業とか皿洗いなど自宅でこなしている作業をやった。午後1時の開始から約1時間45分ほどで、全品目完成。(写真:和風ロールキャベツ完成間際)

 会話を交わしながら食事が始まった。私のテーブルの他の3人の方は偶然にも塩見小学校卒とか。年齢もほぼ私程度で、和やかな会食だった。余ったものはタッパーに入れて持ち帰り夕食にした。②の和風ロールキャベツはキャベツを茹でながら葉を一枚一枚剥がしていくのが難しそうだが、①は私にも出来そうなので、近々にやってみる積りだ。





 


ルービックキューブ、再び(その2)

2022年08月26日 | 闘い

 ルービックリベンジは1982年に、プロフェッサーキューブは1991年に発売された。私はどちらのキューブも発売されると直ぐに購入し、6面完成を目指して操作を始めた。ルービックリベンジと呼ばれたキューブは、多くの人にルービックキューブが完成されてしまったことへのルービック氏の“復讐”の思いを込めて名付けられたとか。理論上はルービックキューブより1,000,000倍以上の難易度のあるキューブとの触れ込みであったと記憶している。(写真はプロフェッサーキューブ)



 プロフェッサーキューブの場合、中央の9個からなる正方形を、6面全て完成してしまえば、あとはルービックキューブの解法と同じように進めれば良いのではとの推測した。(写真:中央正方形部分に注目)







 操作を繰り返し、何度も失敗を重ねたが遂に六面の色合わせが完成したのだ。やった!と大喜びした。
しかし、それは糠喜びだった。何度も繰り返すと上手く完成する場合と、あと一歩の手前で挫折という場合が半々の割合で現れるのだ、挫折の場合はあと1個1個の交換が出来ればいいのだが、それが出来なかった。(写真:完成一歩手前。当時はここから先に進めなかっいた)





 本棚の片隅に置いておいた、当時操作したキューブを見てみた。30数年前の有様がそのまま残っていた。右図はプロフェッサーキューブ完成一歩前で終わっている。この解決のため長時間を費やしたがあと一歩届かなかった。あと2個のキューブの交換が出来れば完成だが、それが出来なかった。全く忘れていたが、その無念さの思いが保存され、残されていた。(写真:当時のままのプロフェッサーキューブ)




 今回はズルをしてネット上で攻略法を学び、プロフェッサーキューブ完成させた。(当時、これ以上進まなかった状況図。現在は解決方法を学び、完成に至っている)
 
 当面の間、ブログ更新を休みます。



 

 


江戸城外堀跡を歩く(その3)

2022年07月01日 | 闘い

 6月1日(水)午前中に「江戸城外堀跡 地下展示室」を訪れた。ネットで東京メトロ虎ノ門駅11番出口を出た処に石垣跡が、そこの地下に江戸城外堀跡の展示室があることを知り、勇んで出かけて行った。

 江戸城の低地側の外堀は石垣で囲われていた。それらの遺跡は殆ど残されていない。外堀完成から200年ほど経過した安政時代の地図上に、石垣らしき印を眺めるのは楽しい。地図に描かれた石垣による外堀は右図で赤マーク“→”で印を付けた部分である。
 現在の日本橋川に相当する部分では雉子橋から竜閑橋までは堀の両側に石垣が施されている。しかしそこから先の東京駅から新橋駅に至る外堀通りに相当する部分では江戸城の内側にのみ石垣が見られる。兎も角、安政時代の地図をみて、実に長い長い石垣堀が造られていたことに驚くのだ。


 地下鉄三田線を内幸町で下車し、外堀通りを西に向かい、桜田通り(国道1号線)と交わる辺りで地下鉄虎ノ門駅の地下に潜る。目的の場所は11番出口にあるのだ。この日はうっかり11番出口の外に出てしまうと、目の前に立派な石垣が見えた。それは有難かったが、まずは地下展示室でこの石垣の概要を知ろうと思いエレベーターで展示室へ。(写真は虎ノ門駅11番出口そばの石垣)






 地下室の出窓からも先ほど見た石垣が見られるように出来ている。説明版によると、石垣は寛永13年に築かれたものだが、部分的に不揃いな積み方があることから、幾度も改修されたと考えられるそうな。(写真:地下展示室から見える石垣跡)


 もともとこの堀は、石垣として高さ9m(実に高い石垣だ!)ほどの石垣が続いていたが、ここでは長さ20m、高さは7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部を埋め戻し、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施したとか。又石垣正面には石を削った矢穴や構築大名を示す刻印も見られる(右図)。詰め替えられた石は丸の内一丁目遺跡のものも使われていた、との記述もある。







 最近読み始めた『江戸城外堀物語』(著:北原糸子)によれば「・・・江戸城の石材はそのほとんどが真鶴も含め、伊豆半島に求められた。・・・」とあるように、江戸時代に伊豆半島は江戸城専用の石山とされてきた。現在の西海岸と呼ばれる地域にも東海岸と呼ばれる地域にも、石を切り出す生産現場“石丁場”があった。切り出された石は波打ち際に停泊している筏に積み、沖に固定されている石船まで運んだと記され、その絵も展示されていた。