マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

5中運動会を見る

2015年05月31日 | 政策

 3月20日のブログに、今年で荒川5中は“卒業か”と書いたが、“留年”となってしまった。今年も、原則として水・金の午前中の出勤。第一回目の勤務が5月29日(金)で、その日の4時間目は運動会の予行練習。女子はソーラン節、男子は組体操の練習。私も校庭に出て間近にその様子を見学した。女子の演技はキビキビした動きで、安心して見ていられたが、男子の組体操は未完成の域だった。特に三年生のピラミットは3回試みて全て失敗。3段が組み上がると直ぐに崩れてしまうのだ。生徒たちからの「是非もう一度」の声で、「成功しても失敗してもこれが最後」と念を押された最終回。何とか成功したのだが、さて翌日の本番はどうなるか不安だった。その翌日の30日(土)、運動会を見学に行った。



 小学生の頃、徒競走は出ると負けで、運動会は大嫌いだった。ところが、中学生となって、東京新聞の配達を始めたところ、店主から「お客さんに早く届けるには走って配れ」と言われたことが、結果的に良った。負荷を掛けながらのランニングと同じ効果を生んだのだ。その結果、2年と3年の運動会では1500メートルに準優勝。以来運動会が好きになった。後年、向丘高校でのクロスカントリ大会参加の為の練習がランニング好きに輪を掛けた。息子の保育園では、保護者のリレーには進んで参加。向丘高校では陸上部の顧問だったこともあり、スタートのピストルを鳴らしたりして、運動会を楽しんで来た。運動会見学は久しぶりだったので、前から楽しみにしていた。

 中学校の運動会を見るのは20年振りだった。高校の運動会との違いが多々あった。高校と比べて、生徒たちの動作がきびきびしていた。徒競走など皆全力疾走で、これは見ていて気持ち良い。高校では各クラスがユニホームを作っていたが、中学では、あるいは荒川5中の特徴か、教員とPTAのみがユニホームを作成して、お揃いの姿だった。PTAのユニホームには「一致団結」と書かれ、いやが上にも求心力が増すことなる。観客席を見渡すと家族連れ、子供さん連れの多いことに気が付いた。高校に比べ地域との密着度が遥かに高い。当然ながら親同士の会話が弾んでいる。(写真:右が教員の、下がPTAのユニホーム)




 見学していて面白いのが1500メートルと学年全員リレー。親の声援も熱を帯びてくる。騎馬戦や棒倒しなどの格闘技はないが、男子の棒引きでは荒々しい動きも見られた。午前中の最後が女子全員によるソーラン節。見事に演じ切り万雷の拍手を受けた。 さて午後の最初が、男子の組体操。三年生の組体操が成功するか否か。皆が注目する中で,右写真の6段のピラミットが見事に成功。女子に劣らない拍手を受けた。彼らにとって最後の運動会は良き思い出として残るだろう。
 私はここで帰路についた。この日は30度を超える暑さ。生徒たちは、炎天下で何種目にもわたっての登場にもかかわらず、どの演技にも全力投球で、午後になっても疲れを見せなかった。若いからと言ってしまえばそれまでだが、“心をひとつに運動会”目指して全員が頑張っている様子が強く感じられた。5中の伝統の力を運動会でも見ることが出来た。


区議選が終わって

2015年05月28日 | 政策

 区議選が終了し、1ヵ月あまりが経とうとしている。ラジオ体操に参加している当選者から聞いた話では5月7日が文京区々役所への初当庁で、今回初めて当選した4名の新人研修も終了したそうな。
 文京区々議選の期間中に、候補者3名の方が富士神社のラジオ体操に顔を出していた。引退して後輩にバトンタッチをされた方の姿もあった。皆、選挙目当てではなく、いつもの様に、普段の延長線上での、ラジオ体操へ参加。それもあってか、皆さんの候補者への目は温かく感じられた。
 投票券が3枚欲しいと語った人もいた。開票の翌日のラジオ体操参加が怖いと言っていた人もいた。体操参加者の候補者のなかで、落選した人がいたら何と声を掛けたらよいかを心配していたのだ。政党・政策よりも、人や人情に重心が傾く傾向がある区議選。
 開票結果は? 富士神社ラジオ体操会場に顔を出しいてる候補者は全員当選。開票翌日は笑顔が多かった。「富士神社の御利益だ」と冗談を述べた人もいた。

 ここで地域自慢を述べれば、文京区は23区の中で投票率が一番高かった。しかし、49.93%と5割を割っている。これは大問題だ。全国の自治体首長選挙の低得票率も、投票する側の問題だけではい。

 選挙期間中に、候補者の中に同じ姓の人がいた時の、票数をどう数えるかが話題になった。無効票は別にして、姓だけ書いて名前がない票をどう配分するかの問題だが、一時的に、均等割かとの結論が出掛ったが、文京区の広報に選挙結果一覧が乗り、姓が同じ候補者数人の場合の票割は、「小数点以下は 按分切捨て票」と書かれていた。

 例えばA氏B男とA氏C子の3例を書いてみると 
 (例1) A氏B男 200票  A氏C子 100票  A氏とのみ書かれた票が3票なら
      B男の法的確定票は 200+3×200/(200+100)=202票   同様にC子の法定確定票 101票

 (例2) A氏B男 200票  A氏C子 100票 A氏とのみ書かれた票が5票なら
      B男の法定確定票は 200+5×200/300=203.333        同様にC子の法定確定票 101.666

 (例3) A氏B男 198票 A氏C子 99票 A氏票とのみ書かれた票が8票なら
      B男の法定確定票は 198+8×198/(198+99)=203.333   同様にC子の法定確定票 101.666

 この辺り分かりずらいという方は、飛ばして最終数行をお読み下さい。
 同じ姓の候補者が数名いて、その姓しか書かれていない場合でも、上の様な按分方式で法定得票数は確定する。

 逆に法定確定票から、按分に回った票(=姓のみ書かれた票)を確定出来ないかと考えた。
連立方程式を立てれば問題が解決すると考え式を立て、計算を始めようとして止めた。上の例2と例3の両方の様に、法定得票数が確定しても、按分票が2通りある場合があり、この問題の解は多数あること(不定解と呼んでいる)が予測されたからだ。

 しかし、何か上手い方法は無いかと考え続けてきて、エクセルに頼れば解決するかと思い至り、具体的なある問題の解決を試みた。
 今回の文京区議選でA姓B男氏に相当する方の法定確定票は2216,210票で、A姓C子氏に相当する方の法定確定票は1793.789票で、両者の合計数 4009.999票。 これは両者への得票数とA氏とのみ書かれた票の合計が4010票ということだ。B男氏・C子氏ともに小数点以下が循環しない小数なので、表計算ソフトエクセルで解決が可能かと考え、エクセルで表作成した。

 下の票は、横にC子氏と書かれた票数を、縦にB男氏と書かれた票数を記入し、その時のC子氏の法定確定票の計算結果の一覧表を作成した。その数値が1793.789となるセルを捜すと、あつたのだ!!
 C子氏 1792 票。B男氏 2214票 の交叉する欄(=黄色のセル)を見てほしい。法定確定数1793.789と一致するではないか。この結果、A姓のみ書かれた名前無き票は4010-(2214+1792)=4 と推定出来た。

 結論を書けばA氏に投票した方のうち、名前を書かずに苗字のみA氏と書いた票は4票と推定できる。全体の約0.01%であった。


丹沢縦走を終えて(その2)

2015年05月27日 | 山旅

 塔ノ岳から丹沢山を経て蛭ヶ岳から焼山へと、南北に延びる稜線を丹沢主脈稜線と呼ぶのに対し、蛭ヶ岳から檜洞丸・大室山を経て菰釣山(こもつるしやま)・三国山へと、東西に続く、丹沢山塊の中心部をなす稜線を丹沢主稜と呼んでいる。

 蛭ヶ岳は丹沢主稜の出発点で、そこに到着したのは8時。富士山の展望が素晴らしい。撮影を終えた後に、頂上傍らの掲示板を見ると“ここから先は危険個所が多いので、十分用心して行って下さい”とか“冬期には滑落の事故も起こっています。厳重注意”なる旨が書かれていた。昨夜、甥が語った「雨だったら引き返しましょう」の言葉の重みを理解した。かつてここを縦走したはずの私だが、丹沢でこんな危険な稜線を歩いたという記憶が蘇らないのだ。自らの記憶力の弱さを呪いながらも、気合を入れて出発した。(写真:縦走路から見る富士)


     (蛭ヶ岳山頂)
 標高300mほど下って200m上る。200mほど下って150m上る。これを数回繰り返す。途中にはガレタ細尾根が待っている。鎖場もあれば階段や梯子もある。40代の若者の息も上がる尾根歩きだ。ただ平地に佇む一瞬には、富士山の姿が神々しく聳えて見える。楽しさと苦しさが交互に味わえる稜線歩き。
 丹沢山までの賑わいが嘘のような静かな山旅。すれ違うのは殆どが単独行の登山者。グループとは2パーティーと出会っただけだった。雨と予報された山行が晴れて、富士山を堪能しながらの山歩き故か、交わされる挨拶は元気で底抜けに明るい。

 蛭ヶ岳スタートが8時20分で、檜洞丸到着が13時。コースタイムをかなりオーバーしていたが、慎重に、ゆっくりと歩いた結果だから納得がいく。ここの山頂には多くの登山者が憩っていた。富士の見晴しだけでなく、ブナ林が有名で、つつじの名所としても人気が高い。ここで遅い昼食を摂った。
 あとは一気呵成に西丹沢へ下ったと言いたいところだが、足が思うように動かず苦戦を強いられた。なんとか16時25分発の新松田行きバスに間に合った。車中で照ノ富士優勝を知る。(写真:檜洞丸頂上)
 丹沢山は神奈川県にある唯一の百名山。県は本腰を入れて登山道整備に取り組んでいる痕跡が多々見られた。梯子や木階段の導入や、崩落部分の補修等々。




 
                   (ブナの新緑が美しかった)

  帰宅して、記憶を整理し直した。大倉尾根から犬越路まで歩いたと思い込んでいたが、実は蛭ヶ岳⇔檜洞丸間は歩いた事が無かった。思い出せない訳である。私の記憶違いから、図らずも今夏最初の山行に、中の上クラスへと仲間を誘ってしまった。猛省。(2日間に歩いた距離は合計24Kmだった。)
 ただ若者が「今回の山行で、今までには見ることの無かった丹沢景色に出会えた」と語っていたのが嬉しかった。
  


丹沢縦走を終えて(その1)

2015年05月25日 | 山旅

 5月23日(土)~24日(日)、丹沢を縦走してきた。参加者は、元向丘高校同僚はそれぞれに理由がありで、不参加。甥の秀治君とその友人の I さんと私の3名は、40歳代の若者(?)2名と70歳代のおじさん一人という、初めての、珍しいメンバー構成だった。若者の参加は機動性を増す。板橋区に住む I さんが巣鴨まで迎えに来てくれ、彼の車に乗り、30分で大田区六郷へ。そこに住む甥の駐車場で車を入れ替え、後は甥の車で渋沢へ。駅近辺の有料駐車場に車を留めた。

 初日は大倉尾根を登り、塔ノ岳を経て丹沢山に至り、みやま山荘泊。
 2日目は丹沢山から蛭ヶ岳・檜洞丸(ひのきぼらまる)を経由して西丹沢自然教室へ下山。
 初日の大倉尾根がこんなに長く感じたことはなかった。
 2日目の蛭ヶ岳→檜洞丸の稜線は危険個所も多く、ハードで、最近の山登りでは一番疲れた。ばてばてになっての帰還だった。









 23日(土)は大倉バス停を9時25分発の、塔ノ岳13時20分着。大倉尾根は10年ほど前の山行も含めて7~8回は登っているが、こんなに長く感じたのは初めてだった。以前と比較して登山路は木道や木階段へと整備が進み、より短時間で到着しても不思議ではないのだが、コースタイムより30分も遅れてしまった。特に「花立山荘」への登りをキツク感じた。(写真:以前に増して木道整備が進む大倉尾根)














 塔ノ岳から先は新緑の中を行く。緑のトンネルでの森林浴に、時折、山つつじの紫色が入り込む。富士山も頭の部分が見え隠れしているうちに、本日の山小屋「みやま山荘」到着。日本山岳連盟推奨の山小屋で、2月に宿泊した秀治君からは食事が美味いとの情報が入っていて、それをも参考にして決めた宿だった。







 20名しか入れない食堂での夕食は、特にご飯が美味しかった。食後、談話室で数名の百名山指向の方々と話し込んだ。今回の山行で7座を目指すという猛者は女性の単独行。私は聞き役に回り、経験談をあまり語らなかった。秀治君は「明日が雨ならば、檜洞丸へは中止して、ここから帰りましょう」と語った。それを聞いて私は「え!」と思ったが口には出さなかった。天気予報は雨。90%、翌日は”勇気ある撤退”かと思って寝床に向かった。
 丹沢の中でも丹沢山(1567m)が日本百名山の一つなので、地の利もありで、この山小屋は人気が高い。まして5月の新緑の土曜宿泊は超満員で、定員30名くらいのところへ50名以上の宿泊客の為、1枚の布団に2名の寝床となっていた。私達は2枚の布団に3名。

 翌日は予想に反して雨は無かった。富士山はその全貌を晒してくれた。それも40Kmの至近距離に。撮影後はいよいよ主脈稜線から主稜線への縦走開始だ。昨夜の秀治君の言葉の重みを知るのはそれから2時間後だった。(写真:棚沢ノ頭から見る富士山)






「若冲と蕪村」展終わる

2015年05月22日 | 映画・美術・芝居・落語

  「サントリー美術館」で、3月18日(水)から始まっていた「若冲と蕪村」展は5月10日(日)に幕を閉じた。私はこの間3回も鑑賞に出掛けることが出来た。妻の同伴者ということで、無料。自宅から美術館への行き方は毎回違ったルートだった。今回は自宅前にバス停のある都バスを利用し、本郷三丁目駅前で大江戸線に乗り換え六本木駅へ。3度の経験から実感したことは、このルートは、時間は掛かるが、一番楽で、しかも大江戸線に30分も乗車するのは読書に最適だということ。六本木へは、このルートを多用することになるだろう。

 展示の方は、1回目も2回目も、その全体像を理解しようと、解説文を読むのにかなり時間を取られたが、3回目の今回は、これはと感じていた作品を重点的に、長時間眺めることが出来た。展示作品は数回の入れ替があり、総数は223点にのぼった。特に印象深かった3点について記す。

 蕪村の≪山水図屏風≫は、7年前にも「MIHO  MUSEUM」で鑑賞し、サントリー美術館でも2回観ていたが、今回は偶然にも、階段途中から作品を見下ろすような状態で鑑賞することが出来た。ここの美術館は4階から入館し、3階から退館する。鑑賞の途中で4階から3階へと下るわけだが、その階段を下る途中に、今回は全く人が立っておらず、私達は暫く踊場的空間を独占し、鳥瞰するように≪山水図屏風≫を見た。そこに描かれた山々よりも、こちらの視点の方が高い。あたかも、その向こうに聳える山脈を遠望するように、5メートルほど向うの屏風全体を眺めることが出来た。視点を変えると見えてくる風景が異なった、これは新鮮な体験だった。(写真:右隻)




         (左隻)

 山水図屏風と隣り合わせで展示されていたのが若冲作≪像と鯨図屏風≫。そのスケールの大きさに感心する。若冲82歳での制作と知って更に驚かされる。右隻には陸地の王者象が白色で、左隻には海の王者鯨が黒色で、見事な対比をなしている。かくなる構図の絵画が18世紀の日本で制作されていたとう事実に、江戸時代の“豊かさ”を感じた。和算・天文学・囲碁などと並んで、絵画も花開いた江戸時代。(写真:右隻)


         (左隻)

 ≪奥の細道図巻≫は楽しかった。芭蕉の「奥の細道」を蕪村が全文を筆写し、俳画風の挿図を添えた画巻。文章は読む時間的余裕も無いし、あったとしても私には解読不明なヶ所が多々あるので、絵のみの鑑賞。後日眺めた図録の≪細道図巻≫は、全文に絵が添えられ、”旅立ち”・“那須野行”・“須賀川の隠者”など13全ての挿図を眺める事が出来て、又楽しからずや、だった。蕪村は芭蕉を敬愛し、芭蕉像を10数点以上も描いている。発句と絵を一つの画面に描き、それが響き合う俳画という新しい分野を開拓し、その作品も多数展示されていた。(写真:俳画。「雪月花 つゐに三世の 契りかな」。左弁慶 右義経)






 第6章は「隣り合う若冲と蕪村 交差する校友関係」。蕪村は晩年、若冲の住む京都の四条烏丸近辺に居を構えたそうだが、同じ時代に、こんなに近辺に住みながら、蕪村の手紙五百以上の中に若冲を話題にしたものは現在一通も確認されていないそうだ。二人が一献も傾けることがなかったとは!そこが一番不思議だ。(写真:両宅は至近距離にあった)



(若冲作:≪猿猴摘桃図≫)