マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

息子のこと

2023年09月24日 | 

 確か13年前のことだったと思うが、息子が「公認会計士試験」に合格し、大手の公認会計士法人に就職するも、スキー本場の北海道にある支店への就職を希望し、運よく札幌支店への就職が決まった。ほぼぞれと同時に「実は結婚を約束している相手がいるのだが」と、パートナー(やよいちゃん)を紹介され、特に結婚式は挙げないで、二人して北海道で暮らしたい、との急転直下の話が出て、二人は大洗からヘーリーであっと言う間に北海道へ去り、小樽で暮らし始めた。
 ところがである、就職して3ヶ月ほどして、何があったか詳しい話を私は聞いていないが、会社を辞めてしまった。その後の10年間は特にパートナーだったやよいちゃんには実に苦労の多い年月だったと思う。息子は農業やら酪農の臨時的な仕事に従事しながら二人は生活を維持していた。生活の場も小樽→阿寒→帯広と移住を繰り返し、漸く音更に定住するようになった。私たちは何度か北海道を訪れ、十勝地方を中心にあちこちの名所を案内されたが、目の当たりにする息子が定職につかないのが心配の種だった。特に妻の心痛は大きかった。
 長女や次女が生まれてから大きな変化が訪れて来た。税理士事務所に就職して数年、公認会計士となる最終試験受験の前提となる実務経験の年数をクリヤーし、最終試験を受験して合格。晴れて公認会計士となれた。その後、就職していた税理士事務所からの援助もあったのだろう、3年前に帯広で「税理士事務所」を開業した。ただこのことは親戚などに伝えたり、ブログには書かないでくれと釘を刺されていた。
 妻が死亡し、息子は親戚一同などの前に立っことになった。祭壇に飾られた花輪の送り主から、息子が税理士になった事を親戚や多くの参列者は知っただろう。それに参列者を通夜会場にご案内する役割を進んでやり始めった息子を見て、幼い頃の息子を知っている方々は皆、その変貌に驚いたのだ。簡単に言えば«立派な大人»になっていたのだ。私からみても大きな変化があったなと思えた。多分税理士の仕事が軌道に乗り始め、その充実感がそうさせるのかなと思えた。
 実は妻が亡くなる前に偶然とは言え不思議なことがあった。妻が亡くなる2ヶ月前に仕事で東京に来た息子は、滅多にないことだが、突然我が家に寄り2時間ほど過ごしていった。その時妻は貸金庫や銀行口座のことなど大事なことの数々を息子に伝えていた。貸金庫の件は妻死亡後すぐに息子が良き対応をしてくれたことのひとつだった。その時息子は「公認会計士・税理士事務所所長」となっていたから、妻の安心は大きかっただろう。離れて暮らしていたので、この時に初めて息子の“晴れ姿”を見たことになる。しかしそれが息子が母を見た最後だった。
 妻がなくなる1週間前にも息子から電話があったが、頚椎と腰からくる神経痛の激痛の為、息子との電話は出られなかった。息子は多分妻が危機的な状態にあることを悟っただろ。
 告別式が終わり、親戚と春子さんで町屋の葬儀会場に行った。戻ってきた道灌山葬儀場での精進落としの席で、献杯のあと息子の語った話が私の胸を打った。親戚の方もそのようだった。
 位牌に向かい「お母さん、痛みから解放されてやっと自由になれたね。痛みに耐えかねて自ら命を絶ってしまったのかと思ったが、そうではなかったのだね」と。皆さんの方を向いては「死ぬ間際まで必死に生きようとした母を誇りに思います。母から見て自慢の息子になれるよう頑張りますか」と語ったのだ。

 その息子から今年の8月17日に、
帯広市で、「インボイス制度を考える」講演会の講師を勤めたとのメールが来た。衆議院議員石川香織事務所主催のセミナーであるらしく、翌日の十勝毎日で紹介されたとも書かれていた。この姿こそ妻に見せたかった、と私は思った。(写真:とかち館で講演する息子)
 


「偲ぶ会」を六義園「心泉亭」で開催

2023年05月24日 | 

 「『源氏物語』と川口祥子さんの会」と名付けられた「偲ぶ会」が5月16日(火)に六義園内の「心泉亭」で開かれた。参加者は「源氏の会」の方に限り、そこへ妻の妹夫婦が加わり合計で12名の会だった。(写真:緑陰の心泉亭)




 準備は2月末から始めていた。夫であった私から妻を偲ぶ会を提案するのは躊躇いがあった。そこで会設立以来の会員で、中心的なお二人、春子さんとともさんに相談すると、3人の名前で会への参加を呼びかけましょうということになった。私は早速六義園へ出向き、「心泉亭」の空きを確認し、日程を5月16日と決めて来た。この「心泉亭」で、13年前の2010年の5月22日に『源氏物語』の読み合わせを開催したことがあり、会とは縁のある場所が「偲ぶ会」に相応しいと思えたからだった。

 心泉亭での飲酒は禁止だが、会食は可能だ。そこで、亀戸升本のお弁当のなかから「福升」を注文した。それ以外に私は「源氏の会」の方々とご一緒した花見や街歩きの時に撮影した写真をA3に拡大し額縁に入れたものを7枚準備しておいた。
 さて当日は快晴だった。12時に正門前に集合し、12時半に心泉亭に入室。テーブルを設置し、お弁当を配り、お茶の準備し13時頃開会。(写真:心泉亭は椅子席ではなかった)

 冒頭に私が挨拶をさせて頂いたあとは特に司会のご指名ではなく、自由に話をして頂いた。フリーに語って頂いた。大きな役割を演じたのが義妹の夫の石野さんが持参したミニ写真集。妻と私の幼い頃から新婚時代までが登場する写真集で、写真に登場する妻に関する話題が多く語られ、笑いの絶えない会となった。(写真:妻が何歳のときかは不明)






 会終了後寄せられた感想メールを幾つか拾ってみると、

 「祥子先生の子供の頃、青春時代のアルバムを見てやはり素敵でした。そして皆さんが繋がっていることが改めて解り、祥子先生の存在に感謝です」
 「祥子先生の源氏の会はずうっと続きそうな気がします。祥子先生の笑顔が見えるような気がいたしました」
 「とても良い会だったと思います。人数もメンバーも、ちょうどよかった気がします」
 「本当に良い会でした。皆さんの素晴らしさを感じました。お招き頂いて、感謝しています」
 「思いの籠った、思いの溢れた時間でした。こんなにも素晴らしい出会いを祥子先生にいただいたのだと嚙み締めました」
 「なつかしお話や、知らなかった祥子先生のお話を伺うことができて、よい時間でした。同じテーブルについていらっしゃるように感じました」

 “偲ぶ”とは、去っていった人を忘れずに思い起すことだろうか。残された人たちの哀しみが「偲ぶ会」で少し和らいだかもしれない。秋の再会を約束して会は終了した。


友遠方より帰る、又楽しからずや

2020年12月20日 | 

 長らくフランスで暮らしていた、大学時代からの友人Oさんが、ご夫妻で帰国され、その知らせが11月中旬に届いた。入国の際は羽田空港で唾液検査を受け、結果は「陰性」だったが、2週間の自宅待機。この2週間、体調に心配な兆候はなく、11月からは近くの公園を散策する毎日と記されていた。
 今年の春に日本に一時帰国していた彼は、9月にフランスへ再入国していたので、その時の空港での様子を聞くと、その頃はフランスでは出入国に何の制限も無かったそうだ。しかし、その後の観光誘致が災いしてコロナ感染者数が増大し、10月に2度目のロックダウンに繋がったのかもしれないとのメールもあった。
 まだまだ、フランスでの生活を続けるものと思っていた私には意外だったので、帰国を早めた動機を尋ねると、彼の健康上の理由もあるが、夫人の希望だそうな。夫人が絵を完成するためには何度かパリと日本を往復しなければならず、年齢とともにその負担が増してきていたようだ。思うに、コロナが深いところで影響しているのだなと感じた。フランスへの移住も夫人の絵画制作が目的だったから、パートナーを大切にしている彼らしい。
  
 大学時代、数学を学ぶ仲間は自分も入れて僅か9名と非常に少数だったので、皆すぐに親しくなった。4年の時は彼と同じ「代数ゼミ」のメンバーだった。卒業後、彼が大学院で物理・物性を学び始めたころ、住まいが西小山にあった私はその研究室に良く遊びに行くようになり、親しさが増した。池袋の珈琲茶寮「耕路」で『日本国憲法』(著宮沢俊義)の読み合わせをしたことを懐かしく思い出す。 
 彼とはその後もよく飲んだ。一緒にスキーに行ったこともあったし、妻と二人、お宅に遊びにいったこともあった。帰国する度に一献傾けた。
 メール交換で、帰国後は一献だけでなく数学書の読み合わせをしようとなった。ミステリーを愛し、数独を趣味とする彼とは語ることが多い。旧友と以前の様に頻繁に会えるのは楽しみだが、直接会えるのはコロナ感染終息後だろうか・・・。
 


吉池創業者・高橋與平氏のこと

2019年09月10日 | 

 横ばいになりながら、スーパーマーケット研究家菅原佳己さんの『日本全国ご当地スーパー 隠れた絶品、見~つけた!』をパラパラと捲っていたら、見出しが“鮮魚の宝庫!吉池本店の魅力”とあるページを見つけた。菅原さんは自腹で全国のご当地スーパーを行脚している女性の様で、既に『日本全国ご当地スーパー 掘り出しの逸品』を書き上げていた。生まれが御徒町だから、地元のスーパーへの採点が少し甘いということがあるかも知れないが、「吉池本店」を絶賛していた。

 「・・・一般のスーパーは商品数2万点と言われる中、吉池は4万5千。その売上の55%は鮮魚が占めている。全国のスーパーを見た後だからわかる、吉池の鮮魚売場のレベルの高さ。プロでも魚を買いに来る。そんなスーパーはなかなかありません」と。
 私達は言わば“遅れて来た老年”で、吉池の鮮魚売場の魅力を4年ほど前になって初めて知った。二人とも大の吉池ファンとなり、妻など中でも“アラ”を絶賛している。
 吉池は北海道に自社鮭水産工場を持っている。そのことを地下1階の売場で目の当たりにした。自社工場からの加工鮭を販売しているコーナーがあり、別海生産とあった。かって読んだ『別海からきた女』(著:佐野眞一)の別海とはどこにあるか捜したことがあった。別海は北海道東端の地にあった。鮭が遡行するには絶好の川があるのだ。
 どうしてそこまで魚にこだわるのか。その秘密を菅原さんが種明かししてくれていた。そのなかで、吉池の創業者高橋與平氏(1898~1992)の波乱万丈な人生も紹介されていて、実に面白い話だった。実はこちらの物語を書きたかったのだが・・・。
 彼は新潟県松之山(現・十日町)出身。その地に吉池という池が実在した。昭和9年発行の『主婦之友』の記事によれば、高橋氏はジェットコースターのような人生を歩んだ人。地元の師範学校を卒業し念願の教員となり、弱冠25歳で東京の小学校の校長に。その働きぶりがある実業家の目に留まり、新事業を企画。ゴム栽培のため台湾に渡航。が、それもつかの間、結核で死の宣告を受け無念の帰国。
 「どおせ死ぬなら死ぬ気でもう一働き」と伊豆大島に渡り、開墾事業の着手。毎日太陽の下で労働するうちに「不治の病」が自然に完治!このとき島で魚を釣った経験から、東京・三田で鮮魚店を開店した、とあった。
 2014年春、吉池本店は新装開店していた。私達は残念ながらそれ以前の様子を知らない。

 
 


池内紀さん、亡くなる

2019年09月06日 | 

 敬愛する池内紀(おさむ)さんが8月30日に亡くなっていたことを、昨日の朝刊で知り驚いた。死因は虚血性心不全で78歳とのことだった。
 今時、78歳は若い。早すぎるご逝去だ。私より1歳年上で趣味が散歩。それもあってか他人事とは思えない衝撃があった。
 池内さんの専門はドイツ文学で、神戸大学や都立大学、東京大学教授などを歴任したが、55歳で東京大学を辞任し、その後は文筆業に専念した。羨ましい人生を歩まれていた。私は彼の専門書は全く読んでいないが、散歩や旅のエッセイ本を数冊読んできた。
 2018/10/08のブログにも書いたが、『すごいトシヨリBOOK』(毎日出版社)、『ひとり旅は楽し』(中公新書)、『湯けむり行脚 池内紀の温泉全書』(山川出版社)、『東京ひとり散歩』(中公新書)、『きょうもまた好奇心散歩』(新講社)、『今夜もひとり居酒屋』(中公新書)、など愛読し、随分参考にさせて頂いた。温泉・旅・お酒など、一人でも十分楽しめることを教えて頂いたと思う。散歩では我が師匠と勝手に決め込んでいた。
 特に『すごいトシヨリBOOK』に登場する「
3つのリュック」を真似している。大・中・小の3つのリュックにほぼ同じものを入れ、用途に応じて使い分けることを今も続けている。東京新聞への寄稿では特定秘密保護法成立や集団的自衛権の行使を容認など、きわどい法案がつぎつぎに成立していく状況を憂慮していた。そういった感性に私も同感だった。
 「虚血性心不全」とは、冠動脈が詰まり心筋に十分な血液が行き渡らなくなって、心筋が酸素不足(虚血)になることに起因するらしい。突然に亡くなられたのだろうか?。名エッセイストだった池内さんのご冥福を祈るばかりである。