マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

妻の一周忌

2023年11月22日 | 身辺雑記

 妻の一周忌の法要を11月19日(日)13時から、檀家寺蟠龍寺で執り行った。ご住職の読経の後お墓参りをし、精進落としは目黒雅叙園ホテル東京内の日本料理「渡風亭」で、ほぼ身内の10名で行った。
 妻の命日は11月30日だから、命日より大分早く行ったことになる。実は私は11月18日(土)に「文京アカデミー」で『本駒込 今昔物語』を語ることになっていた。具体的準備や心の準備もあるので、一周忌はその後にして貰おうと息子と相談すると、日曜日を前提すると、仕事の関係で11月19日(日)しかないとのことで、19日を一周忌と決めた。(9月に入って私が睡眠障害に陥り、«語り»の役割を下ろしてもらっていたので、後から考えれば11月18日以降に拘る必要はなかったのだが・・・)

 13時からご住職の読経が始まった。お経を聞きながら、妻と過ごした年月で印象深い思い出の数々が胸を横切っていった。楽しかった別荘暮らしでの妻の姿が思い出された。
 19日が一周忌ですと語ると、必ず「もう一年ですか。早いものですね」との言葉が返ってきた。私もそう思う反面、ここまで来るのに、日常生活でも心理的にも越えねばならかった幾つもの壁があったことを思うと、読経の時に、漸くこの日を迎えられたのだという感慨が横切った。



 「法要は30分程度でお願いします」とご住職さんには申し訳ないお願いをしていた。その日に飛行機で帯広に帰らねばならない息子の都合に合わせて、雅叙園での会食開始を2時半に予約していたので、今日のお経は短時間で終え、仏話の続きは三回忌の時にしますとご住職は語って法要を終えた。法要の前にお墓を掃除し、お花を供え、お線香も灯しておいたので、お墓参りは皆それぞれの、妻への思いを伝える祈りだけで終わり、雅叙園の開始時間には十分間に合った。

 雅叙園内には色々な食事処がある。母の法要後の会食を含めて今までは中華レストラン「旬遊紀」を利用していたが、今回は日本料理「渡風亭」。掘り炬燵が切ってあり、高齢者には非常に良かった。料理も美味しかった。参加者は妹夫妻のところは子供3名を含め5名、義理の妹夫妻のところが2名。私のところは私と息子の2名。それ以外に私の高校時代からの友人瀧川さんが参加してくれての合計10名だつた。(妹の孫1名が特別参加)
 皆顔見知りである。和気藹々とした雰囲気のなかで和やかな時は流れ、時に妻が話題に上り、心温まる会は16時半お開きとなった。帰路私は瀧川さんとコーヒー店に寄ってから帰路に憑いた。


孫の七五三で音更へ

2023年11月16日 | 身辺雑記

 11月11日(土)から13(月)までの3日間、息子一家住む音更を訪れ、孫たちの成長ぶりを実感して来た。長女は今年小学校に入学し満7歳、七五三の年だった。
 予定では12日にスタジオで記念撮影をすることになっていたのだが、その日に息子に税務説明会の仕事が入り、写真撮影は11日の14時に急遽変更された。予約しておいたJAL575便の十勝帯広空港着が12時20分。あまり時間の余裕がないので、空港に着いてからの荷物待ちの時間を省くため、主要なものは段ボールに詰めて予め音更に送っておいたので、ザックひとつ身軽な空の旅となった。

 飛行場には息子と次女が出迎えに来てくれた。車で早速帯広市内にあるスタジオに向かった。今回はお宮参りもしないで、スタジオでの記念撮影のみ。主役の長女は着物とドレスの2様の撮影。次女もドレスで着飾った。姉妹二人一緒の写真撮影もあった。私も含めて5人での撮影など様々な撮影をし、全部で50枚くらいの撮影をし、その中から気に入ったものを選んで、アルバムにして後日家族や私に送られてくるので、現段階では、正式に撮影されたものをここに掲示できない。




 
 

 撮影終了後、お宮参りもせずに息子の家に急ぎ帰った。孫たちはおじいちゃん(私のこと)がお土産として持ってくると約束していたジグソーパズルを一刻も早く見て、並べ出したいのだ。長女には「クレヨンしんちゃん 500ピース」、次女には「スーパーマリオ 500ピース」と「クレヨンしんちゃん 300ピース」を用意しておいた。この日は「スーパーマリオ 500ピース」を早速始めた。家族4人に私が加わって5人での大仕事。この日は全部完成はしないで、私は早く寝てしまったが、次の日リビングを見ると見事完成していた。特にママのやよいちゃんと次女の貢献が大きい様に思う。孫たちは何度かやるうちに、どこに何が入るか覚えてしまうようだ。残念ながら私の貢献度は殆どない。(写真は「スーパーマリオ 500ピース」)

 12日(日)は、息子は仕事に向かい、孫たちはサッカーの練習に。ママ運転のBMWに私も乗せてもらい、30分で白樺学園のグラドへ。女の先生の指導のもと基礎練習を40分ほどやった後、5人対5人の練習試合。長女は足が速い利点をいかして、自軍が危なくなると全力でゴール守備に向かっていた。5歳の次女が最年少だそうだが彼女も健気に参加。試合は6対2で孫の入ったチームが勝った。(写真:先生を挟んで右が長女で左が次女)
 試合終了後「Steak Victorika」に向かった。頑張ったご褒美に私が御馳走した。2人とも実に良く食べていた。
その後ママは食材の買い出しに。その間私はおもちゃ屋さんで孫の面倒を見ていたのだが、ルービックキューブの前で二人は立ち止まって動かない。こうなるとおじいちゃんは弱い。2人に同じものを買ってあげた。帰って来て直ぐにルービックキューブを始めたが、孫たちに出来るわけがない。「おじいいちゃん やって見せて」ときた。1年以上前は出来たのだが、この間ずうっとやっていないなかったので、一面完成しかできない。良いところを見せられなかったことを悔やんだがあとの祭り。
 13日は息子は釧路へ3泊の出張、ママはお仕事、長女は学校、次女は保育園と4
人それぞれ行くところがあるのが分かっていたので、私はこの日に帰ることにしていた。お気に入りの「六花亭」で、お代わり自由の珈琲を味わい、昼食も含めて2時間半を過ごし、15時40分とかち帯広発のJAL574便で帰路の途についたのだった。


大野さんのお墓詣りへ

2023年10月23日 | 身辺雑記

 昨年12月、享年67歳で亡くなった、元向丘高校同僚大野勉さんのお墓詣りに、千葉県船橋市営の馬込霊園に行ってきた。
 今年の寒中見舞で妻の永眠を多くの方に連絡してから直ぐに、折り返す様に、大野夫人から夫君勉さんの死去の知らせが届いた。まだ60代の若さである。その頃は年賀状のやり取りもしていなかったし、病におかされているという話も聞いていなかったので、非常に驚き、愕然とし、若くして旅立っていった大野さんの死を悼んだ。
 3月にあったか吉池での、花見の宴の席でも皆さんそのことを知らなかった。いづれお墓参りに行きましょうとの話になったが、何方もメールアドレスや電話番号を知らなかったので連絡の取りようがなかった。
 そこで私はハガキを出して大野夫人の携帯電話の番号をお聞きした。電話番号させ分かれば、後はSMSで色々な事が伝え合える。大野さん死去の様子も聞き出せた。昨年の12月22日に、闘病生活2年半の末、癌で亡くなられたとのこと。船橋市馬込霊園にあるお墓を新しく立て直しする予定なので、お墓が完成したら、再度連絡しますとのことだった。
 お墓が完成しましたとのメール連絡は7月末に届いた。ただ、私は妻の銀行口座の名義変更の事務などで身動きがとれない状況だったので、打合わせの役割を草野さんにお願いすると快諾して下さり、それ以降の連絡は大野夫人と草野さんとの間でなされ、10月22日(日)のお墓参りが決まった。飛鳥山花見の宴の参加者を中心にご案内を差し上げると最終的に11名の参加となり、大野夫人と併せて12名で、昨日お墓参りをしてきた。


 私は1979年に向丘高校に赴任したが、赴任すると直ぐ新一年生の担任となり、その同じ学年の担任に、1年前に新任として向丘高校に赴任してきた大野さんがいた。草野さんも大野さんと同時期の新任で、担任団の一員だった。大野さんの人柄は忖度とうい文字とは無縁の、自分の思ったことを率直にいう人だった。その面では古参教員などからは«生意気な奴»と煙たがられていたかもしれない。しかし13歳も離れた私とは、帰宅途中で何度も一献傾けるほど気が合い、山に一緒に行くようにもなった。剣岳・巻機山・北岳・北穂岳・雲ノ平など一緒に行った名山は10を下らないだろう。多くの山行や旅行・温泉も共にした。スポーツマンでもあり、テニスやバトミントンは教員仲間で1・2を争う実力者。彼が軟式テニス部、私が陸上部の顧問として黒姫での合同合宿にも何度も行ったこともあった。そんな健康的で活動的な彼を知っているだけに、吉池での席でも、異口同音に«どうして»の声があがった。
 ただ、彼も私も向丘を去り、他の何校かに転勤するうちに、赴任先の新しい仲間と一献の会が増えるにつれて、彼と会うことが少なくなっていった。

  さて昨日、東武アーバンパークラインで船橋から3つ目の馬込沢駅が下車駅。この駅に降り立ったことのある人は殆どいなかった。それか故か何名かの方が遅刻をしてきた。そこから徒歩で霊園まで20分以上はかかっただろ、ほとんど畑だったところに住居が建てられ、霊園が造られた。大野家の墓も土台から立て直され、墓石前面には«穏»の文字が刻まれていた。お花は霊園内で購入する予定だったが、大野夫人が朝早く来て既に供えられていた。お線香も大野家のほうで用意されていた。参列者は皆それぞれの思いで大野さんを偲び合掌した。お墓と集合写真を撮影し馬込沢駅に戻ってきた。駅周辺には飲めそうなお店は「庄屋」のみ。その場は期せずして「大野さんを偲ぶ会」となった。



 


「むずむず脚症候群」(別名レストレスレッグス症候群)ではなかった

2023年10月09日 | 身辺雑記

 眠れぬ夜がやって来たのは今年の2月頃だった。その原因は多分心理的なものだったのだろう、たまたま、泌尿科の細部先生に相談すると睡眠導入剤を処方され、良く眠れるようになった。
 ところが4・5月頃から寝床に入ると脚の痙攣が始まる症状が出始めた。2011/01/27のブログに書いた“むずむず脚症候群”(別名レストレスレッグス症候群)が再度出始めたと思った。それも以前より激しく頻度も多い形で。それが睡眠を妨げた。そこで、今度は掛かりつけ医の谷口先生に相談すると、漢方薬68番を勧められ飲み始めたが、効果は薄かった。脚の痙攣が激しくなり、30秒に一度くらいの頻度で痙攣(ぴくぴく)が起こった。これは「ㇾストレスレッグス症候群」の専門医に診てもらうのが良いでしょうかと谷口先生に相談すると、適切な医師を紹介して下さるとのことだった。しかし、今後の成り行きを考え、自分の所属している「都立学校教職員互助会」付属の「三楽病院」の方がより便利・有利ではないかと思い、三楽病院の「精神科」に予約を入れた。
 担当の先生は私の経歴から始まって病歴・現在の精神状態に至るまで1時間以上にわって質問をされ、私が述べた「レストレスレッグス症候群」については、そうではないように思えます。」と話された上で、デエビゴ錠(所謂睡眠導入剤)1錠とリポトリール錠(発作を抑える薬)2錠を処方してくれた。この薬の組み合わせが大当たりで、これ以降2週間、途中起きることはあっても、私に安眠が訪れて来た。
 2週間後の再来院の際、私がお礼を言い終わらないうちに、「たまたま、貴方に合った薬だったようです。ただ、貴方の病名は「周期性四肢運動障害」で「レストレスレッグス症候群ではありません」。ただその2つは兄弟の様な関係にあります。「レストレスレッグス症候群が、かゆいなどで本人が勝手に脚を動かしてしまうのに対し、「周期性四肢運動障害」は不随意運動によって脚のピクピクが周期的に起こり、睡眠を妨げるのです。処方はほぼ同じになります」とのお話だった。
 私の話の眠りの様子から医師は«発作を抑える薬»は1錠で良い判断したらしく、寝る前の薬は“発作を抑える薬は1錠にします”と言われた。しかし私は少し躊躇した。1錠で眠れなかったとき時は他の曜日の薬をも飲むわけで、薬が足りなくなるかもしれないと判断し、やはり2錠にして下いと言った。この辺は医師と患者の合意で決めるらしい。兎も角、発作を抑える薬は2錠のままだった。
 帰って来たその日1錠飲んで睡眠に入ったのだが、眠れなかった。2錠を依頼しておいて良かったと胸をなれ下した。兎も角今は三楽医院処方の薬で比較的良く眠れている。


妹からの誕生日プレゼント

2023年10月04日 | 身辺雑記

 8月だったか、妹が夕食持参で、わが家にやって来た時に、一枚のパンフレットを私に見せながら、「お誕生日のプレゼントをするからどの色が好み?」と聞いて来た。古希や還暦のお祝いには互いにプレゼントを贈ってはいたが、特別の誕生日ではない時のプレゼントに私が吃驚すると、妹は言った。「今までだったらサッチャンからの誕生日プレゼントがあったでしょうけれど、これからはそうはいかなくなってしまったから、私からプレゼンを贈るよ」と。その心配りが非常に嬉しかった。
 パンフレットには牛革のスマホポシェットが幾つか載っていたが、私は躊躇わずにオレンジ色のポシェットを指さした。10月1日で満82歳を迎えてしまった。体力の、その中でも特に足の筋力の衰えを実感し、脚こそわが命と思い込んでいた私は、寂しく無念の思いにかられ、落ち込むことの多い日々だが、このプレゼントには嬉しいだけでなく元気付けられもした。人気のある製品らしくまだ手元に届いてはいないが心待ちしているところである。
 身内の兄が書くのもなんだが、妹は心優しく親切で、人の世話を焼くのが好きな人柄である。多くの人に愛され、「宏子さん、宏子さん」と頼りにされている。良く、仲の良い兄妹ですねと言われることが多い。性格が似ている面もある。中学校卒業以来、お互いに助け合わなければやっていけない家計環境も大きく影響していると思う。妹は中学を卒業すると金融機関で働き始めたが、一般的に金融機関は他の職より給料の面で恵まれており、私が勤めを辞めて大学に入学してしまってからは、妹の給料が大きく家計を支えていたのだ。(私も奨学資金を受け、家庭教師で稼いではいたが)。母も働いていたが、それだけでは不十分で、兄妹が力を合わせて家計を支えてきた、いわば戦友だったことが、仲良く過ごしてきた根っこにあると思っている。
 妹が務めた金融機関での仕事は、お客さんと接する窓口業務で気を遣わねばならないことが多く、数年の勤務でそこを辞め、その後製図の仕事に従事する会社に転職し、結婚後も子育てが一段落すると又働き始めた。妹も私も長期に亘って働いて来たのだった。妹の子供3人ともそれぞれ結婚し、4人の孫にも恵まれ、かっては海外旅行が趣味だったが、今は夫婦して御代田の別荘生活を楽しんだり、東急ハーベストクラブで過ごしたり、あちこち国内旅行したりの恵まれた生活をしている。その様な余裕が、私へのプレゼントにも向かう気持となって現れたのだろうと思っている。