マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

電気代は下がったか

2017年01月31日 | 身辺雑記

 電力供給会社を東京電力から東京ガスに代えてから9ヶ月が経った。供給会社を変えた一番の目的は東京電力への抗議。あの事故以降、原発事故が原因で、実に多くの人が生活基盤を破壊され苦難を強いられているのに、いまだに、この会社は真摯な謝罪をしていないし、誠意ある損賠賠償もしていない。事実を覆い隠そうとする体質は依然として変わっていない。妻と私は東京電力へ”NO”の意味と抗議を込めて、電力自由化の機会に供給会社を変更した。

 電話一本で来てくれた「LIFE VAL」の係員に過去1年の電気使用量のデーターを見せると、料金は8000円ほどお安くなるだろうと試算した。そのことはあまり期待してはいなかったし、私は熱心にその後の料金比較もしていなかった。一昨日の朝食時に妻から「電気代が安くなった。使う量が増えるほど安さが実感できる」との話が出て、具体的にこの2年間の、7月からの今月までの料金聞いて、エクセルで表を作成し、グラフ化してみた。図1がその表で、それを折れ線グラフ化したものが図2。

  
            図1                           図2

 月間の比較の前に単純に料金合計を比較すると、この7ヶ月間の合計で東京ガスの方が22712円お安くなっていた。月間比較だと、9月と10月だけは東京ガスの方が高い。一昨年と比較すると、昨年の夏は山荘に行かなった(行けなかった)。その間は東京でエアコンを使用し、その支払いが次月に回ったので、その影響が出て東ガス料金が上にいったと思われる。11月以降、寒くなりエアコン利用が増え、電気使用料が増すにつれて、東京電力と東京ガスの電気代と料金差は広がっている。想定以上に東京ガス料金の方が安いことにふたりとも喜んでいる。
 (電気使用量は不明なので同じような使用量があったとの前提で表とグラフを作成した。縦軸が支払い料金)
 
 今日の一葉(我が家からのダイヤモンド富士は、一昨日は曇りの為撮影不可。昨日は疑似ダイヤモンド富士。山の右肩を沈みゆく太陽)
 


『京都・花灯路』を椿山荘で観る

2017年01月29日 | 東京散歩

  『京都・花灯路』なるものがあることを妻から聞いた。2003年より京都東山地域で始まったイベントで、露地行灯の灯りと花により思わず歩きたくなる路、華やぎのある路を演出するものだそうだ。京都で開催された花灯路が椿山荘でも行われているから行こうと妻に誘われて、昨日の28日(土)出掛けてきた。
 椿山荘へ行ったのは4年前。その付近は何度も歩いていたが、庭園内部に足を運ぶのは「フォーシーズンホテル椿山荘」の営業閉幕時に宿泊して以来だ。その時は早朝に散策はしたが、夜の散策は初体験。
 この日は目白新坂下の「関口フランスパン」で早めの夕食をとり、18時前には庭を歩き始めた。建物内部は披露宴参加者で賑わっていたが外は静寂。入園無料であるが、訪う人は疎らで、嘘のように静かな空間の中に、灯りの演出が為されていた。流石椿山荘という光の配置があった。行灯は確かに京都で使われたものらしかった。言葉はここまでにして、以下ヴィジュアルに。
 
    

      
         (霧もどきも演出)                (雪囲いの右に微かに見えるは金星)

     
      (若冲の下絵による羅漢石)

    
       (
椿山荘三重塔                        (桜か?)

     


         

       

   

 


「新春浅草歌舞伎」を観る

2017年01月27日 | 映画・美術・芝居・落語

 1月24日(火)、浅草公会堂で「新春浅草歌舞伎」第2部を観てきた。実は、1月5日(木)に第1部を観てきているので、3年前と同様に昼・夜両方を観劇したことになる。「新橋演舞場」も同様だったので、1月は4回も歌舞伎見物という幸運に浴した。チケットは東京新聞申込み当選分があり、頂いた分もあった。(羽子板は左から中村隼人・中村壱太郎・尾上松也・坂東巳之助・中村錦之助)
 第1部の5日の
お年玉<年始ご挨拶>は尾上松也で、演目は
 一 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)
  二 義経千本桜 吉野山
 第2部の24日のお年玉<年始ご挨拶>は中村壱太郎で、演目は
 一 双蝶々曲輪日記 角力場
 二 御存 鈴ヶ森
 三 棒しばり

  新春浅草歌舞伎のメンバーは一昨年世代交代していた。それ以前は海老蔵や愛之助・猿之助などの人気役者が舞台の主役をつとめていた。それが、2015年からは、自らが”若手登竜門”と名乗るように、若手花形役者が登場。今年は、尾上松也を中心として、中村壱太郎・中村隼人・坂東巳之助・中村梅丸が顔を揃え、後見役として二代目中村錦之助の姿もあった。

 5日の年始挨拶は、このメンバーの座長的立場にある松也。24日の壱太郎は「私は2部には出ていません。それで年始挨拶のお鉢が回ってきました。歌舞伎座の夜の部へ出演するのです。浅草と新橋は銀座線で一本で結ばれています。こちらを観終わりましてから歌舞伎座へもお出で下さい。”一幕見(ひとまくみ)”という手もあります」と語って拍手喝采。(写真:『石川五右衛門』で出雲の阿国を演じる壱太郎)








 浅草歌舞伎はどの演目も、若手ゆえのきびきびした動作が清々しい。
 「角力場」で人気力士濡髪長五郎を演じるのが錦之助。衣装を身に纏っただけで身体の大きな相撲取になり切って、貫禄十分な演技。見応えがあった。(写真:「角力場」より)

 又、弱冠20歳の梅丸の美しさは特に印象に残った。今後の活躍に注目したい。

   
 (『幻想神空海』で優蘭役の梅丸)

 「棒しばり」も見応え充分。「棒しばり」を観るのは2度目だった。狂言の『棒縛』を題材にした演目。物語は、酒好きなため主人に両手を縛られた太郎冠者(巳之助)と次郎冠者(松也)は、知恵を絞って、縛られたまま酒を飲み、酔っては不自由な身体で踊り始めます。妻の目をかすめてお酒を飲んできた私にはその気持ちがよ~く分かるのです。ひとつひとっの動作が滑稽で何度も笑ってしまいました。(写真:「棒しばり」より)
 舞台背後では三味線と謡い。この二つが舞台を盛り上げます。新春の初笑に相応しい「棒しばり」で浅草歌舞伎は幕を閉じました。



  今日の一葉(白髭橋からの東京スカイツリー)
   
  


飛鳥山から富士山は見えるか

2017年01月25日 | 東京散歩

 数日前の東京新聞に「飛鳥山公園から富士山」とのタイトルで、飛鳥山から撮影された富士山の写真とその解説記事が載った。日本地図センターが主催したイベントで、参加者から「飛鳥山から富士山が見える」との話を聞いて、センターの常務理事田代氏は、15日にその姿を捜しに出掛け、目を皿のようにして木の枝の隙間から発見したとあった。

 私もその姿を発見し撮影出来ないだろうかと、その機会を狙っていたが、快晴の朝はなかなか巡って来なかった。予報から24日は好天が予想され、朝620分に自宅をスタートし、南北線利用で飛鳥山着645分。この日の日の出時刻646分少し前だった。



 記事には、撮影地点は飛鳥山の最高地点ではなく、佐久間象山の詩を刻んだ「桜賦の碑」付近と書かれていた。毎年4月に開催の「向丘花見の宴」の比較的近くで見かけた碑。その碑近くで富士を捜し求めたが、我が視界に富士は入って来なかった。15分以上費やしても発見できない。そこで付近を散歩している人に「この辺から富士は見えませんか」と尋ねると、「数日前に何人ものカメラマンがこの辺でカメラを構えていましたよ」と言われ、探索するもやはり成果なし。諦めて帰ろうかとも思ったが、残念で、更に、散歩風情の老婦人に同じようなことを聞くと「私がたまに富士を見る場所へ」と、碑から少し離れた場所に案内された。
 日の出から20分ほど、陽が明るくなってきていたからか、目を凝らすと木の枝の間から富士が望めた。マンションの上から少し姿を見せていた。慌ててシャッターを切った写真が右と下。やりました!

   

 今はビルなどに遮られ、冬枯れの一瞬の、公園内の特定地点のみからしか富士は展望出来ない。江戸時代は飛鳥山から筑波山は良く見え、富士も遠望出来たのだろう。ただ、広重の『名所江戸百景』に“飛鳥山北の眺望”(写真は一番下に)等、描かれているのは双耳峰の筑波山のみ。北斎の『富嶽百景』にもその姿はない。飛鳥山からも富士は遠望出来たであろうが、飛鳥山では桜に浮かれ、その地点から北東に望める筑波山が絶景だったのだろう。

 同じ東京新聞の114日の朝刊の「東京どんぶらこ」には“道灌山”が登場し、江戸時代には富士山と筑波山の両方が見え、親しまれた行楽地として紹介されていた。上野から見て、諏訪の台地の先に道灌山があり、その更にまた延長線上に飛鳥山がある。上野台地の幅が非常に狭いから可能だったこと。西日暮里駅前の道灌山通りに立つと上野台地の断面の狭さが良く見える。(今朝撮影の断面。薄黒く見えるコンクリート状が断面)



 
 今日の二葉(『名所江戸百景』より)
            
 (”飛鳥山北の眺望”の筑波)  (”王子稲荷の社”にも筑波)


お話会で「お殿様の散歩道」を語ることに

2017年01月23日 | 東京散歩

 妻とその友人3人が始めた「お話会」の話し手のバトンが私に回って来ていた。「数学を学び、都立高校で35年間も教えて来たのだから、お話会でその辺を語ったら」と話し手になることを、妻から迫られてきた。数学は不勉強でもあり、言い訳をすれば、数学の話を「お話会」なる場で語るに相応しい題材は乏しいことを理由に、その役割は固辞し続けてきた。

 昨年6月、散歩がてら出掛けた谷中図書館で「お殿様の散歩道」展が開催されていた。台東区中央図書館では「日記で語る台東区」シリーズなるものを開始していて、その第1弾が『浅草寺日記』で第2弾が『宴遊日記』だった。



 『宴遊日記』は、第二代大和郡山藩主で柳沢吉保の孫だった信鴻が書き溜めた日記。藩主引退後、現在の六義園を拠点に多趣味な生活を送り、それを12年間にわたり毎日記録したものだった。趣味は歌舞伎見物・俳諧・園芸・天候観測など多方面。中でも特に散歩が大好きで、現在の台東区にある上野広小路や浅草にも頻繁に出掛け、庶民の生活の様子を書き込んでいた。そこで台東区は「お殿様の散歩道」としての展示を実施したのだった。その谷中版が谷中図書館で開催されていて、私は運良くその展示に出会ったのだ。

 私はこれを題材にして「お話会」で語ることが出来るなと感じ、妻に会の話し手OKの返事をしておいた。開催日時を131日(火)午後と決め、会場の本駒込地域活動センターの予約も取り、何人かの方にメールや葉書でお誘いをした。
 お殿様が実際歩いたと想定できる江戸時代の道を私は実際に何度か散策し、都高教退職者会の皆さんと一緒にその道を歩いたこともあった。折々に撮影した写真も多数溜まっていた。その写真をもお見せするにはパソコンソフト「Power Point」が最適と判断し、今その制作作業に苦心している真っ最中だ。漸く完成間近となり、90枚ほどの画像や地図でお殿様の散歩道と、私が撮影したものを何とかスクリーンに映し出せるかなというレベルまで来た。
 参加予定の方は25人ほど。久し振りに人前で話さねばならない日が近い。やや緊張感を抱きつつ準備を進めている毎日である。
 以下に当日登場させる写真を3枚。
      
(広重『江戸百景』より真崎)            (富士神社 鎮火祭)

 
       (初冬の六義園)