マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『虹、つどうべし』(著:玉岡かおる 出版:幻冬舎)を読む(その1)

2014年06月30日 | 読書

 最近、日本地図帖を手に取ると兵庫県に目が行くことが多い。5月に旅行した余部や”天空の城”は兵庫県にあった。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主舞台播磨も現在の兵庫県。
 このドラマに触発されて官兵衛づいている。戦国の世に活躍した、好きな人物は“参謀”型の直江兼続・竹中半兵衛と官兵衛ということもあり、彼を主人公とする『播磨灘物語』(著  司馬遼太郎)を再読し、『黒田官兵衛』(著 小和田哲男)を読んだり、江戸東京博物館で「軍師 官兵衛展」も見てきた。大河ドラマは三木城が落城し、一つの山を越えた。 
 その三木城落城に関して、敗者の側から眺めた物語と知って是非読みたくなり、紐解いたのが『虹、つどうべし 別所一族ご無念御留
』である。

 著著は「あとがき」で次のように語っている。
 『この作品の核となる物語は、わずか一ヵ月という、我ながら驚異的な早さで書き終わった。こんなことは初めてだ。自分史上、最速。だがそう言い切れるかというと、答えは否だ。もしかしたら、一番時間がかかった物語ということになるかも知れない』と、気になる語り出しだ。
 彼女は播州三木の、城跡のふもとの町で生まれた。幼い頃よく遊びに行ったのが三木城跡。そこで石碑に刻まれた、ある歌と運命の出会いをする。
 ◇◇はたゝうらみもあらし◇◇の◇◇ちにかはる◇◇と◇へハ   (原文のまま) 
と刻まれた文字。◇部分の漢字が読めなかった彼女は帰宅後姉に尋ねると「あれは、別所長治が死ぬときの“辞世の句”なんや」と教えてくれ、すらすらとその和歌を諳んじたそうだ。
 今はただ恨みもあらじ諸人の 命にかはるわが身とおもえば

 「三木の干し殺し」と伝わる悲惨な籠城戦。その果てに、城兵の命と引き換えに、自らの命を差出し、開城した三木の城主別所長治。彼女の中で、歴史の知識が降り積り、想像が育ち、別所一族滅亡のドラマは熟成されたが、筆にはしてこなかった。
 著名な作家となった彼女の愛読者で、別所一族の末裔と名乗るNさんから、「私は、もう先が長くないから、生きているうちに読みたいです。是非長治を書いてほしい」と、資料を渡されながら頼まれても、書き始めなかった彼女。しかし、次の講演会の時にNさんの姿はなかった。「長くはない命」は本当だった。涙が止まらなくなった著者玉岡は早速筆を取った。「待っていてくれる人のために、ふるさとのために、恨みを封じて歴史に消えた先人のために、そしてもうひとつ、今を生きる自分のために」。長い熟成の時を経て、ドラマは一ヶ月で姿を現したのだ。(このブログ次回に続く)

 


「文京区社会福祉協議会」と「こまじいの家」

2014年06月27日 | 町内会

 文京区の社会福祉法人「文京区社会福祉協議会」は、高齢者のみまもり訪問・子育て応援・家事などの日常生活の手助け・成年後見学習会等々、多面的な活動をしている。民間の法人組織で、ボランティアの方の活動が重要な側面を占めているようだ。(協議会発行のかわら版)

 文京区民センター4階に事務所があり、現在の会長はかっての区長煙山力氏。私が行政書士として看板を出していたころに、こちらを一度訪ねたことがあり、2009年9月9日のブログにも書いた。その時に貰ってきたパンフレットには次のように書かれていた。(現在のものとは違っているかも知れない)

 『文京区社会福祉協議会は 地域住民の方を中心に、民生・児童、町会、自治会、社会福祉関係者の参加・協力を得て、区民の高齢者、障害者の方々の支援事業をはじめ、地域福祉の向上と充実を推進します。
 社会福祉協議会は、社会福祉法に基づき、全国・都道府県・区市町村のそれぞれに組織されている民間団体です。文京区社会福祉協議会は1952年に設立、1963年に社会福祉法人の認可を受けました。』
 とあり、高齢者や障害者の方々への支援事業をその中心業務としている事がわかる。
 具体的活動として次の事柄が書かれていた。
  ①高齢者等が安心して在宅生活で暮らせるように家事援助を提供する「いきいきサービス」
  ②子供の保育所等の送り迎えなどの子育てを支えあう「ファミリー・サポ-ト・センター事業」
  ③就職に役立つ日常的技能の習得支援や大学受験を支援する為の貸付
  ④障害者等の対する日常的金銭管理サービス
 
 その社会福祉協議会に所属する浦田さんは週に数回「こまじいの家」に姿を見せてくれる。私がここを訪れたときには必ず彼女は元気にいろいろな仕事をされていた。最近は、「こまじいの家」以外でお会いすることもある。
 「こまじい」の活動紹介などで、献身的にボランティア活動をされている大橋さんから誘われて、6月2日(月)に「本駒込勤労福祉会館」で行われた”がちゃがちゃダンス”に参加した。この席にも浦田さんは見えていた。「こまじい」の活動の一環だと思われるが、体操をするには「こまじいの家」は狭すぎるので、場所を移しての体操。20人ほどの方が、簡易体操に汗を流し、盆踊りの練習もした。私はこの日のみの参加だが、毎月第1・2・4週の月曜日に活動。
 ラジオ体操の駒込富士神社に顔を見せたこともあった。その時は「ご近所かわら版」に載せますからと、写真を撮られた。6月11日に大橋さんから渡されたプリントには、ラジオ体操の主の沢さんや、富士前福寿会々長などラジオ体操常連に交じって大橋さんの顔があり、ちゃっかり私も紛れ込んでいた。今ラジオ体操は、神社には連日、50人を超える方たちが集い、最盛況のときを迎えている。


(かわら版の写真:右より小林・大橋・沢の皆さんと私)


   (浦田さん)


 


『東京都慰霊堂と両国界隈を訪ねる会』に参加して(その2)

2014年06月25日 | 東京散歩

 「訪ねる会」で訪れた江戸東京博物館。実は入場券を渡されたとき、え!と思った。その前日の18日が第三水曜日のシルバーデーだったので、勤務の帰りにここへ回り、無料で特別展「軍師 官兵衛展」を観たばかりだったのだ。渡されたチケットは常設展の方で、何故かホットした。
 私は何度か入場したことがあったが、妻は初めての常設展だったので、妻の好みに合わせて展示会場を回った。特に2人の興味を引いたのは、江戸市中を中心に川越までもが描かれた大きな古地図。地図には、私たちが知っている建物が描かれていてそれを眺めるのはとても楽しかった。地図の名前や描かれた年代は記憶にないが、神田川そばに吉祥寺を発見!駿河台にあった事は知っていたが、こんなにも神田川に近いとは!帰宅後調べ、吉祥寺は明暦の大火以前は現工芸高校の直ぐ傍にあったと知り納得。右と下はその地図全体の写真。吉祥寺のみを拡大した地図は最下段に。




 7階には図書館があり、映像ライブラリー「玉川上水」を鑑賞しようと司書さんに尋ねたところ、「13時半から、1階の映像ホールで上映されます」と聞いて、ホールの大画面で『江戸の二大水道 神田上水と玉川上水』を観た。近々に玉川上水を訪ねる散策に誘われるかも知れないので、その良き事前学習となった。

 最後に訪れたのが東京都慰霊堂。1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の大地震後、この地にあった陸軍本所被服廠跡地に、家財道具ともども逃げ込んで来た多くの市民。身動きの出来ないまでに人々で膨れ上がっていたところへ火は燃え移り、3万8000人あまりの方が焼死するという痛ましい事態に。その跡地に建てられた東京都慰霊堂は関東大震災で亡くなられた10万余の方々を弔う。その脇にある復興記念館の館内には、その時に撮影された写真や絵画が多数展示され、地震と火事のもの凄さを伝え、多くの方々の悲惨な様子を物語っていた。

 問題は、東京大空襲で命を奪われた方々を祀る記念塔。そのような慰霊の記念館が必要と考えた人たちを中心にした設立運動に押されはしたが、東京都は新た建物を建設することなく、既に出来ていたこの復興記念館の内部の一角にそれを作ったそうである。それも見たが、ヒド過ぎる。2階の一部を使ってのおざなりのモニュメント。アメリカに遠慮したのか。敢えて言えば、東京大空襲で亡くなった方々への第一次責任はアメリカにある。非戦闘地域への、どう爆弾を投下すれば効率よく死に至らしめるかを研究したうえでの爆弾投下。未だに裁かれていない戦争責任である。第二次責任はこの戦争を開始した日本国。いまだにきちんとした謝罪や補償がなされたとは思えない。政府の行為によって二度とかかる惨禍が繰り返されない”不戦の誓い”記念館が建設されなければならないと思う。

 梶原さんの解説では、そのような運動の成果として江東区に”東京大空襲・戦災資料センター”が作られたそうで、工事は新協建設と聞いてなるほどと思った。話の締めくくりには、集団的自衛権が登場した。このような会は、普通政治的な話題は避けるのだが、新協建設はそれでは終わらない。戦争を始める国にしてはいけないに皆頷く”訪ねる会”だった。


      (明暦の大火以前の地図より:手前吉祥寺。その上は水戸上屋敷か。左神田川)


        (地図の中央右側に”吉祥寺”の文字が見える)
 


『東京都慰霊堂と両国界隈を訪ねる会』に参加して(その1)

2014年06月22日 | 東京散歩

 6月19日(木)、「新協建設工業KK」主催の“東京都慰霊堂と両国界隈を訪ねる会”に参加してきた。新協建設主催の「訪ねる会」への参加は今年で4年連続。過去3回ともその企画が素晴らしかったので、今年も満を持しての参加申し込みだったが、申し込みが多数で、漸くの参加だった。
 その日の行程は
 両国駅(集合)→回向院→吉良上野介邸跡→江戸東京博物館→東京都慰霊堂(横網町公園)







 事前にパンフレットが郵送されてきていたが、今回の会のキーワードには気が付かなかった。単に「両国界隈」の歴史散策程度の認識しかなかったが、それは誤りであることに間もなく気が付かされた。
 両国駅から回向院へと回ると、新協建設の“営業部”梶原さんが待っていて、直ぐに解説が始まった。実はこの梶原さんの過去3回の解説の巧みさに、私たち夫婦は彼女のファンとなっていた。昨年までは“事務局長”と紹介されていたが、今年は肩書きなし。ひょっとしたら定年退職し、再雇用の身となったのかもしれない。
 その彼女の説明。回向院は明暦の大家で亡くなられた10万あまりの江戸市民を回向するために作られたお寺。午後に行く、東京都慰霊堂は、関東大震災で命を落された10万もの御霊をお祀りし、合わせて東京大空襲で命を奪われた10万人の慰霊のお堂です、と。ここまで聞いて漸くに悟ったのだ。江戸時代から今日まで、現在は東京と呼ばれるこの地で、起こった阿鼻叫喚の地獄を。(写真:回向院)

 1657年には 明暦の大火 1923年には関東大震災 1945年には3月10日を中心にした東京大空襲。そのときの難に遭遇された方々を祀るモニュメントが両国に集中しているのだった。私たちには無縁の出来事と思えるかも知れないがさにあらず。母は関東大震災時、学校から命からがら逃げ帰り、東京大空襲では私たち一家は、B29の爆撃の焼夷弾が炸裂する中を逃げに逃げ、逃げ切って今日がある。30年以内に南海トラフ地震の起こる確率が60~70%と言われている。
 回向院についての彼女の解説。時の4代将軍家綱は焼け落ちた江戸城天守閣の再建には着手せず、江戸の町の復興に全力をあげた。火除地や延焼を遮断する防火線としての広小路(例えば上野広小路)の設置。類焼を避ける為の土塀の採用。大川には橋が少なかった故に多数の死者が出たことの反省に立っての、両国橋や永代橋の架橋。話の流れが淀みない。(写真:右が梶原さん)


 今回の参加者は32名。新協建設4名と合わせて36名で、47名には11名足りないが、一行は次いで「吉良上野介屋敷跡」に向かった。当時の屋敷は幕府に没収され、1934(昭和9)年に土地の有志が「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、現在は「本所松坂町公園」。

 その後、江戸東京博物館へと歩を進めた。まずは7階にあるレストラン「桜茶寮」での昼食。このお店に入るときには「江戸東京博物館」常設展のチケットも配られた。昼食はメニューで確かめると1700円。とすると常設展への、65歳以上の入場料300円を合計して2000円掛かるところを、参加費1500円は安いと大満足。これも「訪ねる会」人気の秘密と納得。(次回ブログに続く)
 



    (吉良邸跡は本所松阪公園)


















首相官邸前で

2014年06月20日 | 身辺雑記

 安部首相は集団的自衛権行使容認を可能とする憲法解釈変更の閣議決定を強行しようとしている。
 日本の将来に関わる大問題を、時間をかけて討論し、国民に問うことなく、決定しようとている。国の根幹を定めた憲法が、時の政府の恣意的解釈で変えられようとしている。それによって日本が戦争に巻き込まれ、戦争を開始する可能性が生じることが心配だ。
 そんな危機感を抱きつつ、6月3日(火)には「戦争をさせない1000人委員会」の講演会に参加し、法政大学の山口二郎氏の講演を聞いた。しかし、今は学ぶ事よりも行動の時と思い至り、遅きに失した感はあったが、重い腰をあげ、17日(火)から今日20日(金)まで、主として、首相官邸前での早朝の抗議行動に参加してきた。「1000人委員会」の呼びかけた行動提起だ。平日の朝8時開始の集会とあって参加可能者は限られるが、200人を超える人々が、官邸目がけて
シュプレヒコールの声をあげた。私も久しぶりに大声を出した。


 安部首相の姑息な方法をまず指摘しておきたい。昨年は憲法改定を巡って「まず憲法96条の2/3条項を変え、その上で憲法改正したい」旨の発言をしてきた。すなわち憲法9条の平和条項を容易に変える目的での96条の改定。これは”裏口入学”と揶揄され、まったくの不評で、慌ててこの方法は断念した。

 今年は、集団的自衛権を閣議決定する方向で動き始めた。
 当初、高村自民党副総裁は、砂川事件の最高裁判決の一部「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、・・・」を引用し、ここに述べられた自衛権を集団的自衛権と拡大解釈したが、多くの学者・識者からその無知を指摘された。
 そこで、政府は次に、1972年の“自衛隊に関する政府見解”を持ち出してきた。「・・・、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない・・・」で、集団的自衛権を認めて来たとの論を張り出してきた。しかしこれも姑息な論法である。実は政府見解は、それに続いて「・・・わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっている、・・・」とあるのだ。集団的自衛権を歴代政府は認めていない。
 集団的自衛権の可否を巡る内容を論じる以前の問題として、解釈によって憲法を変えてしまう”解釈改憲”の手法に対しても多くの人は反対しているのだが、予断は許さない。(写真:集会が行われていたこの時間帯、サッカー日本代表はギリシャと対戦していた。この様な宣伝幕を作り活動する方の演説)

  
                  (宗教団体からの参加者も旗を持っての参加)