マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

光円寺を訪ねて

2017年08月31日 | 東京散歩

 「不染鉄」展を観終え、帰宅して直ぐに光円寺が何処にあるのかを調べた。小石川植物園正門からほど近く、関口パン店からの帰路に下る吹上坂からも、銭湯「白山浴場」からも近かった。通勤時に通る千川通りからそう遠くなかった。要するに私の生活圏の中にあった。
 早速、翌日のラジオ体操終了後、浄土宗光円寺を訪ねた。地図からは簡単に行き着くと思い込んだが、実際に探すと、辿り着くまでにかなり時間を要した。大通りから入り込んだ、共同印刷の裏手にあった。
 
光円寺の経営する明照幼稚園の広い庭には大きな銀杏が4本植えられていたが、これが例の巨木ではない。それに境内の何処を探しても、光円寺や不染鉄の謂れを書いた立て看板がない。困ったなと思っていると、住職のお内儀と思しき女性が人を見送りがてら、玄関から出てきた。これ幸いと「昨日、不染鉄展を観て来たものですが、そこに描かれていた銀杏の木と、鉄さん縁のものを捜しに来ました」と語ると、「それではご案内しましょう」と相成った。(写真:現在の銀杏もかなり大きい)










 まず案内されたのが、かつて”お化けいちょう”と呼ばれた巨木。「前の戦争の際に空襲にあい、焼かれてしまいました。でも残っています」と。いちょうは辛うじて、幼稚園校舎脇に命を留めていた。上部は保存してありますと、次に案内されたのが、下の写真の巨木跡。(写真:右が「お化けいちょう」の生き残り)

      

  
次いで不染鉄のお墓も教えて頂いた「母だった梅田家の墓に眠っています」と。住職を継がなかった不染鉄は、父側ではなく、母側の墓に葬られていた。鉄は死後献体を希望し、奈良医大で解剖された。それ故墓には、遺骨ではなく遺髪が葬られていた。墓石の側面には戒名が彫られ「哲」との文字が見えた。それにしても何故母側の梅田家の墓なのだろう、湧いて来た疑問。(写真:右が梅田家の墓:下は不染鉄の戒名)

   

 「
あの絵に描かれていた観音様にもご案内します」と導かれていったのが右の、小さな観音像。鉄が幼い頃に見上げた巨木と小さな観音様が、不染鉄のイメージの中で融合し、一枚の絵に描かれたのだと思った。お内儀のご親切に感謝しつつ寺を後にした。
 帰宅後色々調べた。鉄は、住職だった父不染信と、檀家の、とある未亡人との間に、1891年に生まれたと書かれていた。不思議なことに、不染を名乗る父と、梅田の姓のままの母と間の子どもだった。

 戦前、都内では2本の巨木銀杏が有名だったとか。一本は光円寺の、もう一本は麻布山善福寺の”逆さ銀杏”が。善福寺なら6年前に富士前福寿会の3人で訪れたことがあった。それ故、その巨木と肩を並べる”お化けいちょう”の大きを想像することが出来た。

 


「不染鉄」展を観る

2017年08月29日 | 映画・美術・芝居・落語

 私の術館情報は、殆ど妻から回って来たもの。「不染鉄」展のパンフレットは出光美術館に置かれてあった数種類パンフレットのなかでも特に面白そうな展示とのことで、「観に行かない?」と誘われたのは7月の事だったか。






 
パンフレットの裏面には、冒頭に“不染鉄を、ご存じですか。”とあった。ご存知のはずがないと思いつつ先を読み急ぐと、そこには波乱万丈な経歴が書かれてあった。表面の《山海図録》も不思議な絵で、単に富士山俯瞰図ではない。手前には伊豆半島や真鶴半島と思しき図が描かれ、富士山の向こうには日本海が微かに見えている。雪山も人家もが一枚の絵の中に描かれている、想像上の一幅。(右写真:山海図録)
 これは面白そうだと思い、前売り券を頼んでおいた。妻が誘ったのは私だけではなく、妻の友人のトモさんも。という訳で、823日(水)、3人で「東京ステーションギャラリー」に出掛けて行った。


 展示は経歴紹介から始まっていて、“生まれたのは小石川にある光円寺”の一文が強烈だった。その寺が何処にあるのかは知らないが、そのお寺まだあるならば、直ぐにでも訪れたいと思いつつも経歴を読み進めた。不染(ふせん)とはペンネームではなく、レッキとした家名らしい。
 「不染鉄[明治24(1891)年~昭和51(1976)]は、稀有な経歴の日本画家です。20代初め、日本芸術院研究会員になるも、写生旅行に行った伊豆大島・式根島で、なぜか漁師同然の生活を送ります。しかし、3年が経つと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。特待生となり、在学中第1回帝展に入選、首席で卒業した後も、度々帝展に入選を重ねますが、戦後は画壇を離れ、奈良で晩年まで飄々と作画を続けました。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。その画業の多くは、謎に包まれてきました」とあった。(写真:薬師寺東塔) 
 東京初の回顧展となる本展では、その謎に迫ろうと、代表作や新たに発見された作品を中心に、およそ120点が展示され、幻の画家不染鉄作品の魅力が語られていた。




 不染が晩年に至るまで描き続けた画題が家だった。不染の、郷愁に彩られた絵から私が感じたのは懐かし日本的的景色だった。あかりの灯る古い家屋。漁村の生業。古都奈良の薬師寺東塔や唐招提寺の幻想的な作品。取り分け見続けたのが右の《いちょう》。不染鉄(本名は哲治)が生まれ育った光円寺に聳え立っていた銀杏。添文には「不染鉄は友だちとこの境内にあるいちょうの木の周りで遊んだであろう。見上げるよう巨木は“お化けいちょう”と呼ばれていた。鉄の幸せなイメージのモティーフはこのいちょうから来ている」との趣旨が書かれていた。根元には小さな観音様。



 実は、翌日にその巨木と観音様を見ることになるのだが、それは次回ブログに。(右写真:上図の拡大図。以下は作品の何点か)



 

              


八月納涼歌舞伎を観る

2017年08月27日 | 映画・美術・芝居・落語

 Mさんから歌舞伎のチケットを貰らい始めてから7年にはなる。そのお陰で、全く知らなかった世界を覗くことが出来た。少なくも50回は新橋演舞場や歌舞伎座に足を運んだと思うが、終わりの時が近づいてきた。
 8月の歌舞伎座は満員に近い入りで、着物姿の女性と外国人の姿が目についた。
 8月21日(月)に観た「八月納涼歌舞伎」第1部は次の2本立てだった。
 1 「刺青奇偶」(いれずみちょうはん)
 2 上「玉兎」
 
   下「団子売」






 「刺青奇偶」は長谷川伸原作の新歌舞伎だが、初めて観る芝居だった。主人公は、博打好きの半太郎(中車)と、彼に惚れ込んだお仲(七之助)。賭博で江戸を追われた半太郎は下総行徳で、身投げをした酌婦お仲を救います。助けられ、会話を交わす内に半太郎の人柄に惚れたお仲は、江戸へ戻った半太郎の後を追い、押しかけ女房となり、品川の漁師町で所帯を持ちます。
 しかし半太郎の賭博好きは一向に止まず、重い病の身となったお仲。二人を待っていたのは貧しい暮し。自分なきあとの半太郎のことを思い、何とか賭博を止めさせようと、半太郎の右腕に骰子の刺青を彫り、賭博をやめるよう哀願します。
 一度は止める決心をした半太郎ですが、再び賭場へと。お仲の療養費を作り出そうとするのですが、逆に全てを失い、「イカサマだ」といちゃもんをつけたが故に、博徒たちに袋叩きに合います。




 それを救ったのが鮫の政五郎(染五郎)。腕に彫ってある骰子の謂れを聞いて、政五郎の持つ大金と半太郎の命を掛けた大博打に・・・。

 命がけの生き方をする半次郎と、その役を演じる、直情怪行な生き方をしてきた中車が何故かオーバーラップします。はまり役と言っていいでしょう。何時もは七之助の相手役は勘九郎でしたが、今回はその中車の半太郎を相手に情愛深いお仲を七之助が好演していました。
 
見どころが2ヵ所。刺青を彫るときの半次郎とお仲の関わり合いと、最後の賭博に至る、鮫の政五郎と半太郎のやり取り。1階の最後尾の席ながら、双眼鏡で二人の表情をじっくり見ていると席の位置を忘れかけたのでした。

 2の上下はともに舞踊で、「上」は勘九郎の息子勘太郎の一人舞台。月に住む兎が餅をつく様を勘太郎が健気に舞い、無事踊り終わると大きな拍手。「下」は仲の良い団子売夫婦、杵造(勘九郎)とお福(猿之助)が演じる夫婦の、息の合った、軽快な踊り。1時半には終演で慌てることなく熱海へと向かった。 


熱海再訪

2017年08月25日 | 

 8月18日(金)に、友人のMさんから「21日(月)の歌舞伎座の1部の上演チケットがあります」とのメールが届いた。喜んで手帳を見ると、その日は「ハーヴェストクラブ熱海伊豆山」へ出発する日。久し振りの歌舞伎座は夢と去った、と落胆は大きかった。しかし、妻が“1部”に気が付いた。8月の「納涼歌舞伎」が3部構成ならば、1部の終演は意外に早いのではないか。調べると14時にはハネていて、好都合な事に、歌舞伎座の「銀座四丁目」バス停と、東海道線停車の新橋駅は都バスで2停留場の至近距離。これなら十分間に合うと、チケットを頂き、8月21日(月)の午後熱海へ。ジパング倶楽部の3割引もこの日から解禁。

 熱海は大きく変っていた。ホテルそのもの様子は何度か書いたので、今回のブログは最近熱海情報と伊豆山神社を綴る。(写真:ホテルベランダからの撮影)
 昨年11月25日に「ラスカ熱海」がオープンしていた。改札右手横に3建ての細長い建物が造られ、熱海の新たなランドマークとなっていた。「成城石井」や「ベーカリー&テーブル」など36の店舗が軒を連ね、古い時代の雰囲気を感じさせた景色は退場し、便利でお洒落な駅ビルの登場だ。駅前には足湯も。
 
伊豆の特産品を集めたマルシェ「伊豆・村の駅」を始め、「菓子舗間瀬」(和洋菓子)、「釜鶴ひもの店」、「岸浅次郎商店」(漬物)、「伊豆太郎」(和食店)など地元の名店が出店し、地元の食材を使ったレストランも多数。






 その中で2階フロア―の半分を占める「ベーカリー$テーブル」に2回も行ってしまった。芦ノ湖畔にある、このお店の箱根店カフェは超人気のお店。1回目は22日の朝食用のパン購入のために立ち寄り、2回目は帰りの列車待ちの際のコーヒーブレイクに。右写真の広々とした店内で焼きたてのパンの数々が味わえる。特に人気商品が「カレーパン」(290円)。カレーパンは中にゆで卵が入っていて、辛さのなかに甘み感じられる。パンの生地は中がもちもちで、表面はカリッっとしいる。これはお勧めの一品。(下の写真は、左カレーパン。右は店内で撮影)



  
 22日の昼食には駅前商店街の平和通りの「KICHI+」で三食しらす丼(1300円)を食した。釜揚げしらす、生しらす、生桜エビの3種類をワサビ醤油と辛子醤油で食する。
 
 変わったと言えばMOA美術館もリニュアルオープンし、レストランが更によくなったとのこと。






 22日の早朝に「伊豆山神社」にお参りした。普通国道135号から600段くらいの階段を昇るのだが、私は車道の坂道を行き、昇り階段は180段のみ。朝6時の社殿に人は疎らで森閑としていた。長き歴史を持つ神社。今回はその辺の事情は何も学ばずに、相模湾を望んだだけで600段の階段を下って帰ってきた。

  

     


算数ドリルを作る

2017年08月22日 | 数学

 85日(土)に、昔からの知り合いのHさんに誘われて、豊島区にあるお宅へ「板橋の花火」を観に行った。マンション11階にある、広いベランダから花火が良く見えるとの事で、お宅では数人のゲストを招いての、年中行事らしい。お宅と戸田橋の直線距離を測ると5km以上。良く見えることに半信半疑の思いを抱きながら、体調不良の妻を残し1人花火鑑賞に出掛けた。

 花火ばっちりと大きく見えたのでありました。
 私が到着した時には既に宴は始まっていて、女性が6人ほどに男性が3人。お宅のご夫妻に私が加わり12人ほどの集い。私は「こちらの方は元高校の数学教師」と紹介されて、輪に加わった。後で考えると、この一言が物語の遠因だった。手作り料理の数々にワインや吟醸酒。楽しくやっているうちに花火の音が聞こえ始め、広々としたベランダへ移動。こちらには椅子席が設えてあり、飲みながらの花火鑑賞会は盛り上がった。今年初めて見る花火、北の空に、赤い大きな円が見事だった。
 

 私は置き去りにして来た妻の手前、早目に帰宅をと思い「お先に失礼します」と相成った。靴を履きかけていると、女性が近づいてきて、「子どもが算数が苦手で困っています。どうしたら良いのかヒントを下さい」とのこと。私が元数学教師と知っての行動だった。とっさの問に応える訳にもいかず、後日のメールを約束して別れた。帰宅のバスの中で、同じような質問を何度か受けたことを思い出していた。数学ならば私が家庭教師に出向くことが度々あった。小学生の算数の場合に上手い答えを出せないで終わったこともあった。
 「算数苦手」は普遍的なテーマである。ふとエクセルを用いて算数ドリルが出来ないだろうかと考えた。自分で言うのも何んだが、最近はエクセル習熟のレベルが以前より上がっている。翌日、件の女性にメールして子どもさんの学力レベルを聞いた。小学2年生の息子さんは特に引き算が不得意とのこと。そこで「引き算」と「足し算」の算数ドリルをエクセルを用いて完成し、ファイル添付した。

 右の図がそのドリルを使用しての、例えばの結果。問題が30題ほどあり、パソコン上で解くようになっている。ファイルを立ち上げた時に毎回問題が違うように、ランダム関数を用い、その後の、その数値化は相手側にお願いした。子どもさんは喜んで問題に取り組み始めたと聞いて、私はホッとした。(写真:引き算ドリル)




 数日して、相手側に操作をお願いした部分は「マクロ」で組めるはずと思った。10年ほど前「数独」解法を、エクセル上でやる様にしたときはマクロに組めた。エクセルのバージョンがアップしていることと、こちらの老齢化が進んでいることもあり、マクロの組み方を思い出せなかった。本箱の奥の方に仕舞っておいた「エクセルマニュアル」を再読し、漸く解決に至った。汎用性の高いドリルが出来上がったと思っている。(写真:足し算ドリル)

 難しいはずの母国語習得には幼い頃に「言語をシャワーの様に浴びる」ことが決め手らしい。私の狙いも算数問題をシャワーの様に浴びて貰うこと。いずれ結果をお聞きしたいと思っている。(下の写真:私が大事と思っている10からの引き算も簡単に作成可能)