マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

サントリー美術館で『遊びの流儀』展を観て考えたこと

2019年07月31日 | 映画・美術・芝居・落語

 一昨日の29日(月)、妻とサントリー美術館に出掛け、『遊びの流儀』展を観て来た。
 展示冒頭に、この展示の概要が次の様に紹介されていた。《「遊びをせんとや生まれけむ」とは『梁塵秘抄』の有名な一節です。この展覧会は美術のテーマとなった「遊び」に着目し、双六やカルタ、歌謡やファッションなど、男女が熱中した楽しみごとの変遷をながめます。とくに近世初期の「遊楽図」における屈指の名品の数々が一堂にあつまり、暮らしと「遊び」とのかかわりを探るかつてない機会となります》と。
 「遊びをせんとや生まれけむ」。いきなり私の大好きなフレーズが登場し嬉しくなった。この展示を通して、この国には昔から何と多くの遊びがあったかを知ると同時に、それら遊びを描いた名品観賞は実に楽しかった。特に海北友松の「琴棋書画図屏風」(重要文化財)と「婦女遊楽図屏風」(松浦屏風。国宝)は色鮮やかで美しいと思った。
 ただ今日のブログではそれらのことはここまでにして、「松浦屏風」に登場する双六について書いておきたい。「松浦屏風」については2017/5/21のブログで「大和文華館へ」と題して、そこで観た「松浦屏風」に触れて、六曲一双屏風の右隻の右端に描かれた双六について書いていた。(写真右松浦屏風。下はその中の双六)
  
 そこで私は「双六は今でこそ正月の子供の遊びに変わってしまったが、・・・」と書いていたがそれは大きな間違いだと気付かされた。
 江戸時代には既に双六には、盤双六と絵双六と呼ばれる2つの双六があったらしい。絵双六はサイコロを振って出た数だけ駒を前に進め、上がりを目指すゲームで、現在でも数人で遊ばれている。
 盤ゲームこそ「松浦屏風」にも
今回の展示にも登場した遊びで、絵画に登場するだけでなく、ゲーム盤も展示されていた。そのゲームは平安時代には賭事に使われ、平安人が熱中し過ぎて、何度も禁止令が出たらしい。しかし面白いものはお上がいくら禁止してもそう簡単には無くならかった。だから江戸時代まで遊びとして生き残り、絵画にも描かれた。ただ不思議なことに現在では殆ど遊びに使われていないらしい。



 展示途中で双六(盤双六)はバックギャモンと源流を同じくすると知って驚いた。盤双六とバックギャモンが同種とは!バックギャモンの詳しいルールは知らないが、そのボードを見たことがあり、有名な選手を知っていた。将棋の片上大輔七段である。又、少し本を読んで、ゲームは2人で争われ、毎回サイコロ2個を振るゲームで偶然に左右されるが、戦略が大事とも知った。(写真:今回展示されたもの。西洋双六盤とある。バックギャモンについては次回に)

 今日の一葉:30日不忍池で撮影

 


花火鑑賞会は懇親会に変更

2019年07月29日 | 身辺雑記

 一昨日の27日(土)は、恒例の隅田川花火大会の日だった。27日に大会を実施するか否か、大会本部は随分迷っただろうなと思う。それに対応するかのように、我がマンションの「隅田川花火鑑賞会」の実行委員長の私も大いに迷った。元凶は突然出現した台風6号だ。
 数日前の天気予報は「梅雨明け後は数日間晴天が続く」で、27日の晴天を全く疑わなかった。しかし7月26日(金)、潮岬の南にあった熱帯低気圧は台風となり、意外に早く列島に上陸との予報に変わった。27日に予定の隅田川花火大会の、開催か中止かは当日の朝8時に発表されるとのことだった。
 しかし当日8時には何の発表もなかった。大会本部のホームページをしつかり読むと「何の発表もない場合は開催」と読め、開催方向と知ったが、「ただし、天候次第では中止もあります」とのことだった。この文章が私を悩まし
た。こんな最終判断があるのだろうか。結論を先延ばししただけではないか。午後2時になってからの中止では困るのだ。その日到着予定の生ビールの到着日変更は12時までにと言われていた。悩んだ末、理事さん達には実施の方向で準備を進め、万一中止となったらエントランスでの懇親会に変更、との了解を取った。
 正午前、理事長から連絡があり、風が強くなってきたし、大会開催時にはもっと強くなることが予想される。花火大会は風の影響で中止もあり得るし、風の影響をもろに受ける屋上での開催は無理ではとの話だった。数年前に、調理した焼そばが飛んでったことを思い出した。そこで屋上での開催を諦めてエントランスでの懇親会に変更した。花火を鑑賞したい人には随時屋上に上がってもらえばいいとも考えた。

 懇親会には中国人やフランス人も含め、延べ40人以上の参加があった。管理人さんは即席の椅子を造ってくれた。小学生のいるお宅が4家族参加し、これで会場は凄く賑やかになった。生ビールは泡ばかりが出て不満だった。ピザと唐揚げは大人気だった。妻が自宅で作った焼きそばは携帯連絡が入ると私が取りにいった。これも好評だった。冷たいスイカを差し入れてくれるお宅もあった。(写真:急遽作られた懇親会会場)
 エントランスは本郷通に面している。通りすがりの人は一体何をやっているのか不思議そうな顔をして通り過ぎて行った。あちこちで会話の輪が出来た。私は途中から参加の小林さんと日本酒を中心に楽しく飲んだ。皆さんも楽しそうで、後片付けなどにも積極的に加わってくれた。屋上には10名ほどの人が昇ったようだった。
 花火大会の方は90万人以上の人出で
賑わい、無事終了していた。
 27
日は、悩みのち楽しく終わった。しかしは母校小山台高校が昨年と同様、全国高校野球選手権大会の東東京大会決勝戦で敗れたことが凄く残念だった。

 

 


広尾から有栖川宮記念公園を経て麻布十番へ

2019年07月27日 | 身辺雑記

 都高教退職者会主催の「東京歴史散歩」の主舞台を麻布界隈と決め、もう何回かこの近辺を歩こうと、7月24日(水)には日比谷線広尾駅を起点にして有栖川宮記念公園などを散策してきた。
 広尾駅→有栖川宮記念公園→南部坂→ありすいきいきプラザ→フィンランド大使館→旧松方正熊邸→アルゼンチン大使館→仙台坂→大韓民国大使館→善福寺→賢崇寺→麻布十番 と回って来た。

 広尾駅から公園に行くには「天現寺橋方面改札」利用がベストだった。そこから徒歩で5分足らずで公園入口(広尾口)に至る。その地点に立って台地側を眺めると、右手側に上っていく坂が南部坂で、左手側に伸びているのが木下坂だ。この地は、江戸時代盛岡藩主南部美濃守の屋敷だったことから、右手南側の坂は南部坂と呼ばれ、左手北側の坂は、坂の途中に大名木下備中守の屋敷があったことから名付けられたそうな。その二つの坂に挟まれるようにして公園はある。(写真:南部坂)







 入口にはこの公園の由来と特色が大凡次の様に書かれていた。
 《江戸時代大名屋敷だったこの地は明治29(1896)年に有栖川宮御用地となり、更に大正2(1913)年には高松宮御用地となり、昭和9(1934)年には御用地の36.325平方メートルを公園地として東京府に賜与した。府は同年11月17日有栖川宮記念公園と命名し開園した。(写真:右が江戸時代の地図から。下は現在に公園近辺の地図)
           


 本園は都心にはまれな閑静な地で、丘陵から渓谷を下り池畔に至る地形の変化と、うっそうとした樹木など日本古来の林泉式の修景により、高雅な自然趣味の庭園となっています》と。 
 
本当に、この公園は何度来ても心安らぐ、都心のオアシスだ。麻布台地の地形を上手に生かした日本庭園の高台には、児童コーナーや広場や中央図書館があり、低地部には深い緑に囲まれた池がある。訪れた日、高台の広い広場では子どもたちが元気よく遊んび、グランドでは指導者について十数人の少年が何やらゲームに興じていた。どちらにも外国人の子供が混じっていた。

 この地には外国の大使館が多い。東京には大使館は120以上あるそうだが、南麻布だけで40以上の大使館があるとか。それゆえ外国人の子どもが多い訳だ。麻布近辺では外国人居住者が20%とか。
 かってこの地には大名屋敷・武家屋敷や寺社が多数存在していた。初めてのアメリカ公使館が善福寺に置かれたことに象徴されるように、大使館は大名屋敷ではなくお寺に置かれたそうな。明治に入ると、明治政府は麻布や赤坂の大名屋敷の跡地を大使館として活用するようになったとか。
 「歴史散歩」の当日、どちらかの大使館を見学させて頂ければと考えているが敷居は高そうだ。
 

 
 


『観音さまに逢いたい』 第167回奈良学文化講座を聴く

2019年07月25日 | 仏像

 7月17日(水)に奈良学文化講座に参加した。その後輪投げ大会や高水三山縦走などがあり、書きそびれているうちに、この分野に詳しい妻が、とあるところでその感想を書いていた。なるほどそうだったかと思える内容で、今日はおんぶにだっこでそれをそのままこのブログに載せた。





 『「霊木の来た道(西山克氏講演 奈良学文化講座・観音さまに逢いたい」
 その奈良学講座は、主として奈良でだが、東京での講演があると、時に、聞きに行く。

 今回は、7月17日。18時からだが、開場の17時に行ったら300人位並んでいたか、驚いてしまった。観音様は、講演でも圧倒的吸引力をお持ちなのかしらね。聴衆は圧倒的に年輩の男性で、ちょっと珍しい。
 講演2つの他に、間に10分ほどの長谷寺の声明と風景紹介の映画が挟まれ、結構イメージ化に役立った。

 講演は、西山さんのを書きたい。知っていること、知らないことが繋がって、心地よかった。
 パワーポイントで、画面に纏められていることに、お話が加わり、慌ててメモすることになる。考えを及ぼす。なかなか楽しい。

1 まずは、観音さまに会いたい、となるとどうするか。例えば、熊野の勝浦、外部と遮断された塞がれた船に乗った僧が、補陀落浄土を目指して行ったという渡海行、誰にもできるわけはないから、

2 聖地巡礼、西国観音巡礼となる。現在、一番青岸渡寺 結願華厳寺 だが、長谷寺が一番のルートもあったとか。そう言えば、昔巡った時に、長谷寺参道の近くに、「三十三所の巡礼を広めよ」と、閻魔王から言いつかった(718養老2)徳道上人の霊廟を祀ったというお寺があったっけ、と納経帳を見たら、結願のすぐ後にありました。




3 縁起によると、この10m以上あるという観音像(現存は16世紀再建)は、517年三尾明神の守護する恐ろしく祟りをなす霊木が、琵琶湖に流れ出し、停留地はことごとく疫・飢饉など祟られ、人々は初瀬まで曳き運ぶ(御柱みたい? 西山さんは、「川じゃないか。瀬田川宇治川淀川大和川初瀬川」。賛成、当時の大幹線です)。伝説の仏師、地蔵と観音の化身の稽文会・稽主勲によって、祟る霊木から霊験あらたかな観音が誕生する。日本人には、祟る鬼神の力で助けてもらうという発想があるらしく、恐いほど、味方になったくれたら験があって万歳、らしいね。
 

    
4 長谷同木信仰 木彫仏の材料を御衣木(ミソギ)と言う。長谷観音と同じ御衣木を使ったという信仰だが、すぐ思い出したのは鎌倉の長谷寺で、小学校の遠足で聞いたお話。霊木の半身がこれだって。小学生、信じましたよ。随分遠いなぁと思ったけど。西山さんは、大坂の葛井寺のホンとは乾漆の千手観音、香川志度寺の十一面閻魔を紹介された。

 最後に西山さんは、観音さまに会うことで、誰かに会っている。誰に会いたいですか と問われた。誰だろ。』

 今日の一葉:受講の帰りに芝公園から見る東京タワー
  
 


高水三山へ

2019年07月23日 | 山旅

 7月21日(日)、またまた僥倖に恵まれて、梅雨まだ明けぬ日々の一日に高水三山に登ることが出来た。
 この山行を1週間前の14日(日)に予定していたが、雨天の為延期していた。その後天気予報を何度も見るが、21日の青梅市の天気予報は雨。この日が雨天ならどうしようか、中止か再度の延期かなど悩ましかった。ところが2日前に予報は曇りに変わった。近辺の御岳山の山岳天気予報を見ても曇り。ならば山行可能かもしれないと踏んで、兎も角スタート地点の青梅線御嶽駅に集合することにした。
 この日、草野さんと私は新宿6時46分発の「ホリデー快速おくたま1号」に乗車。三鷹から若菜さんが合流し、3名は8時07分御嶽駅着。幸運なことに雨は降っていなかった。これならば行きましょうと8時15分頃スタート。
 御嶽駅(標高250m)→惣岳山(756m)→岩茸石山(793m)→高水山(759m)→軍畑駅(250m)と回り、13時過ぎに下山完了した。コースタイム4時間25分のところ、休息・昼食を入れて約5時間を要していた。
 標高差は550m程度だが、アップダウンが何ヵ所かあり、800mは登ったかなと推定している。私の歩数計はこの日29428歩を記録していた。雨には軍畑駅付近まで戻って来た時に少々降られた程度。(写真:御嶽駅)


 まず個人的なことを記しておくと、最初の惣岳山までの登りは比較的順調だった。しかし高水山からの下山には足の爪先が靴に当たり痛かった。それに何度か足が攣りそうになった(”68”を忘れて来ていた!)。その両方で苦しんだ。日頃、坂の上り下りで訓練している積りだが、今回のように250m程度の一気登りは昨年の会津駒ヶ岳以来遠ざかっていた。脚力維持の努力が足りなかったと思い知らされた。鳥海山に向けてこの事前山行をやって良かったと思った次第。(写真:下は高水山山頂で)




 高水山を含めこの三山を高水三山と呼ぶ。高水山が盟主的位置にあるのだろう。この縦走時に3つの寺社に出合った。惣岳山山頂には青渭神社が、高水山頂直下には常福院が、下っては高源寺があった。分けても常福院は真言宗安楽寺の末寺で、堂々とした山門を持ち、不動明王が祀られ、4月には獅子舞が奉納されるそうな。登山路には”八合目”などと書かれた石碑もあるほどだから、定期的にお参りに来る人も多数いるのだろう。この常福院が存する高水山こそ盟主と思った次第。(写真:常福院山門)

 
 杉の樹林を抜きにこの山は語れないと思う。尾根を歩く際、進行方向の右手の急な斜面には多数の杉の木が植林されていた。反対側の左手には樹齢何百年という古木が。多数伐採されつくされた斜面も見えた。
 この高水三山縦走コースは奥多摩登山の入門に最適と言われている。そこからこの山を甘く見ていたのではとの感想があった。昼過ぎには降り来てランチビールかなどと言う御仁もいたし、私もそれを期待してしまった。
 帰路は立川駅ビル内「随園別館」で一献傾けた。