マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

友を見舞って

2018年02月27日 | 医療

 一昨年の大晦日、40年来の友人Tさんが突然に意識を失って倒れ、救急車で運ばれた。病院のベッドに到着するまでに2度の心肺停止。原因は肺塞栓症(はいそくせんしょう)だった。
 肺塞栓症とはエコノミークラス症候群とも呼ばれ、心臓から肺へ血液を運ぶ血管である肺動脈に、血液の塊や脂肪の塊が詰まり、肺動脈が閉塞してしまう病気とは後日に知ったこと。彼女の肺塞栓症はその後のCT検査の結果「血栓はごく小さくなっており血流に問題はない」との診断がされたが、心肺停止の影響は甚大だった。
 
2月に、夫さんから来たメールには「手足・声・排泄・食事は他人の世話無しには出来ません」と書かれ、その段階では「お見舞い・面会は遠慮願っています」とのことだった。今後のリハビリにもよるだろが、体の自由を失う可能性が強いと感じられ、介護の大変さやご家族の心中は如何ばかりかと思われた。本人の無念さを思うと私も辛かった。

 その後転院を繰り返すようになり、なかなか落ち着かないこともあり、お見舞いに行くことは叶わなかった。
 10月になり、
夫さんから来たメールには「急病以来既に10ヶ月経過しました。が、その後大きな変化はありません。転院すること4回目で漸く現在の介護付有料老人ホームに落ち着きました。小規模ホームですが看護師・介護士共に親切でアットホーム的雰囲気は悪い感じがしません」と書かれていたが、お見舞いOKとまではいかなかった。
 
11月にお見舞いに行った方がある事を知り、2月のある日、元同僚3人でお見舞いに行って来た。

 実は私は、早くお見舞いに行きたいとの思いとは逆に、お見舞いに行くのが怖くもあった。彼女とは、職場の仲間と一緒に山や温泉に何度も行った。二人とも子連れ参加の温泉行もあったな。それと別に、職場での分会活動での”戦友”でもあった。指示通りのストがきちんと打てない職場で”指示通り”を提案した少数派でもあったな。
 彼女に誘われて、「有機農業運動」を目指す会の一員に加わり、山形へ援農に行たことも何度かあった。倒れる前2ヶ月前には、その「創立30周年記念行事」で一緒に赤湯温泉に行って来たばかりだった。
 積極的に行動する彼女にはまだまだやりたいことが沢山あったはず。彼女の無念さを思うとその現状を認識するのが怖かった。

 介護付き有料ホームは周りに畑などあって、長閑な雰囲気の土地の中に建っていた。
 彼女は穏やかな表情でベッドに横になっていた。か細い声しか出せなかったが耳は良く聞こえるらしかった。私はタブレットに取り込んで来た、昔の写真30葉ほどを見せた。懐かしかったのだろうか何度も頷いていた。
 お見舞いに行ったのが同じ職場の同僚3人。夫さんも加わり、彼女も知る昔話を、私達4人が語るのを彼女は聞いて、時々笑った。穏やかに、にこやかに笑った。50分ほど過ごしただろうか、帰り際に夫さんを通じて彼女は「又来てね」と言った。
 帰宅して数日後、娘さんから、同行したAさん宛てにメールが届き、Aさんから私へのメールには「私たちが行って数日たってからも、この間楽しかった?と聞くと、ちゃんと覚えていて、楽しかったと言っていたそうです。また機会があれば再訪しましょう」とあった。


輪投げ大会4連覇

2018年02月24日 | 文高連

 2月20日(火)に行われた、文高連主催の第31回輪投げ大会で、私達の富士前福寿会チームは4回連続の優勝をすることが出来た。参加51チームの頂点へ。今までに3連覇したチームも4連覇したチームも無い。快挙だと思う。予選突破も出来なかった私達のチームがよくぞここまで来れたなという思いも強い。

 過去4回の優勝を振り返れば、28回(その時の得点610 以下同じ)、29回(589点)、30回(605点)、31回(600点)と、チームの目標点600点を3回クリヤ―し、平均点も601点と”高値安定”していることが分かる。
 しかし前3回は先行逃げ切りで、緊張場面をあまり迎えることなく勝利していたが、今回の結果は、最下段に掲げた
エクセルのグラフ2つにも見られる様に、かなり出遅れてしまった。最終ゲームを前に第1位を行く「播磨坂クラブA」との差は5点。最終ラウンドでの辛うじての逆転優勝だった。

 競技終了後、応援団(1名)と選手5名の合計6名で優勝祝賀会。いつもながら美酒だった。5連覇したチームに「永世輪王」の称号はどうかなどの冗談も飛び出した。
 しかし、参加者5名を得点順に並べると、159・145・120・93・83で、その83点が私。美酒ながらワインは辛口の味がした。このゲームのチームへの貢献度は一目瞭然。得点そのものが語ってくれる。私の貢献度は一番低かった。
 ただ面白いことに、逆転を果たした最終6ゲームに於いて、私の前に投げた3人の点数が平凡で、優勝はほぼ諦めた時点で第4投者の私の出番となり32点。最終投擲者熊坂さん20点で、その二人の好結果が逆転へと繋がった。“あれがあったから優勝出来た”との言葉は私を慰める配慮かも知れない。第32回大会は7月のはず。

 昨日は台東区リバーサイドスポーツセンターで「城北大会」。この大会での私の得点は過去最低。フォーム改造を考えねばならない地点に来てしまった。 


 (5ゲーム目までは播磨坂チームが先行し、最終の6ゲーム目で私達が追い越したのが読み取れる)



『不死身の特攻兵』を読む(その2)

2018年02月22日 | 読書

 著者は、特攻隊として、都合9回出撃し9回生還して来た、万朶隊々員であった佐々木友次伍長へのインタビュー結果を記す以前に『陸軍特別攻撃隊』から「戦争のリアル」について書き始めた。
 1944年10月26日、フィリピンに到着した万朶隊は毎日激しい訓練を続けた。この頃岩本隊長の苦悩は深かった。自分が反対した“体当たり攻撃”に隊員たちを出撃させねばならないという奥悩。しかし、隊長は隊員を前にして「・・・体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らない、よくよく思慮の足らないやつだ」と言い切った。そして最後に「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」とまで語ったのだ。それが可能なように飛行機を改装してもいた。
 これは軍隊では死刑に相当する発言・行為だった。この発言が佐々木伍長の胸に深く刻まれた。
(私は、出撃し毎回生還した佐々木伍長の行動を解く主な鍵は上記の部分にあったと思う)

 11月4日、岩本隊長以下5名の将校は、マニラへ来るよう命令を受けた。儀式好きの、フィリピン第四航空軍司令官冨永恭次は、陸軍最初の特攻隊員と宴会をしようと決めたのだ。マニラへ行く途中岩本隊長の乗った九九双軽は米国のグラマン機に襲われ墜落。岩本隊長以下4名の将校全員が戦死。
(単に宴会好きな司令官の個人的趣味の為に呼ばれ、危険な空域を飛行しての“無念死”。他にも登場して来るが、無能な上に無慈悲な命令を出す側により、命令を受ける側の無駄な死が綴れている)(上の写真は、鴻上さんが本書を著す動機となった『特攻隊振武寮』)



 11月12日、佐々木を含み万朶隊5人は出撃していった。以下9回の出撃の様子が、主として佐々木の視点で描かれている。佐々木は「岩本隊長のために、絶対に成功させなければならない。爆弾を敵艦隊に当てて、生きて帰ってくるんだ」の決意のもと、突撃機に乗り込み、敵機を襲撃・突入する。その様子が実にリアルに描かれている。(写真:出陣前の乾杯をする万朶隊。左端が佐々木)
 ・・・
 1945年6月、大本営は沖縄の組織的戦闘の終了を発表。日本軍は負けた。佐々木はフィリピンに取り残され山中で生きていた。
1946年1月15日、佐々木は捕虜終了所などを経て、浦賀の土を踏んだ。日本を離れて約15ヶ月ぶりだった。   
 北海道に帰った後、妻と実家の農業を続け、4人の子供を育てあげ、北海道の大地で生活を続け、2016年2月9日、92歳で亡くなった。


羽生君勝った、羽生さん敗れた

2018年02月19日 | 将棋

一昨日から昨日にかけて、新聞・テレビ・ネットなどでは“羽生”の2文字が溢れんばかりだった。
 フィギュアスケートの羽生君は五輪連続の金メダル。昨年11月の右足関節の大けがを乗り越えての頂点。おめでとう。(写真:表彰台での三人)




 将棋永世七冠を達成し、国民栄誉賞も受賞した羽生さん。素晴らしい。残念ながら「朝日杯将棋オープン戦」準決勝で藤井五段(その対戦時)に敗れた。(写真:激戦後の二人)



 その日の「有楽町朝日ホール」は約600人の将棋ファンで埋まったそうな。私も世紀の一戦を是非観戦しようと、2月1日だったか、インターネット申し込み解禁時刻から何度も申し込みサイトにアクセスしたが、チケットは遂にゲット出来なかった。
 止む無く当日は自宅でタブレットでAbemaテレビ観戦し、 傍らには「iPad mini」を置き、将棋連盟のモバイル中継で棋譜を眺めていた。リビングでは妻がフィギュアスケートを観戦。私はテレビを横目でチラチラ見ていたが、最終組が登場すると気もそぞろになり妻に合流。はらはら、どきどきしながフィギュアスケートフリーを観戦した。目まぐるしい一日だった。
 藤井少年はついに全棋士参加のタイトル戦で優勝し、規定により六段に昇段し、六段昇段の最年少記録をも塗り替えた。五段は僅か16日間だった。
藤井六段の将棋は出来る限りリアルタイムで棋譜観戦している。贔屓にしている棋士が勝つたびに嬉しくなるのだが、それを越えて毎回驚きがあるのだ。解説のプロから、あるいは控室で検討中の棋士達から「え~」と驚きの声が上がる一手・一瞬があるのだ。
昨日の決勝戦の対広瀬八段戦でも出た。右がその一瞬の☗44桂。
 渡辺棋王のブログにはその一手に触れた感想が書かれていた。「(藤井五段の)決勝の▲44桂は、(かつての)18歳羽生竜王の▲52銀に匹敵する、語り草になる手だと思います。自分もテレビで見ていて思わず声が出ました」と。(右写真:絶妙手と絶賛された 下図はその手の一手前に広瀬八段が指した手




 指


雑誌「将棋世界」を昨年8月号から買い始め、大崎善生著「神を追いつめた少年」を読み続けている。そこでもその驚きの一手が紹介されることがある。勿論、棋譜観戦時には私にはその手の意味は難解で理解が難しいことが多いが、その一手が“超難問パズル”の解決に似ているように思える。単に勝つから嬉しいを越えて、超難問を解決しているのをリアルタイムで観戦しいる感じだ。後刻、大崎著作でそれを知って感動した対局が幾つもあった。
 超怪物君が現れたのだと思っている。超
難問パズル解答者の活躍を今後見続けられればと思う。
 戦いを終えた後の羽生さんの言葉が良い。「・・・間違いなく藤井さんはタイトル戦に出ると思うが、そこに私がいるかどうかが問題です」。タイトル戦での天才と怪物君の対戦を熱望している。


 最後に怪物君が絶体絶命から生還し、勝利した局面を記しておきたい。

藤井聡太四段 vs. 澤田真吾六段 第43期棋王戦予選。既に藤井四段の玉に”必死”がかかっていて、最下段に藤井四段の玉がいる。下図はその局面から藤井四段が指した手。


  






   


『不死身の特攻兵』(著:鴻上尚史 講談社現代新書)を読む(その1)

2018年02月17日 | 読書

 冒頭から大げさな表現になってしまうが、本書から強い衝撃を受けた。特攻隊について誤った先入観を抱いていたなと気付かされた書だった。元同僚の草野さんから紹介された本。

 著者の鴻上さんが『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』(講談社)を読んだことがすべての始まりだった。「振武寮(しんぶりょう)」とは死なないで帰還した特攻隊員を外部に知られないように軟禁する場所。陸軍の正式な記録には一切残っていない、あるはずもない寮。そこに収容されたひとりに、陸軍第一回の特攻隊『万朶隊(ばんだたい)』隊員佐々木友次伍長がいた。

 佐々木伍長は「戦艦」1隻を撃沈したという輝かしい戦果を報道され、軍神として褒めたたえられたが、彼は生きていた。その時21歳の若者だった。体当たりではなく、急降下爆撃を試みた後、不時着したのだ。戻って来た佐々木伍長に、その後司令部は何度も出撃の命令を出し、参謀は「必ず体当たりしろ」と強く求め、死んで来ることを強要したが、彼は命令を拒否し爆弾を落とし続け帰還していた。
 「・・・8度の出撃にもかかわらずことごとく生還している」。この文章に鴻上さんは衝撃を受けた。鴻上さんのみならず、この事実を知った多くの人が「あの時代にそんな事があり得たのか」と思うだろう。私もその一人だ。

 佐々木友次さんは札幌の病院に入院中だが生きていらたした。存命であることを知った鴻上さんは会いに行くが最初は「特攻隊の話はもういい」と面会を断られる。しかし一目だけでもお会いしたい
との強い執念が通じ、面会・インタビューにまで至るのだ。1923年、北海道当別生まれの佐々木さんはこの時92歳。

 本書の構成はここからがユニークだ。インタビュー内容を語るのは次章にまわして第2章では「戦争のリアル」として、『陸軍特別攻撃隊』(著:高木俊朗 文藝春秋)の内容を紹介し、第3章で「2015年のインタビュー」を綴り、終章で「特攻の実像」を暴いた。

 『陸軍特別攻撃隊』についてはこう綴る。
 「綿密な調査と膨大な資料で、特攻隊とはなんであったのかを含めて圧倒的な筆力で描いています。その中で、佐々木友次さんの部分を描くために、高木さんは当別町の佐々木さんの自宅に3週間ほど泊まりこみました。僕は、高木さんのご遺族であり著作権継承者である奥様の竹中誠子さんに、小説『青空に飛ぶ』を書くにあたり、『陸軍特別攻撃隊』の記述に準拠させていただく許可をいただきました」。本書より以前に鴻上さんは『青空に飛ぶ』を著していた。

 以下敬称を省略し、第2章より。
 佐々木伍長に大きな影響を与えたのが、万朶隊の隊長岩本益臣大尉。操縦と爆撃の名手で「跳飛爆撃」の第一人者だった。「跳飛爆撃」なるものを
初めて知ったのだが、今後この名称を聞いたら直ぐに思い浮かべられる説明がなされていた。水面に向って石を横投げすると石は幾段にも跳て飛ぶ、あれだった。この方法だと爆弾を上から落とすより、うまく海上を跳べば艦船に当たる可能性が上がる。魚雷のような働きをする爆撃方法なそうだ。岩本隊長はアメリカ軍の成功を睨んで「跳飛爆撃」を積極的に進めようと研究・演習を続けていた。佐々木も当然その技術を学び、習得しよとしいた。

 しかし、戦況が悪化するにつれて陸空海軍からは体当たり攻撃を主張する声が聞こえ始め、ついには機首に3本の電導管の付けられた、「死のツノ」が生えている「九九式双発軽爆撃機」が鉾田飛行場に配置され、出撃命令が下る。勿論岩本大尉は反対だった。「体当たり攻撃がいかに無意味で効果がないか」という理論的な反論の公文書を提出もした。岩本大尉に心服していた佐々木伍長も体当たり戦法に不満だった。(写真:万朶機の機首につけられた3本の電導管)

 しかし軍隊命令は絶対だ。1941年10月21日、岩本大尉を隊長として「万朶隊」は結成され、佐々木友次伍長も含め、「万朶隊」は26日、嘉義飛行場からフィリピンへ向けて出発していった。