マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『透明の棋士』(著:北野新太)を読む

2016年04月29日 | 将棋

 著者北野新太はプロローグで“発端―生まれ来た理由”で本書を発行するにいたった理由・動機を書いている。
 勝負の世界について自分の手で書いてみたいと願って報知新聞社に入社した北野は、将棋の世界には全く無関心だった。その北野が将棋と巡り合いのめり込むこととなる発端となったのは2007年の、とある新聞記事を目にしてのことだった。
 その記事とは、“瀬川昌司さん、棋士を目指すサラリーマン”という見出しが付けられ、かつて棋士を目指しながらも夢破れた男がアマチュアとして再起し、既存のルールを飛び越えて棋士になるための編入試験を受ける、といった内容だった。「読み進めながら、間違いなく面白いと思った。何より“棋士を相手に六番勝負を戦って3勝したら棋士になれるという漫画のようなストーリーに心を躍らせる何かがあった」と書いている。
 新聞記者のフットワークの軽さだろう、彼は直ぐに瀬川に会いに行き、インタビューをしたのだった。

 私も『瀬川昌司はなぜプロ棋士になれたのか』などを読んでいた。これをも参考にし、瀬川昌司のプロフィールを書いておこう。生まれは1970年の
46歳。”羽生世代”と言われる羽生名人・森内永世名人・佐藤康光永世棋聖と同世代である。棋士養成機関「奨励会」に入会するも3段リーグに長く停滞し、4段への年齢制限の26歳を迎えた1996年に退会。将棋棋士になるという唯一の夢を奪われた。将棋会館に永遠の別れを告げた日、彼は千駄ヶ谷から自宅の中野まで涙を流しながら彷徨い歩き、自宅に辿り着いてからも夜通し泣いた
 もう二度と将棋を指すことはない、新しい人生を歩もうと心に決めたが、将棋を捨てることは出来なかった。大学に入学するも将棋を指し続け、アマ強豪として頭角を現し、A級棋士久保利明を破るなど、驚異的な強さを示していく。そして棋士編入の嘆願書を提出(ここが彼の凄いところ)。日本将棋連盟は特例として編入試験六番勝負を実施することになったのだった。マスコミを巻き込む一代騒動にも発展したのでこのブログ読者で、ご存知の方も沢山おられることだろう。

 北野が瀬川とあったのは編入試験六番勝負の第一局を目前に控えた頃だった。
 インタビューの最後に北野は「何のために生まれて来たか、と問われたら何て答えますか?」と問いを発している。その時の瀬川の答えは「将棋をするために生まれてきた・・・と、今は思いたいです・・・」か細く、震えるような声だったと書いた。
 さて六番勝負の行方は? ×◎×◎◎と3勝をあげ、最終戦を待たずに試験合格。
 最終戦終局後、
将棋盤の向う側で彼は泣いていた。肩は小刻みに震えている。「勝てて嬉しいです・・・。母が心配してくれて・・・」と言葉は続かなかった。息を殺し、瞳の中に涙を隠しても、彼は確かに泣いていた・・・。
 北野があったのは瀬川が最初の棋士だったが、その後多く棋士に接することとなる。その過程で棋士たちの真摯で謙虚な姿に接することとなり、「今の私にとって将棋棋士以上に魂の震える対象はない。棋士以上に興味を惹かれる存在などない」とまで書くに至っている。
 この小冊子に登場する棋士は里見香奈女流名人・三浦九段・屋敷九段・中村太地六段などなど。
 「最終盤の死闘の渦中でも、敗れた感想戦も、乾杯の夜も。私は常に、棋士としての彼、女流棋士としての彼女が透き通った存在に映る」と結んだ。題名『透明の棋士』はここから来ている。
 私もこの著作を読んで、一つの道を追求し続ける棋士に、今まで以上に心惹かれている。


往復切符と途中下車は両立するか?

2016年04月27日 | 

 ジパング倶楽部の会員の方2人から切符購入に関する相談を受けていた。2人が共通に悩んでいた事柄は「往復切符を購入すると、途中下車出来ない場合がある」という問題。ジパング倶楽部の会員だと、乗車距離が往復200km以上の場合は3割引きの適用を受けられる(要するに片道100km以上であれば3割引きとなる)。しかし、途中下車出来ないという例外規定があり、それに該当して困っているのでどうしたら良いかという相談である。

 具体的にはAさんの場合、旅行初日に勝沼ぶどう郷で下車し、ぶどうの丘に宿泊。翌日に勝沼ぶどう郷から小淵沢下車でサントリー白州蒸留所に行き、帰路は小淵沢駅から一気に新宿方面へ戻ってくるという計画。途中下車の例外規定を調べると、右の図(図1)に示す地域内では途中下車出来ないことになっていてそれに該当。当初は、小淵沢から先の、小海線野辺山を越えた信濃川上までの購入を考えた。しかし、これでは乗車しない区間が長くて勿体ないことになってしまう。

 そこで思い付いたのが甲府から身延線で一つ先の金手までの往復切符を購入するという方法。図1を外れるから途中下車可能。それでは、甲府から先の小淵沢まではどうするのか。同時に甲府⇔小淵沢の往復切符を購入してもよいし、当日乗り越し清算をしても良いだろう。一応、緑の窓口で東京⇔金手の往復切符で途中下車できるか否か聞いてみたところOKの返事。(図は途中下車出来ない範囲:再掲)

 因みに片道の乗車券代を調べると
 単に新宿→小淵沢は 3024円
 
「新宿→金手 2270円」+「甲府→小淵沢 669円」=2939円 
 何と分割購入の方が85円安いのである!(よくあることだが)

 Bさんの場合は伊豆高原にある宿に宿泊し、帰路真鶴で途中下車したいとのこと。この場合も図1の地域内移動となり途中下車不可(伊豆高原へのJRは伊東まで)。しかし、Aさんケースと同じように熱海を少し超えての東京⇔函南と熱海⇔伊豆高原の往復切符を同時購入すれば問題解決に思えた。
 しかし、踊り子号に乗車したいとのことであったので、これも同時に購入すれば良い、と当初は考えていたが、やや問題がありそうに思えた。窓口へ聞きに行く前に、東海道新幹線こだま号利用を考えついた。不思議なことに新幹線利用での往復乗車券購入の場合は途中下車が可能となるのだ。そこで東京⇔伊豆高原の往復切符と東京→熱海のこだま号購入をお勧めした。こだま号と踊り子号を比較すると、時間的にはこだま号の方が速い。値段的にはトントンである。熱海で乗り換えなければならない点が不便だが、熱海から先の伊豆急では「リゾート21」に乗車すれば、それこそリゾート気分が味わえる。というわけでリゾート21に接続のよいこだま号を紹介した。

 この場合も片道の乗車券で比較してみると
 東京→伊豆高原 乗車券 2926円  踊り子号特急券 1750円 
 東京→伊豆高原 乗車券 2926円  こだま号特急券  1730円  
 (“ぶらっとこだま”が利用できるとより安くなるが、それは静岡以西を旅する場合に適用される)

 結論を急ぐと、往復乗車券では途中下車出来ない場合に、図1を僅かにはみだすような往復切符購入で途中下車が可能となり、料金もそれほど高くならないこともあり、安く済む場合もある。


将棋名人戦の幕開く

2016年04月24日 | 将棋

 今話題は将棋界よりも囲碁界に向けられている。GoogleAI部門DeepMindが開発した「AlphaGo」対囲碁世界最強の一人、韓国のプロ棋士イ・セドルの5番勝負は4勝1敗で「AlphaGo」の圧勝に終わり、世界に大きな衝撃が走った。
 一方、国内では井山名人が前人未踏の7冠を制した。その井山七冠が「AlphaGo」と対戦するようなことになれば、日本はもとより世界中から大きな注目を集めるだろう。是非実現してほしい対戦だ!
 将棋界でも初代叡王となった山崎隆之八段と「PONANZA」の、第1期電王戦が4月から開催されていて、第1局はポナンザの圧勝に終わった。しかし衝撃は走らなかったという。プロがコンピュータに敗れることが不思議でなくなりつつあるからだ。

 将棋界での7冠は羽生善治が、1996年に達成している。その名人羽生に28歳の佐藤天彦が挑戦中の第74期名人戦第1局は羽生が勝利し、22日からは第2局が行われた。私はこの一戦をiPad で、棋譜を見、解説を読みながら観戦した。映像は映し出されなかったが、対局場の雰囲気は十分に伝わってきて、はらはらどきどきしながらの観戦。私が応援するのは、最強の棋士羽生に挑戦する佐藤天彦である。結果から書けば、最終局面で羽生が詰めを見落として、大逆転で天彦が名人戦初勝利を挙げた。

 将棋のタイトル戦は名人戦以外は現在進行形で無料でネット観戦が出来るが、朝日新聞・毎日新聞共催の名人戦は特別会員にならなければ観戦出来ない。会員となれば1日観戦で191円。ここの会員になろうか迷っているときにiPad上で「日本将棋連盟のライブ中継」会員になると一月500円で観戦ができ、しかもこの半年間ほどの、プロのあらゆる棋譜が解説付きで読めることを知り、こちらの会員になった。有料のアプリを購入するのは初めてだったが、iPad講習会で得た知識が役に立ち、無事購入出来た。例えばコンビニからiTunesカードを購入し、iPadにそのカード裏のナンバーを読み取らせれば、チャージ完了で、あとは購入するだけ。

 さて23日は夜に富士前町会の理事会があったが、早めに帰宅し名人戦第2局を観戦した。21時過ぎから両者1分将棋となり、詰めを逃した羽生が2144分に投了。
 その棋戦を観戦した、憲法学者・木村草太氏が今日の朝日新聞に観戦エッセイを載せた。
 「人の心に残る対局を名局というなら、この一局は間違いなく名局だ。まさかの幕切れに、私も未だに心の整理がつかないでいる」との書き出し。右局面は佐藤が153手目に”24飛”と指した局面。ここで19手の詰みが生じていたが、羽生はこれを逸した。第3局が待たれる。

(付記1)上の局面をiPadから貼る付けるには、3つの方法が考えられた。
 (
1)iPadのこの画面をプリンター附属のスキャナーで読み取らせる。
  (2)写真撮影をする。
 
(3)iPadのこの画面をiPad自身でスキャンする。
 私は
(3)の方法があることを知りそれを用いた。

(付記2)今年度の将棋大賞の名局賞に私が宇都宮で観戦した、棋王戦第4局渡辺対佐藤天彦戦が選ばれた。


加治川分水路の水門

2016年04月22日 | 

 今回の旅行で一番驚かされたのは加治川に設けられていた分水路の水門だった。それは、加治川治水記念公園付近の桜を愛でつつ散策をしていた時のことだった。水門2つが90度位の角度で交わっている姿(右図参照)を見た時、これは一体何だ?と驚き、付近を歩き回ってその謂れが書かれた掲示板を発見。それを読んでこの水門の歴史を知った。非常に興味を覚え、帰宅してからネット学習もした。私なりに整理したものを書き留めておくと、


 
      (水が満たされたときの写真)

(1)古くから加治川は海岸線に沿って発達した砂丘列のため日本海へ流出できず、現在の新発田市真野原付近で左に大きく曲がり阿賀野川へ合流していた。(右図の水色の線がかっての加治川水路)









  (2)明治時代入ると加治川の水害が悪化し、そこで加治川をなるべく短距離で日本海へ流そうとする分水路計画の機運が高まり、加治川分水路工事が1908(明治41年)より着工し、1913(大正2年)に完成した。(右図の赤丸地点で分水させた)

 (3)分水路は現在の新発田市真野原から聖籠町次第浜まで4.9kmに渡り開削され、分水地点には加治川分水門が設置された(加治川本川に運河水門が4基、加治川分水路に土砂吐水門が4基)
 (4)平時には運河水門を開放、土砂吐水門を閉鎖することで、加治川本川の農業用水や舟運用の水深を確保。出水時には運河水門を閉鎖、土砂吐水門を開放し、洪水を加治川分水路から日本海まで流下させた。分水路の完成により、流域の水害は激減した。

 (5)しかし、1966(昭和41)年と1967(昭和42)年、流域は2年連続で大水害に見舞われた。

 (6)その元凶は桜の根にあるとされ、流域にある6000本の桜は全て伐採されてしまった。

 (7)水害後に加治川の治水計画が抜本的に見直され、さらなる河川改良工事が実施された。従来の加治川分水路が加治川本川となり、従来の加治川本川は派川加治川とされた。このとき加治川分水門は役割を終えた。要するに分水路が本川に昇格し、水路は一本のみとなった。(現在では加治川は右図の様に最短で日本海に注ぐ)

 (8)桜伐採後も桜並木の復元を望む声は多く、1989(平成元)年に国の「桜づつみモデル事業」として認定を受け、桜並木の復元が進められた。復元にあたっては、桜の根が破堤を招いたとの説に配慮し、堤防の外に築いた副堤に桜が植樹されている

(9)1982(昭和57)年、水害対策の今までの歴史を記念して治水公園の整備が開始された。1989(平成元)年には桜の名勝地を甦らせる一環として往時の水門が復元され、今では加治川の桜の見所になっている。

 私達が見たのは、その復元された水門であり、桜並木だった。2000本の桜でさえ壮大な眺めである。6000本もの桜が植えられていた頃の景観はどんなであったのだろう。その景観は「長堤十里、日本一」と表現されたとか。
 
私達はなんの知識もなく越後を訪れ、こちらに来てからネットで桜情報を調べ、幸運にもこの水門に巡り合えたのだった。(写真:加治川治水記念公園)





村上を訪ねる旅(その2)

2016年04月20日 | 

 村上は“酒と鮭と人情(なさけ)”の、3つの“さけ”が揃い踏みする街と言われている。
 今回の旅行では図らずも酒・鮭・人情の順で村上の素晴らしさを味わうこととなり、もう一度は村上を訪ねてみたいと4人が4人とも思ったのであった。

 4月15日(金)、まず向かったのは「〆張鶴」を醸造する宮尾酒造。ここ宮尾酒造では、トシコさんの幼友達の弟さんが営業部長をしておられる。トシコさんの紹介でこの酒蔵の内部見学が可能となり、9時半には到着し早速ご案内をして頂いた。醸造タンクのある内部奥は部外者入室禁止となっていたが、建物内部を見学し、酒作りのあれこれを話して頂いた。
 
以下部長さんから聞いた話である。
 
ここの酒蔵で用いられるお米は岩船産の酒造好適米と“五百万米”。近年では「越淡麗」というお米も開発され、大吟醸には「山田錦」を用いている。
 
酒名「〆張鶴」は、神聖な酒を迎えるために張る「〆縄」と、当時の銘柄「若鶴」を合わせた。(宮尾酒造正面)



 
蔵の歴史としては、江戸末期に村上の城下で北前船を航海させる廻船業も営み、北前航路に交易する一方、酒造りに励んできた。
 
原料米は米処村上の五百万石などを中心に、良質の酒造好適米を丁寧に自家精米。酒の味に影響を与える水は、鮭の遡上で知られる三面川の伏流水にしてキメ細かな甘みを持つ軟水で、敷地内の井戸から汲み上げて仕込みに使用。
 酒質を一言で表現すれば「淡麗旨口」。ふくよかな味の膨らみと豊かな旨み、キレを伴ってさり気なく消えていく綺麗な後味は、蔵が築きあげてきた伝統の味わい。
 
「商売的な感覚や損得で酒を造りたくはない」という信念から、ネット販売はしていない。
 
熱心に語られる部長さんからは純朴な人柄と酒造り一筋に生きて来られたプライドが感じられ、普段より多くの「〆張鶴」を購入して宮尾酒造を後にした。 (写真:内部に吊るされた暖簾)

 
       (外からの撮影)                 (村上も桜は満開だった)

 次ぎに訪れたのは「喜っ川(きっかわ)」。村上は百種類を超える鮭料理がある町で、他に例を見ない鮭食文化を誇っている。三面川を遡上してきた鮭を調理・販売する。それらのお店の老舗中の老舗が味匠「喜っ川」。ここの暖簾の前での吉永小百合のポスターは特に有名で、トシコさんからも一押しされていた。室内奥に入ると干されたサケがぎっしりと尻尾を上に吊るされていた。見惚れていると、実に感じのよい女性が説明に現れた。
 村上では鮭を首からは吊らない。首から吊るさないのは絞首刑を嫌ったため。
 
腹は裂け目が二つになっている。一文字に割かないのは切腹をイメージさせないため。
 
村上が武家のまちやだったから、いかにも武士らしい考え方が反映されたものと考えられている、などの面白い話が聞けた。当然のごとく、夜の酒の肴に塩引きシャケなどを購入。 

 
    (尻尾から吊るされたシャケ)             (喜っ川の入り口は狭い)

 昼食は割烹「千渡里(ちどり)」へ。ここは村上市で人気NO1のお店。右写真の「塩引き鮭定食」が1500円。村上特産塩引き鮭に小鉢3品が付く。美味しいシャケだったが、それ以上にここで働く人々の対応が気持ち良かった。この日は非常に寒く村上城などへは脚を延ばさなかったが、ただただ満足であった。村上人の情を強く感じつつ咲花温泉へと向かった。(塩引き鮭)





           (千渡里玄関)