崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

復讐 テロ 戦争

2015年02月17日 05時23分35秒 | 旅行
 「東洋経済日報」の連載の寄稿文(2015.2.13)である。

 今日本人人質殺害事件でイスラム過激派のテロによる不安が広がっている。地図を開いてみるとシリアなどイエスとバウロがキリスト教を宣教した所と、ユダヤ教とイスラムの宗教のメッカともいえる地域である。これらの宗教は皆平和を愛する信仰である。しかしエルサレムの占拠のために時々トラブルが起こる。9.11ニューヨークのテロ以来、世界が恐怖を感じていたがまだ日本は安全だと思っていたのに今度の日本人人質の殺害で不安と恐れが強くなっている。日本からは遠い対岸の火であったが、今は日本人の不安のグローバリゼーションになっている。

 テロと防衛の戦略的な話をするつもりではない。法律や倫理の話ではなく、もっと根本的なことに触れたい。テロという言葉は耳慣れていない人も少なくないが、テロ行為は古くから人類史上起きてきたものである。広義では多くの暴力をテロと言えるかもしれない。日本も韓国もテロを容認してきた近い歴史がある。いわば太平洋戦争の時その戦争を日本は「聖戦」といい、若い人を戦争に動員し犠牲にしたのである。軍人であった私をはじめ、今でも多くの軍人は戦争を愛国行為と思っていて決してテロとは思っていない。それが前提にならなければ軍は存立しない。多くの被植民地国民は植民者を暗殺して英雄になったのは現実である。このような現象は世界各処にあったものであり、今もある。

 史劇映画やドラマなどでは憤慨し復讐が行われている。愛と憎、加害と被害、嫉妬と復讐などの話が要因となっていて、皮肉にもそれを見て楽しむ私たちはテロを楽しむことになっている。テロ向けの防衛戦争も起きている。テロと戦争も暴力であるが、テロを戦争で戦うことは難しい。テロは戦線がなく、無辜な人を相手にしている。

 なぜ戦争やテロが起こるのか。わがマンションの関門海峡の対岸に住んでいる直樹賞作家の佐木隆三氏宅を二度目に訪ねた時、私は『恨の人類学』の著者であると自己紹介かねて彼の主テーマである「復讐」に迫って突っ込んだ質問をした。私は彼に会うために事前に彼の小説『復讐するは我にあり』を読んでいた。実在の連続殺人事件の行橋市内に住む前科4犯の凶悪犯罪人・死刑執行された人がモデルとなった。私は彼が犯罪人をテーマにして150冊ほどの小説を書くその問題意識と読者を引きつける文章の秘訣について質問した。

 復讐は復讐を繰り返す。彼は言った。聖書に「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。復讐は私のすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」を引用しながら話をした。犯罪と復讐を書き続けながら復讐をしないように言うのは矛盾とも感ずる。もう一つの聖句がある。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5章38-39)という言葉は何を意味するか真剣に考えるべきである。