崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

火刑

2015年02月06日 06時12分58秒 | 旅行
 いま世界がイスラム国のテロに怒っている。特にヨルダンのパイロットの火刑の映像は恐怖と憤怒の極みである。その復讐の繰り返しとテロの暴力の拡大により平和から不安な世界になっていく。火刑とは曼荼羅などで地獄画でみたことがあるが現実の映像を見るということは大きいショックである。しかし考えてみると旧約聖書によく出る生贄を思い出す。「神はアブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼の生贄としてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:1~5)というものもある。旧約を基本とするユダヤ教やキリスト教、イスラム教などではよく知られた話である。しかし今度の残酷極まりない火刑に憎しみと復讐の行動には驚くしかない。
 昨日読書会では倉光誠氏が輪番で朝鮮人クリスチャンたちが日本で殉教したことについて1929年『朝鮮』(朝鮮総督府機関誌)に載った文を読んだ。一句「薪はその苦痛を長くするために、刑柱より距離を遠くしておかれたのであった。火焔の迫るやカイはその中に跪坐し、一生の願いを叫び殉教するの栄誉なることを高らかに唄え上帝に感謝し、刑柱の焼けた後に死んだ。時は年53歳であった」。残酷な「火刑」に対して殉教者は「生贄」と思っている。400年ほど前、日本は隠れキリシタンを残酷に殺した歴史がある。70年ほど前には戦争を「聖戦」といって、広島と長崎に大量生き焼き殺した。100年ほど前、韓国人は独立運動としてテロを起こした。歴史認識とは歴史から深いメッセージを読み取ることを指す。政治的カードには絶対にしないこと。今でも苦痛を与える「罰」制度はある。しかしそれは基本的には「愛の鞭」の精神によらなければならない。