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L・Wノート:確実性の問題(7)


■旧暦7月21日、月曜日、

(写真)無題

4時半に目が覚めてしまった。洗濯物を干すだけで、汗だくになる暑さとは…。

黒鉄ヒロシの『信長遊び』(2009年 リイド社)を読む。黒鉄さんという漫画家が、こんなに骨太の人とは知らなかった。山田芳裕の『へうげもの』とはまったく違った角度から、同じ歴史に切り込んでいる。物語という手法ではなく、4コマ漫画の手法を拡大して挑戦している。歴史的な仮説も面白いし、絵も上手い。とくに、線が生き生きしている。信長(1534‐1582)は、チェーザレ(1475‐1507)よりも、ある意味、凄いのかもしれない。



87. Kann ein Behauptungssatz, der als Hypothese funktionieren könnte, nicht auch als ein Grundsatz des Forschens und Handelns gebraucht werden? D.h. kann er nicht einfach dem Zweifel entzogen sein, wenn auch nicht einer ausgesprochenen Regel gemäß? Er wird einfach als eine Selbstverständlichkeit hingenommen, nie in Frage gezogen, ja vielleicht nie ausgesprochen. Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984


仮説として用いられる言明が、探求や行為の前提になることもあるのではないか。つまり、その言明から、疑いがきれいに拭い去られることがあるのではないか。たとえ、明白な規則にしたがって、そうされるわけではないにしても。その前提は、まったく自明なものとして受け入れられ、けっして問題にならず、おそらくは、あえて言葉になることもない。

■ここで、ヴィトゲンシュタインが述べている「ein Grundsatz des Forschens und Handelns」(探求や行為の前提)。einfach als eine Selbstverständlichkeit hingenommen, nie in Frage gezogen, ja vielleicht nie ausgesprochen(まったく自明なものとして受け入れられ、問題にならず、あえて言葉になることもない)前提を、イデオロギーだと理解したら、どうだろうか。この前提を、あえて、言葉にし、あえて、問題にし、あえて、自明なものとしないで、疑ったとしたら、どうなるだろうか。この問題は、断章89で改めて述べている。

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