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Pascal 『Pensées』を読む(5)


■旧暦7月15日、火曜日、

(写真)無題

早朝に起きて、仕事に入る。午後から、クーラーの取り換え工事。いやはや、大変だった。部屋中に積んである本や資料を移動しないと、工事の足場が作れない。汗だくになって移動また移動。3人がかりである。ゴミ袋が4つもできあがったのは、不徳の致すところであろう。シャワーを浴びて、夕方より、兼業に向う。



A mesure qu'on a plus d'esprit, on trouve qu'il y a plus d'hommes originaux. Les gens du commun ne trouvent point de différence entre les hommes. Pensées 465

ひとは、知的になればなるほど、独創的な人間が多いことに気がつく。大多数は、人々の間の違いにまったく気がつかない。

※メモ:ne~poin まったく~ない、少しも~ない
※仏和辞典は、数えられる名詞と数えられない名詞の区分を表示していないが、不便じゃないのだろうか。

■この断章は、面白い。a plus d'espritを前田陽一、由木康訳では、「精神が豊かになればなるほど」、Krailsheimer訳では、the more intelligent one isとしている。ここでは、人間に対する理解力が高まるという意味で、「知的になればなるほど」とした。

確かにこういうことはあるような気がする。現代の組織では、人間を画一的・類型的にあてはめて、管理上の参考にしたり、一種の商品として個性をあてがうことがよく行われる。このため、定年退職した人々の方が個性を発揮することがよくある。パルカルの言う「A mesure qu'on a plus d'esprit(ひとは、知的になればなるほど)」という事態は、実は、onが所属する社会空間や社会集団に規定されている。市場と無関係に知的になったり独創的になったりすることは、現代ではなかなか難しいが、逆に、市場と関係せざるを得ないがゆえに、企画や商品開発、技術開発などの面で、独創的になることもある。大多数の人々が人間の違いに気がつかないのは、人間の間に違いがないからではなく、生産関係の中で同一化の強制力が働き、個人の違いは、「商品としての個性」というカテゴリーに押し込められてしまうからだろう。この断章は、パスカルの属す知的エリート集団の見方であるが、それだけにとどまらないものを持っていると思う。



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