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飴山實を読む(70)

■旧暦6月6日、火曜日、

(写真)のうぜんかずら

今日も朝から猛烈に蒸し暑い。「死に方は生き方」だという言葉がある。ある意味で、人生の終末は、その人のこれまでの生きざまが集約されるからだ。しかし、一方で、善い人が良い死に方をするとは限らない。死に方は、心身の条件に規定されるからだ。健康で元気で寿命を全うするためにはどうするか。身近に高齢者がいるため、どう生きるかがどう死ぬかに直結する、そんな死に方のレッスンを自分の問題としてしきりに考えるこの頃である。




草餅や橋のたもとにして老舗
  (花浴び)

■この草餅、食べてみたい。知る人ぞ知る店、のようなイメージがある。俳句を書くようになって、ずいぶん、和菓子を知るようになり、また、食すようになった。菓子と季節が一体化している様子は、野菜や果物よりも強いのではなかろうか。

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ドイツ語の俳人たち:Gerd Börner(8)

■旧暦6月5日、、七夕

(写真)猫にも背中はある

猛烈な雨音で目が覚めた。昨日、英語詩を英語版に載せたら、金融系業者のロボットの書き込みがかなりあって、なかなか笑えた。たとえば、次のように短時間で連続して書き込んできた。

All I can say is nothing because your blog is not interesting to read.

ははは、面白い!

Thanks. Im Inspired again.

この口先男!

Can you add some more photos?

いやだ。見せたくねえな。

It could challenge the ideas of the people who visit your blog.

あたりめえだ。このために詩を書いてるんだぜ。

Oh my.. this is the best blog.

ふーん、よく言うねえ。

very awsome.

こりゃ、嬉しい。


■まあ、プログラムどおりといったところなんでしょうねえ。





Heller November -
der Klang
von Hammer und Meißel


抜けるように
晴れ渡った11月
ハンマーと鑿の音


■これは、なかなか印象的だった。ドイツも11月は、快晴が多いのだろうか。乾いた晴天にハンマーと鑿の音が響いている。気持のいい光景である。
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■旧暦6月4日、日曜日、

(写真)三人

急に夏になった。朝5時に起きて散歩。モスバーガーでマルクスを読む。図書館で、フォーレのピアノとベートーヴェンの初期の弦楽四重奏曲を借りる。

英文として意味不明、と言われるのを承知で、以下に英語詩をアップする。もちろん、対自分的には、意味明瞭である。



Slightly

I imagine time for no one
That vanishes in rain,
And that appears when wisteria flowers swing slightly.
It doesn’t have any history,
Any result, any function, and any space.
It is outside meanings.

I think I know
Time for no one is
One for Creator’s laughing.
We could hear it for just a moment.
And we could see it,
If a frog found out himself.
But no one has had that time yet
Without those who have lived against history.

I have been no one for time
For a long, long time.


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Richard Wrightの俳句(58)

■旧暦6月3日、土曜日、

(写真)a christ

川端の底紅が花をつけ始めた。花期が長いので楽しみである。百日紅も数日前から、あちこちで花を咲かせ始めた。この花も長い。夏の花は生命力が強く色も濃い。




Heaps of black cherries
Glittering with drops of rain
in the evening sun.


一山のブラックチェリーが
雨に濡れて輝く
夕陽の中



(放哉)
友の夏帽が新らしい海に行かうか


■ライトの俳句は、美しすぎて、逆に、感興が湧いてこない。長い詩の中の一節なら、納得できる。たとえば、トラークルの詩のどこかに。ライトの俳句は、その意味で、完結はしているものの、何か物足りない。放哉の俳句は、一つの完結した詩になっている。これ以上の言葉は不要だろう。
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芭蕉の俳句(187)

■旧暦6月2日、金曜日、

(写真)Untitled

もう金曜日か。時間の流れが異様に早い。それに見合ったアウトプットが出ていないので、少々焦り気味である。

今、マルクスが面白くて、毎日、読んでいる。マルクスの真人間ぶりが若いころの著作にはストレートに出ていて、たじろくほどである。後期になると、その情熱は理論的な文章の襞に折りたたまれるように滲み出てきて、これはこれで感動する。




八九間空で雨降る柳かな
  (真蹟草稿)

■元禄7年作。一間は0.55メートルなので、八九間は4、5メートル。柳の上、4、5メートルの高さの空で雨が降っていて、柳の下には春雨はかすかにしか見えない。そんな情景だろう。柳の高さと春雨の繊細な降り方を表わしていて惹かれた。柳と水、あるいは風の取り合わせは今でもよくあるが、芭蕉のような発想は新鮮に響く。

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飴山實を読む(69)

■旧暦6月1日、木曜日、

(写真)昼寝

蒸し暑い朝である。五か月ぶりに建物全体を覆っていたシートが外れた。外の景色が新鮮に見える。改修工事もようやく終盤に入った。




落椿阿吽の狗のくれなゐに
  (花浴び)

■情景が目に浮かぶようで惹かれた。「阿吽の狗」とは神社の狛犬のことだと思うが、こういう表現もできるのか、と少し驚いた。

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Marxを読む:「経済学哲学草稿」(2)

■旧暦5月29日、水曜日、

(写真)赤い背中

江戸川に散歩することが多いので、自然に、葭切の声を聞くことになる。葭切には、こんなユーモラスな句もある。

行々子殿に一筆申すべく  波多野爽波

確かに葭切は梅雨の曇天の下賑やかである。



Marx『経済学哲学草稿』第三草稿「貨幣」。なぜ、有名な第一草稿の「疎外論」を検討する前に、第三草稿を検討するのか、といえば、「貨幣論」があるからであり、「受苦的存在」としての人間という主題が、にわかに注目を浴びているらしいからである(山之内靖、スーザン・バックーモース)。ぼく自身の読書経験でも、第三草稿は、じっくり読んだ記憶がない。


まったく貨幣をもたない無一文の者にも、たしかに需要というものはあるが、彼の需要はたんに想像されただけの存在でしかなく、私にたいして、第三者にたいして、… なんらの実効力、なんらの現実的存在をもたず、したがって私自身にとっては、現実性も対象性も欠いたものにとどまる。
『マルクスコレクションⅠ』(村岡晋一訳 筑摩書房 2005年 p.433)


貨幣は、人間そのものからも人間的な社会そのものからも由来しない外的な一般的手段ないし能力であり、表象を現実にし、現実をたんなる表象にするような手段ないし能力なのであるから、人間と自然の本質的な諸力をたんに抽象的な表象に、それゆえ、不完全なものに、根拠のない妄想に変えもすれば、ほんとうは不完全なものや妄想を、つまりほんとうは無力で、個人の想像のうちにしかないような本質諸力を、現実的な本質諸力や能力に変えもする。
『同書』p.433


こうしてまた貨幣は、個人にたいしても、みずからを自立した存在だと主張する社会的紐帯などにたいしても、こうした転倒させる力としてあらわれてくる。それは誠実を不誠実に、愛を憎しみに、徳を悪徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を理知に、理知を愚鈍に変える。
『同書』p.434

■あのホリエモンやIT長者、理性も知性もない政治家ども、大企業トップたちの姿が見事に重なると思う。26歳のマルクスは、このあと、突然、情熱的な口調で次のように述べるのである。


人間であるかぎりでの人間と、人間的な関係であるかぎりでの人間の世界にたいする関係とを前提にすれば、君がたとえば愛を交換できるのは愛とだけであり、信頼を交換できるのは信頼とだけである。芸術を楽しみたいなら、芸術的教養をつんだ人間にならなければならない。他人に影響をおよぼしたいなら、じっさいに励まし援助することで彼らに働きかける人間にならなければならない。人間と自然に対する君のあらゆる態度は、君の現実的で個性的な生のある特定の表出、しかも君の意志の対象にふさわしい表出でなければならない。
『同書』pp.434-435

■社会がいかに転倒したものか、よく言い表していると思うが、庶民レベルでは、たとえば、俳句や詩には、こうした転倒をさらに転倒させたまともな感受性も多く見受けられる。隠遁や漂白、旅への思いは、こうした転倒した世界へのプロテストとも考えられる。もっとも、現代で、貨幣の呪縛を相対化できる俳人、詩人はなかなか少ないとは思うが。

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