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Marxを読む:「経済学哲学草稿」(2)

■旧暦5月29日、水曜日、

(写真)赤い背中

江戸川に散歩することが多いので、自然に、葭切の声を聞くことになる。葭切には、こんなユーモラスな句もある。

行々子殿に一筆申すべく  波多野爽波

確かに葭切は梅雨の曇天の下賑やかである。



Marx『経済学哲学草稿』第三草稿「貨幣」。なぜ、有名な第一草稿の「疎外論」を検討する前に、第三草稿を検討するのか、といえば、「貨幣論」があるからであり、「受苦的存在」としての人間という主題が、にわかに注目を浴びているらしいからである(山之内靖、スーザン・バックーモース)。ぼく自身の読書経験でも、第三草稿は、じっくり読んだ記憶がない。


まったく貨幣をもたない無一文の者にも、たしかに需要というものはあるが、彼の需要はたんに想像されただけの存在でしかなく、私にたいして、第三者にたいして、… なんらの実効力、なんらの現実的存在をもたず、したがって私自身にとっては、現実性も対象性も欠いたものにとどまる。
『マルクスコレクションⅠ』(村岡晋一訳 筑摩書房 2005年 p.433)


貨幣は、人間そのものからも人間的な社会そのものからも由来しない外的な一般的手段ないし能力であり、表象を現実にし、現実をたんなる表象にするような手段ないし能力なのであるから、人間と自然の本質的な諸力をたんに抽象的な表象に、それゆえ、不完全なものに、根拠のない妄想に変えもすれば、ほんとうは不完全なものや妄想を、つまりほんとうは無力で、個人の想像のうちにしかないような本質諸力を、現実的な本質諸力や能力に変えもする。
『同書』p.433


こうしてまた貨幣は、個人にたいしても、みずからを自立した存在だと主張する社会的紐帯などにたいしても、こうした転倒させる力としてあらわれてくる。それは誠実を不誠実に、愛を憎しみに、徳を悪徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を理知に、理知を愚鈍に変える。
『同書』p.434

■あのホリエモンやIT長者、理性も知性もない政治家ども、大企業トップたちの姿が見事に重なると思う。26歳のマルクスは、このあと、突然、情熱的な口調で次のように述べるのである。


人間であるかぎりでの人間と、人間的な関係であるかぎりでの人間の世界にたいする関係とを前提にすれば、君がたとえば愛を交換できるのは愛とだけであり、信頼を交換できるのは信頼とだけである。芸術を楽しみたいなら、芸術的教養をつんだ人間にならなければならない。他人に影響をおよぼしたいなら、じっさいに励まし援助することで彼らに働きかける人間にならなければならない。人間と自然に対する君のあらゆる態度は、君の現実的で個性的な生のある特定の表出、しかも君の意志の対象にふさわしい表出でなければならない。
『同書』pp.434-435

■社会がいかに転倒したものか、よく言い表していると思うが、庶民レベルでは、たとえば、俳句や詩には、こうした転倒をさらに転倒させたまともな感受性も多く見受けられる。隠遁や漂白、旅への思いは、こうした転倒した世界へのプロテストとも考えられる。もっとも、現代で、貨幣の呪縛を相対化できる俳人、詩人はなかなか少ないとは思うが。

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経哲手稿 (哲野イサク)
2008-07-06 11:33:03
 日曜日の朝、宿題を片付けに事務所に来ました。ふっと覗いたら、経哲手稿が目に入りました。読んだら、何ともいえず懐かしいパラグラフが引用されていました。

 私は大月書店の国民文庫で読んだ記憶があります。
「信頼は信頼とのみ交換でき、愛は愛のみと交換できる。」

 今考えてみると私はマルクス・エンゲルスの、哲学的側面や経済学的側面よりも、こうした文学的側面に大きく心を動かされていたんだな、と感じます。今まで気がつかなかったことでもあります。いまでもどこかdaydreamerな所は結局、私の本質なのでしょうか?

 そうですか、マルクスはこの時26歳だったんですか?私は例のあごひげを生やした、額が大きく飛び出したマルクスの画像を想像しながら、この経哲手稿を読んでいたのではないかと思います。いくつ時に書いたんだろうなんと言うことは全く気が回っておりませんでした。
 
 
 
 
マルクスとカール (冬月)
2008-07-06 16:12:48
■マルクスをじっくり読んでみようか、と思ったとき、はじめに思い浮かんだのが、「経哲草稿」でした。若い時に読んで、訳文のわかりにくさの向こうにある非常に情熱的な存在に触れて、強く記憶に残っていますね。

今読むと、マルクスのどこがアクチャルでどこが限界なのか、若い時よりもいっそうはっきりするような気がするんです。

アドルノは、かつて、「マルクス」を読むと思うな、「カール」を読むと思え、と学生に諭したそうですが、そんな感じで読めればな、と考えています。

 
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