verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Cioranを読む(15)
■旧暦1月29日、木曜日、、雛祭
(写真)湖の道
朝から仕事。午後、病院へ入院手続きに。洗濯ものを取って来る。今週は、なにかと、病院へ行かなければならないが、土曜日には、今後の方針が決まる。この3年間、さまざまな病院へ入退院を繰り返したけれど、今度の病院は、地域の評判がよく、家からも近いので、かなり助かっている。最寄駅の観光パネルを見ていたら、病院の近くに、水上勉旧居があることがわかった。こんなところにも、住んでいたのかと少し驚いた。土曜日にでも行ってみよう。帰宅して、仕事。そう言えば、露地もののほうれん草が八百屋に出ていた。ほうれん草と言えば、おひたしだが、これほど、身近な野菜もない。だが、菠薐草の漢字をあてるのは、知らなかった。もっと、びっくりなのは、これがイラン原産だということ。16世紀に渡来したという。世の中、知らぬことばかり。50年付き合っていても、自分のことも同じように、知らないのだろう。
あとで、改めて宣伝するけれど、第一詩集『耳の眠り』を出した。50歳にして、第一詩集というのは、なかなか、渋いんじゃないか、と思ったりもするのだが、献本した方々から、感想をいただく。これが、知らない自分に出会うようで、面白いのである。中には、自分の考える詩のイメージとまったく異なるので、戸惑ったという感想もあって、ぼくを嬉しがらせている。安心して読める詩は詩ではないからだ。意表をつかれたのは、朔太郎に雰囲気が似ているというご指摘で、大変驚いた。朔太郎は、ぼくの故郷の詩人だが、そして、好きな詩人でもあるが、まったく自分とは資質の異なる詩人だと決めていたからである。詩集を世に問うことは、旅をすることに似ているのかもしれない。
☆
Comme, jour aprè jour, j'ai vécu dans la compagnie du Suicide, il serait de ma part injuste ei ingrat de le dénigrer. Quoi de plu sai, de plus naturel? Ce qui ne l'est pas, c'est l'appétit forcené d'exister, tare grave, tare par excellence, ma tare. Cioran Aveux et Anathèmes GALLIMARD 1987 p. 48
ほとんど毎日のように、自殺のことを考えながら生きてきた。だから、自殺を悪く言うのは、わたしからすると、不当なことであり、恩知らずなことである。自殺以上にまっとうで自然なことがあろうか。自殺の反対を考えてみるがいい。それは、存在しようとするやみくもな欲望である。救いようのない病気、生まれつきの病気、わたしの病である。
■シオランは、生きようとする欲望は病だと述べているが、それが自分の病でもあること認めている点が面白い。自殺願望は、ぼくにもあるので、よく理解できる断章である(しかし、ニーチェが見たら、喜びそうな、いさんで飛びつきそうな断章でもある。シオランもぼくも、典型的な「できそこない」ということになろうかwww)。
もう、20年くらい前だろうか。あるところで知り合った人と、公園でよもやま話をしていて、人生でこれまで一度も自殺を考えたことがないと言いきられて、ある種の衝撃を受けた。たじろいだ。人間、30年も40年も生きていれば、世の中のさかしまさや自分自身の問題、家族の問題、仕事のことなどで、死にたくなる時があるのは普通だと思っていたからだ。そのまま、話が終わったら、ぼくは、衝撃の後に、激しい憎悪を抱いたに違いない。しかし、彼は続けてこう言ったのである。「自殺したいと思っている奴にコンプレックスが強くあるんだよな」これにも驚いた。こんな人種がいるのかと思ったものである。
理論は、いわば、このときの彼に似ている。死を考えない。忘れている。太陽の光の中にある。生きることが無条件の前提である。そして、どこか、月を恋うている。理論は、マルクスやヘーゲルのように、それが根源的であるほど、反逆性を帯びてくる。だが、かつてのぼくがそうだったように、理論が成立する「確実性」の外部にも人間は存在し、理論が存在する「世界」の外部にも、人間は存在する。理論は、このことを忘れがちである。シオラン(やパスカル)は、このことにはっきり気が付いている。シオランがマルクスについて、印象的なことを述べている。マルクスの著作のどこを探しても「死」についての記述がない、というのである。マルクスやヘーゲルのレベルの思想家は、当然、死についても、あるいは狂気についても、考えていたはずだが、理論化の対象とは考えていなかったふしがある(親友だったヘルダーリンの発狂に対するヘーゲルの対応を見ると興味深い)。ルカーチが全体性を言い、ヘーゲルが全体性を言うとき、こうした死や狂気は、どこに位置づけられるのだろうか。
これは、ヘーゲルを読むときの問題意識の一つにしたいと考えている。フーコーなどのポストモダニストたちが、「狂気」をテーマ化したのは、こうした背景があるからだろうが、狂気を語るその語り口は正気である。狂気を狂気で語る代わりに、デリダやフーコーの、あのわかりにくい文学的な修辞があるように思える。ちょうど、日本で、これに相当するのは、折口信夫だろうか。狂気に狂気で応じようとしたという意味で、アルトーやミショーにとても興味を覚える。どういうわけか、こうした理論の弱点に気が付くのは、フランス語圏の人が多い。これは偶然ではないと思う。明晰さの果てに狂気を自覚する...。
シオランは、良くも悪くも「大いなる子ども」である。文学だけでは子どものままだが、理論だけでは人間になれない。そんな気がするのである。
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3月2日(水)のつぶやき
2011-03-03 / 俳句
08:07 from web
Thank you Beth for RTs. @moonflowernco It's cloudy over here this morning. Cherry blossoms already start coming out.
by delfini_ttm on Twitter
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