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Cioranを読む(21)


■旧暦2月9日、日曜日、、春日祭

(写真)道・バーゼル

11日、東北太平洋沖大地震発生。集合住宅は、南北に相当揺れた。テレビはひっくり返り、電子レンジは、ラックから落ち、食器は8割以上が割れた。本は、ほとんど、本箱から飛び出してしまい、散乱状態。夜は、余震が凄かった。気象庁の緊急地震通報が、頻繁に携帯に入る。茨城沖など太平洋側を震源とする地震ばかりか、新潟・長野といった日本海側、神奈川沖まであり、同時多発の地震に囲まれて、とても、安眠できる状態ではない。しかも、福島原発は、茨城の北、千葉の隣々県である。さらに、ここから、すぐ北に茨城・東海村の原発、南に静岡・浜岡原発があり、余震という名の大型地震がふたたび来たときの、原発の状態が非常に気になる。設計どおりに機能しない「想定外」のことが多いのは、まさに原発システムの本質なのだろうし、自然の怖さなのだろうと思う。原発システムは、その安全システムも含めて、近代の奢りが集約されたものだと感じる。これについては、以前にも触れた。立地を前提に、原発以外に道はない、という政官財学マスコミのイデオロギー洗脳は、その意味で、罪の重い問題だろう。

余震は、500㌔にわたって起きている。しかも、地震エネルギーが未開放の地域で大きな余震が起きている。余震は、地震エネルギーのポテンシャルを示していると考えられるので、今後、長期間にわたって、緊張した日常を強いられるのだろう。

この三日だけでも、かなり疲労した。東北の被災者や高齢者、病者、身障者の疲労と緊張は、想像するに余りある。

夕方、入院中の叔母を見舞う。土曜日、退院の予定だったが、延期しておいて、良かった。堅固な鉄筋で、あまり揺れはなかったらしい。

計画停電や節電に協力が、キャッチフレーズみたいに、語られているが、違和感がある。これは、原発がない不便さのアピールに利用されやすいし、なぜ、「計画停電」(実に無計画な停電である)をする必要が生じているのか、考えなくさせてしまう。それを考えても、今は、仕方がないという現実的思考、あるいは心優しき感情論、別名、思考停止が、現在の計画停電を生んでいるとも言えるからだ。そもそも東電の電力市場独占が、こういう事態を招いているのではないのか。もっと地域ごとに、独自の電力エネルギーを供給するシステム(もちろん、原発ではない)が存在できれば、計画停電も原発リスクも回避できたのではないだろうか。電力自由化は、リスク管理の上からも重要なのだと思う。



Ces enfants dont je n'at pas voulu, s'ils savailent le bonheur qu'ils me doivent Cioran Aveux et Anathèmes p. 17

わたしが望まなかった子どもたち。彼らが、わたしのおかげでどんな幸福を手に入れることができたか、わかってくれたら!

■幸福は、不幸があってはじめて成立する。幸福と不幸は相補的である。光と影のように。生まれない、というのは幸福なのではなく、無なのだと思う。無を望むのはわからなくはないが、幸福を望むのなら、不幸を怖れても仕方がない。




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3月12日(土)のつぶやき

01:29 from web
spring earthquake// all books rebel/ against words #haiku #poetry #fhaiku
01:59 from web
@haiku_shelf Thank you Angelika for RT. I'm OK. I just finished cleaned up rooms where all dishes and books rebelled.
by delfini_ttm on Twitter
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一日一句(53)






春の雪水上勉旧居跡










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