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Cioranを読む(20)


■旧暦2月6日、木曜日、、東京大空襲忌

(写真)道・ラヴォー地区

さすがに、諸々で疲れてこのところよく寝ている。深蒸茶を相当量、毎日、飲んでいるせいか、眠ると、疲れはかなり取れる。疲れが残らない。この調子で行こう!

スイスの詩人・作家、ロミー・リーさんにも詩集を献本したのだが、とても面白がってくれ、日本語の詩にも関心を示してくれた。自分が読めないのを残念に思っている。そこで、思いついたのだが、『耳の眠り』の日本語詩の英語版あるいはドイツ語版を作ってみようかと。面白い詩的な経験になるだろうし、今後の出発点にもなる気がしている。『耳の眠り』のことは、いったん、忘れて一から始めるつもりだったので、ここに入っている詩を別の言語に置き換えることで、なにか「忘れる」行為に資する気がしてきたのである。矛盾しているようだが、そう感じるのである。



《Je suis un lâche, je ne puis supporter la souffrance d'être heureux.》
Pour pénétre quelqu'un, pour le connaître vraiment, il me suffit de voir comment il réagit à cet aveu de Keats.S'il ne comprend pas tout de suite, inutile de continuer.
Cioran Aveu et Anathèmes GALLIMARD 1987 p. 13

「俺は小心者だ。幸福の苦しさに耐えられない」
ある人の正体を見破ろう、本質を理解しようと思ったら、キーツのこの言葉にどう反応するか見てみればいい。すぐにピンと来なければ、それ以上、話しても無駄である。


■この断章で、シオランが判断しようとしているのは、ある人間の「lâche」(小心さ)ではない。その人間の苦悩の深さである。キーツが幸福に苦痛を覚えるのは、とりたてて、キーツが小心だからではなく、心身の不調に悩まされ続けて、苦悩が日常だからである。そういう人間だからこそ、「être heureux」(幸福であること)に敏感なのである。この正反対の状況が「幸福は、失われて始めてわかる」という言葉である。そこには、苦悩の影は薄い。シオランは、巧みに世の中を渡ってきた薄っぺらい野郎と話してもしょうがないと言っているのである。



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3月9日(水)のつぶやき

05:56 from web
@beezknez Thank you Beez for reading my book. It's good you have a good fun with my book. I' thinking about the next poetry book these days.
05:57 from web
Many thanks for many RTs. @gennepher @amoz1939 @Serarc @beezknez
by delfini_ttm on Twitter
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一日一句(50)






警官の猫背はをらず陽炎へる





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