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「世論」についての雑感

■旧暦6月18日、木曜日、

(写真)無題

今日は、荒れ模様の天気だった。夜は、雨が上がって、湿気のない風が心地いい。



政権の交代ではっきりしてきたことの一つに「世論の問題化」があるように思う。面白い定義を広辞苑は世論に対して行っている。「世間一般の人が唱える論。社会大衆に共通の意見」この定義が、いかに、成立しないものであるかが、はっきりしたのが、ここ数カ月だったと思う。鳩山政権時代、狂ったように、事あるごとに、繰り返された「世論調査」は、世論を客観的に反映したものではなく、「世論」を操作・誘導することを目的にした政治的なものである。端的に言って、「思いやり予算の増額を米国が求める」というニュースの直後に、世論調査した機関は一つもない。世論調査を、対抗勢力の弱体化のために、政治的な目的で使うやり方は、めずらしいことではなく、社会運動に賛同したマスコミが世界的な世論調査を行って、社会運動を成功裡に導いた東チモール独立支援運動のような、日本とは、正反対の事例もある。

世論は、それ自体として、認識できるものではなく、「世論調査」という媒体を通じて把握できるものである。しかし、だれが、世論調査をしているのか(世論調査の背後の社会関係は何か)、どのタイミングで行っているのか、どんな内容で行っているのか(たいていに、非常に稚拙な二者択一式質問である)、どんな統計処理をしているのか、は、詳しく報道されない。内閣支持率が下がった、不支持率が上がった、という思考停止させるコピーのような報道のし方がほとんどである。

「世論」は三権分立の思想と関わり、三権分立が実質的に機能するのは、相互に権限が独立しているという法的規定によるのではなく、相互に構成員を選択したり、解散したりできる、相互チェックシステムがあるからである。この三権分立の中で、国民の位置がもっとも弱いと思う。国民は、三権に対して、「選挙」と「世論」という形で関与するしかない。「選挙」が、一票の票の価値の格差が異常に大きくなった参議院選挙でも明らかなように、制度として、かなり不備がある。「世論」にいたっては、大手の情報産業が、どうにでも加工・操作・誘導できる事態になっている。「世論」は、そこに客観的にあるものを正確に写し取るのではなく、マスコミが作り出し、一定の方向に誘導するものになっている。

国民が、三権分立のシステムに何らかの影響力を行使できるとしたら、選挙、世論以外には、「社会運動」という媒体の可能性が考えられる。しかし、大手マスコミのカバレッジは意図的に少ない。マスコミは、社会的認識のカテゴリーを作りだしている社会的諸力の一つであるから、報道されないことは、社会的に存在していないことと同義に近くなる。なぜ、報道しないかは、過激だとか、イデオロギー的だとか言う以前に、商品の論理に基づいて作られる既存の「社会的カテゴリー」を解体する力を秘めているからだろう。

パスカルは、世論について、興味深い指摘をしている。「この世の主人は力であって、世論ではない。しかし、世論は力を用いる主人ではないか。力が世論を作るのだ」パスカルのこの言葉は、17世紀の絶対王政の時代のものであるが、「力が世論を作る」というくだりは、現在でもアクチャリティを失っていないと思える。



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