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蕪村の俳句(52)

■旧暦6月8日、月曜日、、海の日

(写真)無題

参議院選挙は、比例区では、社民党の保坂さんに、選挙区では、民主党の女性候補に入れたのだが、両方とも落選してしまった。そもそも、民意の反映とは何のか、という問題は、選挙制度との関連で詳しい分析が必要と思うが、ぼくが、今、感じている点をざっくりと記しておきたい。それは、「イメージと論理」というテーマにくくれるように思う。民主主義は、多数決という意思決定の形式ではなく、合意形成のプロセス自体にあるとぼくは思う。そこで、用いられるのは、言語であり論理である。論理に基づいた説得が基本だと思う。したがって、時間がかかるのは、まともな証拠である。一方、われわれは、異常な時間の速さの中を生きている。何事にも、時間をかけられない現実がある。市場の拡大化と時間の加速化は、一体的に起きている。普天間基地問題の解決に、「期限を設ける」、しかも、短期間の、という発想が、この間の消息をよく物語っているように思う(「米国の圧力」という実体的な見方では、なかなか、現実を全体的につかまえ切れないと思う)。もともと、民主主義が機能する条件はあったのかどうか、という問題は、あるにせよ、本来的な意味での民主主義が機能不全に陥る条件は、ますます強くなっているのは確かだろう。

イメージや、感情、感覚といった要素は、もともと、人間の生活の中に不可分にあるもので、論理が学ぶものであるように、イメージや感情や感覚も、学習プロセスと切り離せない。われわれは、どういうとき、どう感情表現するかを、ある面、学習する(これは、自主的なものとは限らない。笑われたり叱られたり、共感されたりしながら)。しかし、いったん、習得されると、議論を媒介にしない分、反応が早い。現代の市場化・時間の加速化は、人間の理性的な領域よりも、イメージ・感情・感覚領域の方が、親和性ははるかに高い。人間の精神性が、全般的に、低くなっているのも、このことと関係があるように思う。また、投票率の低下傾向も、このことと深いところで関係があるように思える。

議論による説得からイメージによる説得へ、かなり前から、民主主義は変質しているように思う(これは、日本独特の現象ではないはずである。むしろ、諸外国の方が、日本のイメージ民主主義に追いついてきたように思われる)。キャッチフレーズのように、言語自体も、イメージの一要素になっている。イメージや感情、感覚の方が理性よりも下位にあると言いたいのではなく、現代の市場と理性は親和性が低く、市場に浸食されていると言いたいのである。むしろ理性自身もその基盤は、非合理的なものにあると思う。

マスコミのように、大がかりな、「社会的なイメージ操作」を、情報商品の論理で談合的に行うことは、ずっと以前から行われてきたはずだが、経済成長が続き、パイが増え続ける中では、問題化しなかった。人口の減少が続き、経済成長が大きく見込めない中で、再配分率だけは変えないという姿勢のために、大きく可視化されてきているのだと思う。こうした勢力のもう一つのエージェントは、検察である。検察は、もともと、自己義認の組織であるから、正義の射程は短い。しかも、実証主義的な手続きに立脚して、法廷ゲームを通じて、「事実」を構成する社会機関の一つである。実証主義は、positivismであるように、所与を所与として、肯定していくところから出発する。正義がpositivismを振りまわしている図は、どこか、盾と矛の話を連想させる。

(続くかもしれない)



さみだれのうつほばしらや老が耳   明和六年

■蕪村、このとき53歳。「うつほばしら」とは御所にある雨水をとおすために空洞になった柱のこと。老が耳には、その柱の音のような耳鳴りが始終鳴っているという。蕪村が耳鳴りだったというのは、この句で初めて知った。老化による血行不順が原因ではないが、ぼくもひどい耳鳴りに、とくに、この季節、悩まされるので、興味を持った。

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