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ドイツ語の散文家たち:Lukács「歴史と階級意識」(4)

■旧暦11月1日、木曜日、、新月

(写真)江戸川

朝6時に起きて、一作業済ませて、クリーニングなど取りに外出。今日は、温かいいい冬日和だ。パン屋でドイツの焼き菓子Stollenシュトレンを購う。ちと、値が張ったが、たまにはいいだろう。午後、江戸川をウォーキング。天気がいいので、釣り人やジョガーも。仕事、仕事。

このところ、状況がdeepを極め、これに拮抗すべく、やはりdeepな一茶を連続して読んできたが、毎日、ウォーキングを3、40分行うことで、身体的に、この状況に拮抗できそうな感触を得た。きつい現実に元気が出ないのは変わらないのだが。

ドイツ語でも俳句をぼちぼち作り始めたのだが、どうも、晴朗な句ができない。それはそれで、いいのかもしれないが、ドイツ語の俳句で「笑ふ」というのが、まだ想像できない。何らかの「深み」を表現するのに適した言語なのかもしれない。ぼくの句ができているわけじゃないけれど。ご興味のある方は、Delfini Workshop Ⅲへ。



ルカーチは、原文がまだ入手できていない。マルクスのように無料でダウンロードできればいいのだが、まだ、ルカーチは著作権があるのかもしれない。しばらくは、日本語の翻訳を頼りに検討してみたい。


歴史を「社会学的」に合法則的に観察したり、形式主義的に合理的に観察する仕方の中にこそ、ブルジョア社会の人間が、その本来の性質を失って生産諸力と対しているというあり方が、まさにあらわれているからである。マルクスによれば「かれら自身の社会運動が、かれらの目には、諸物象―かれらによっては制御されないで、かれらを制御する諸物象―の運動という形態をとる」…(中略)…マルクスによれば、資本(ならびにそれもふくめて国民経済学のあらゆる対象性の形態)は、実は「ひとつの物象ではなくて、諸物象によって媒介された人格と人格とのひとつの社会関係である」
   (ルカーチ『歴史と階級意識』階級意識とは何か 平井俊彦訳 未来社 p.276)

■まず、違和感を持つのは、「ブルジョア社会の人間」という表現で、ブルジョア対プロレタリアートという不毛な対立図式をどうしても思い出す。ここでの議論は、現存社会に生きる人間という意味に理解した方がストンと腑に落ちる。資本を始めとした国民経済学の対象は、客観的な法則性をもった対象として現象するが、その本質は、人間の社会関係だという洞察は、納得できる。ただ、この洞察がどういう実践的な意味を持つのかよくわからない。物理的な暴力を伴わずに、しかも、理性を物象化せずに、国家社会主義ではない形の社会関係の組み換えが可能なのかどうか。



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