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蕪村の俳句(27)

■旧暦11月5日、日曜日、

(写真)鷺?

今日は、いい天気だった。終日、ぼーっとしていた。ウォーキングに出るつもりだったが、用事にかまけてタイミングを逸する。昨日は、夕方から、哲学塾。アウグスティヌスとトマス・アキナス、デカルトとスピノザの話を聞く。興味が尽きない。その後、忘年会。

西欧の学問(science, Wissenschaft)には、確実性、厳密性、論理性、規則性、明証性への強い志向が見られるが、こうした特徴の根底には、ある種の「不安」があるように思われる。合理主義は、非合理なるものに支えられているからだ。それを、一言で言うと、「神が存在しなかったらどうしよう」という不安のように思われる。

理神論は、弁証法的に無神論を生み、無神論は科学主義を生んだが、神の位置に科学が座ったものが科学主義で、そのダイナミズムは、まったく同じ、という気がする。

学問(science, Wissenschaft)の本質は、認識運動であるから、存在論への回帰という20世紀末からの現象は、哲学への回帰である以上に、学問の行き詰まりを表しているのだろう。

学問のベクトルを全部反転させると、不確実性、寛容性、非論理性、非規則性、非明証性といったものになり、東洋的なるものの輪郭に近くなる。ただ、恐らく、東洋的なるものの本質は、言語以前あるいは言語以降にあるのだろうけれど。

学問(science, Wissenschaft)をしてきたのは、教会の坊さんであるから、無神論は自己否定であると同時に、社会秩序の否定であったはずである。

帰りの電車の中吊りを見ていたら、週刊文春が、「鳩山と小沢は天皇に土下座しろ」と声を荒げている。この興奮ぶりは、理神論者の必死ぶりとどこか似ている。その滑稽さは、時代錯誤にあるのではなく、市場原理主義者のできの悪い操り人形である点にある。




凩や広野にどうと吹起る
   明和5年

■凩が広野に生まれる瞬間を「どう」と捉えていて、惹かれた。この音自体は、今から見ると、新しい使い方ではないが、広野と組み合わされていることで、広野が本当に広く感じる。



Sound and Vision


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