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芭蕉の俳諧:猿蓑(48)

■旧暦11月7日、火曜日、、冬至

(写真)巣

今日から冬期講習に入るので、翻訳との兼ね合いが難しい。なかなか、くたびれる。この局面は、ジャクソン・ポロックの翻訳を最優先に進めるつもりでいる。寝る前は、ウィスキーを飲みながら、好きな本を読んで、ひたすらクールダウン。今日は、冬至なので、柚湯に入った。

ポロックの本は、oral biographyという方法を取っている。関係者へのインタビューだけで、ポロックの生涯と家族を浮かび上がらせている。始め、なんという細かいめんどうな本だろうと思っていたが、これは、もしかしたら、相当、衝撃的な本ではないかと考えるようになった。というのは、部分あるいは末梢的な事柄にこそ、ポロックの真実が現れているという、きわめて、日本的で非西欧的な方法意識に支えられているからだし、部分から至ろうとする全体は、まったくの不在であるからだ。あるいは、そうした全体性を放棄しているとも言えるかもしれない。

また、関係者は、ポロックその人や、その父母について、具体的で生き生きしたディーテールを、思い出として語るが、その豊富なエピソードの中に現れていないことは何のか、そして、語っている当人は気がついていないけれど、触れてしまっているものは何のか、実は、そこが大きなポイントなると思っている。oral biographyという方法が、いつから、どのように始まったのか、じっくり調べる必要があるが、この方法のアクチャリティは、解説で触れる価値が十分にあると思っている。

ポロックその人の芸術ということで言うと、今まで、ポロックは、現代美術史の文脈の内側で語られることが多かった。だが、ポロックは突如として、彗星のように現れたわけではなく、それを準備した社会的条件、空間的条件、歴史的条件があるはずである。そうした条件総体との関わりの中で、いかにポロック芸術を再構成できるか。ここがテーマとしては、大きなものになると思っている。そうした諸条件を具体的に提供するのが本書の隠れた役割なんだと思う。

ぼくのかすかな記憶では、oral biographyつまり聞き書きという方法は、現象学とつながりがあったように思う。現象学は、歴史すなわち、社会と自然が欠落している。ここに出てくる社会や自然を、ポロック芸術を規定する条件として、読み替えることで、見えてくるものは何か、と問うことにもそれはなるだろう。

この本のことを初めてU氏から聞いた8年前、ぼくは、「売れないだろう」としか思わなかった。今、翻訳に着手してみて、上記のような価値がかすかに見えてきたところである。




青天に有明月の朝ぼらけ
    去来
湖水の秋の比良のはつ霜
    芭蕉

■この二つの句が作りだす世界は、その前と打って変って、すがすがしい秋の景になっていて、その変わり方に驚く。歌仙は、基本的には、それまでに巻かれた世界全体を前提にするのではなく、基本的には、直前の世界に付けるものなのだろうか。このあたりが、まだよく見えない。



Sound and Vision

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