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Richard Wrightの俳句(71)

■旧暦10月14日、火曜日、

(写真)秋の山

日曜日は、先生のみえた句会だった。非常に勉強になる。「切れ」のニュアンスの違いについて、これ以上ないくらい明解な解を与えていただく。披講する関係上、先生の隣に座るので、毎回、ひとつ、質問してみることにしている。今回は、歌仙について尋ねてみた。芭蕉の発句の「間」と歌仙の「間」には密接な関係があることがわかった。芭蕉の歌仙から俳句は何を学べるか。言葉の使い方の自在さだけでなく、「間」の自在さ。これが、今後、芭蕉の歌仙を検討するときの問題意識になる。「間」を理路で理解しようとせず、「体得する」ように、というのが先生のご指示だった。「体得」には、心身全体を使った読み込みが有効ではなかろうか。

理路との関係で、もうひとつ、重要なお話があった。それは禅(とくに、道元の「碧厳録」)と関係している。われわれにとって世界は今あるように現象しているが、はたして、本当にそうなのか。時代の拘束を受けた小さな理性(あるいは意識)の枠を外すと世界はどう現れるのか。先生は、これを、「自分の心の動きに気づいて詠むように」と述べられている。また「それは日常生活の中で常にやっていること」とも述べられている。前頭葉型の人間のぼくとしては、これが、俳句の一番の壁かもしれないと感じている。このお話は、一句で応答するしかないので、道元の思想などを参考に試行錯誤を重ねてみるしかない。




Standing in spring rain,
The hitchhiker has a stance
That nobody trusts.


春雨に立つ
ヒッチハイカー
あんな態度じゃ誰も止まらない


(放哉)
春雨や磯分れ行く船と傘


■上の話を書いた後で、ライトの俳句を読むと、やはり、これは三行詩だなと感じる(正確に言うと翻訳された日本語読むと)。西欧には西欧の歴史があるので、言い回しや表現の上澄みだけをまねても、はやりどこか薄い俳句になってしまう気がする。どこをどう学ぶのか。そもそも、日本語の俳句にとって欧米の俳句は学びの対象になりえるのか。いっけん、理性の総本山のように見えながら、実は、どこか、日本語の俳句の底流と共鳴するものがあるのではないか。だから、書き手も多いのではないか。そんなこんなを考える。ライトの俳句も、翻訳して終わりじゃなくて、原句を読み込むと、また違った世界が立ち上がるかもしれない。ライトの句、The hitchhiker has a stance/That nobody trusts/の表現が面白く惹かれた。放哉の句、「磯分れ行く」という動詞と、「船」と「傘」の対比が面白かった。

Sound and Vision

Claudio Arrau - Beethoven Sonata No. 32 - 2nd Mvmt. (1/2)
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